悪虐令嬢、触るな危険
「私……ずっと黙っていようと思っていたんです……でも、でももう、耐え切れなくて……アスター様に頼るしかないんです……」
儚げな見目の美少女が目の前で泣き始めたその時、アスターはとりあえず『とんでもなく面倒なことになったな』と思った。が、何とか顔には出さずに済んだ。
気丈に振る舞おうにも耐え切れない、という演出が非常に巧みな様子で涙を零す少女の名を、アスターは正直あまり覚えていない。興味がないというのもあるが、何よりミューリアが『関わるな』と言っていた少女だからである。
此方からは関わらないようにしているのに向こうが勝手に関わってくる場合はどうすればいいのだろう。アスターは静かな場所を求めて裏庭で本を読むことに決めた三十分前の自分をひどく恨んだが、もはや後の祭りであった。
「実は私の教科書が切り裂かれていて……こんなこと、言いたくないんですが、私の鞄をミューリア様が……ぐすっ……漁っているのを見た、という人が……」
無いな、とアスターは思った。が、やはり顔にも声にも出さなかった。
ミューリア・ベルスタインはそんなまどろっこしいことをするなら雇った暴漢に路地裏で本人を切り裂かせる女だぞ、とも思ったが、言葉の欠片すら音にはしなかった。面倒だからである。
あと多分、鞄を漁るなら誰か適当な手駒にやらせるので、絶対に本人が見掛けられることもない。そもそも教科書だけを切り裂いたりもしない。
ミューリアは、自分が気に食わないものは本気で傷つけても構わないと思っているし、アスターは実際『不慮の事故』で学園から消えた生徒を何人か知っている。
「制服にも手が加えられていて……スカートに剃刀が……私、怖くて……もうアスター様しか頼れる方がいなくて……」
多分僕にも頼らない方がいいな、と思ったが、アスターは意地でも言葉にはしなかった。こんな風に二人でいるところを見られればスカートに剃刀どころではなく、僕と君の首にギロチンが当てられるぞ、とも思ったが、全身全霊をかけて聞こえないふりを続けた。
「お願いします、アスター様! どうか助けてください、ミューリア様がいると知りながらアスター様に思いを寄せた私にも原因があることは分かっています、でも、これはあまりにもひどすぎます……!」
仮にそれらがミューリアの仕業だとしたら、かなり、大分、非常に、限りなく軽い部類じゃないか、と思ったが、アスターはもはや口を開くことどころか思考することすら面倒になったので全てを放棄することにした。
見目麗しい少女は目に涙を溜めながら両手を組んで震えていたが、アスターは広げた本の文面を追っているふりを続けて沈黙を貫いた。
黙っているうちに消えてくれないかな、と割と本気で祈っていた。
十ページ読んでも消えていなかったら僕がこの場から去ることにしよう。
そんな現実逃避に励みながらページをめくっていたアスターは、不意に白く小さな手が己の手に重なったのを見て、突然手のひらに毛虫が落ちてきた時の令嬢と大凡変わらない顔をしてしまった。悲鳴を上げなかっただけマシである。
「アスター様がミューリア様に恩義を感じていることは分かっています……ですが、不用意に他者を虐げる女性と添い遂げて幸せになれると思いますか? アスター様にはもっと心根の優しい、清らかな女性が似合う筈です」
まさかそれが自分であるなどとは言わないだろうな、という文言が口から出かかったのを意地でも飲み込んで、アスターはあくまでも自然に、元からそのようにするつもりでしたよ、とでも言うかのような仕草でその場から立ち上がった。無論、さりげなく少女の手を振り払うのを忘れずに。
栞を挟んで本を閉じ、小脇に抱えてベンチから離れる。あっけに取られた様子でアスターを見ていた少女は、慌てて彼の後を追った。
「待ってください、アスター様! 私の話を信じられないというのなら、証拠があります!」
証拠なんてない、と断言できた。切り裂かれた教科書も、スカートに仕込まれた剃刀も、特に証拠にはならない。いくらでも自演が可能だからだ。
それに、そもそも、ミューリアが本気でこの少女を害するつもりなら、証拠自体が残らない。少女本人を含めて。
頼むから僕のそばから離れてどこか別の男に興味を持ってくれ、とアスターは何度目になるかもわからない祈りを神へと送った。多分叶えてはくれそうになかった。神がアスターに与えたものは類まれな美貌とそれなりの家柄、ごく平凡な出来の頭脳、そして、この世で最も厄介な婚約者のみである。
アスター・グランバルツがミューリア・ベルスタインと婚約するに至った理由は家同士の事情を含めて幾つかあるが、公爵家令嬢である彼女が子爵家令息のアスターを気に入ったのはその美貌故である。少なくとも、アスターはそのように認識している。
五年前、ミューリアは令息を幾人か呼んだ茶会の中で、一人離れた場所で持ち込んだ本を読んでいたアスターを指して言った。『あれがいいわ、一番見目がいいもの』と。
ミューリアに気に入られようとあれこれ媚び諂っていた男たちからは当然睨まれたが、実際のところアスターの見目は他を圧倒するほどには整っていたので、じきにほとんどの令息が諦めたようだった。
それ以来、アスターはミューリアの所有物だ。アスターはミューリア以外の令嬢と話すことを禁じられているし、ミューリア以外を愛してはならないことになっている。
生来人付き合いが苦手なアスターからすれば逆にありがたいこともあるのだが、何せ見目が異様に整っている男である。相手があのミューリア・ベルスタインだと言うのにアスターに懸想する令嬢は後を絶たない。
その度にミューリアが必要もない牽制に動くので、アスターは何度か自分の顔を潰そうかと考えたことがあるが、そうなるとミューリアがアスターと婚約を結び続ける理由も無くなるため、その案は実家から直々に却下されていた。
グランバルツ子爵家は、何が何でもベルスタイン公爵家との繋がりを断ちたくはないのだ。文官であるアスターの兄が王城内でのし上がるためには公爵家の後ろ盾が必要なのである。そして、家族は全員、役にも立たない娯楽本ばかりに夢中なアスターより、優秀な兄の方がよほど大事であるわけだ。
ほとんど身売りに近い扱いであることに、アスターは特に不満を抱いたことはない。
政略結婚という点においては大抵の家の令嬢はアスターと同じような扱いを受けているし、ミューリアは確かにとんでもなく悋気の強い女性だが、アスターを気に入っていて、ある程度自由な生活を保証してくれることは確かだからだ。
あとは結婚して子を成し、ミューリアが老いたアスターに飽きて捨てるまで公爵家の婿として暮らしていればいい。何ならミューリアは案外情のある女性だから、もしかしたら愛人を作っても家に置いてもらえるかもしれない。
アスターの人生設計は概ねそのように固まっていた。あとは魔法学園を平穏無事に卒業するだけである。
それがとんでもなく難しいんだが、というのがここ数年続くアスターの悩みであった。
言いつけ通り、アスターからは断じて手など出していないし会話もしていないが、いつミューリアに誤解されて、声をかけてきた令嬢ともども『不慮の事故』に巻き込まれるか分かったものではない。
できれば無事に寿命を全うしたい。基本的に信念も目標もなく生きているアスターのただ一つの願いがそれだった。
それを叶えてくれるのならなんだってする、頼む、なんだってするぞ、とまだ見ぬ神に祈っていたアスターは、裏庭を出ようと旧校舎の周りを回るように曲がったところで、『神などいない』と確信した。
「あら、アスター。素敵な御令嬢ね、デート中かしら?」
「…………ミューリィ」
曲がり角で出くわしたミューリアは、アスターとその後ろにいる少女をしっかりと視界に収めると、美しい顔に柔らかな笑みを浮かべてみせた。明るく弾むような声音が逆に恐ろしい。
出会い頭に刺されなくってよかった、とアスターは半ば本気で思っていた。ミューリアはいつも護身用と称して、ダガーナイフを懐に仕舞い込んでいる。おそらく刺されたら絶対に助からない。
お抱えの鍛冶屋に作らせた特注品だとかで、捻れた刃は刺し入れると肉を捻じ切って進み、引き抜けば周辺の肉を巻き込んで引きずり出し、絶対的な致命傷を与えるのだ。
そんな恐ろしいものを持ち歩かないでほしい。アスターは心の底から願っていたが、口に出すことはなかった。刺されたら嫌だからである。
「アスター? どうしたの? そちらの可愛らしい、素敵なお嬢さんを紹介してくださらないの?」
艶やかな銀髪を軽く払い、氷のように冷たく光る碧眼を無理やり笑みの形に変えているミューリアは、黙り込んだままのアスターをどこまでも落ち着いた様子で見上げていた。あまりに落ち着き払っていて怖くなってきたので、アスターはそれとなくミューリアの手がダガーナイフの仕込み位置にないか確認した。
さて、困った。どんな答えが一番ミューリアのお気に召すだろうか。
流石に此処まで不躾に距離を縮めてきた令嬢はいなかったので、ミューリアが何処まで怒っているのか想像もつかない点が特に困る。
しかしこのまま答えずにいたら、それこそアスターの腹にはナイフが生えることになるだろう。ついでに引き抜かれたりもするだろう。とんでもなく痛いに違いない。
刺されるのだけは絶対に嫌だった。アスターは表面上はあくまでも平静を装った顔のまま人生史上最高速で頭を回転させ、答えを出した。
「お嬢さん? 誰かいたかな。僕はずっと一人で本を読んでいたんだけど」
全力のすっとぼけであった。アスター・グランバルツ、一世一代のすっとぼけであった。ただのしらばっくれでは済まないレベルで、アスターは後ろにいる少女の存在を全ての意識から追い出した。
そんな女はいなかったのである。いたとしてもアスターの世界には存在しなかった。
アスターは全力のすっとぼけでもってミューリアに表明した。『認識もしていなかった存在と二人でいたからといって君に責められる謂れはない』と。
しれっとした顔で告げたアスターに、ミューリアはその美しくも冷えた瞳を、虚をつかれたように瞬かせた。
吊り目がちな作りをしている彼女の瞳が、単純な驚きから丸く開かれる。そうしていると攻撃的な印象が少しだけ薄れ、顔立ちがやや幼くなる。
いつもそういう顔をしてくれれば可愛いんだけど、とアスターは思ったが、やっぱり口には出さなかった。基本的に喋りたくないのである。
「やだ、アスターったら。そんなことを言ったら可哀想だわ、こんなに愛らしいお嬢さんが目に入らないだなんて」
機嫌よく笑ったミューリアが、アスターの肩を軽く咎めるように叩いた。
そのまま喉を鳴らして笑い続けるミューリアの顔には先ほどまでの冷えた殺意はない。ひとまず命が繋がった、とアスターはほっと息を吐いた。
肩を叩いていた手は、いつの間にかアスターの腕に絡んでいる。どうやらこのまま『お嬢さん』には触れずにこの場を後にすることに決めたらしいミューリアは、アスターを連れて戻ろうと足を進めた。
と、いうところで、後方から声がかかった。
「ミューリア様! お話があります、聞いてくださいますか!」
勘弁してくれ、と叫びそうになったが、アスターは奥歯を強く噛み締めることでなんとか堪えた。アスターはあんな『お嬢さん』は知らないのである。認識もしていないのである。ゆえに反応はできない。反応したら負けである。脇腹にダガーナイフがずぶりである。絶対に嫌だった。
機嫌を伺うように、頭一つ分小さいミューリアの様子を横目で確認する。機嫌よく笑みを浮かべていた筈の彼女の目には、まるで害虫を見るかのような侮蔑が凍りつくような輝きとして宿っていた。
アスターには、彼女の右手の位置にまで目を配る勇気はなかった。故に、それとなく彼女を促すだけに留めた。
「行こう、ミューリィ。ほら、この間出来た新しい店に行きたいって言ってたじゃないか」
「覚えててくれたの? 嬉しいわ。そうね、行きましょうか」
どこのどんな店だったかは忘れてしまったが、行きたいと言っていたことだけは覚えていた。女性の好きな店は店名もメニュー名もややこしくて覚えていられないのだが、ミューリアが行きたがっていたことだけは覚えていた。
途端にパッと明るく顔を輝かせるミューリアに、アスターは内心で胸を撫で下ろす。
過去の自分に賞賛を送りつつ、更なる機嫌取りにミューリアの肩を軽く抱いておく。普段はしないアスターからの接触に、ミューリアは完全に機嫌を直した様子で嬉しそうに微笑んだ。
が、その笑みはすぐに凍りついた。
「またそうやってアスター様を縛り付けるおつもりなのですか!? そんなものは真実の愛ではありません! アスター様を解放して差し上げてください!」
死にたいのか貴様……と思ったが、もはやアスターは何も言えなかった。何も言う気にもなれなかった。頼むから黙ってくれ、とすら言えなかった。
アスターが穏便に済まそうとしているのが分からないのだろうか。高位貴族の令息を次々と虜にしている、という彼女の噂は聞いていたが、愛されることに自信を持ちすぎるとああなってしまうのだろうか。
アスターはもはや目眩すら覚えながら、それでも婚約者を殺人犯にするわけにはいかない(意外にもミューリアは殺人だけは犯したことがない)(『死体の隠蔽って面倒なのよ』だそうである)、とミューリアを促した。
「早く行こう、人気のお店なんだろ?」
「先に行っててくださる? 私、用事が出来てしまったの」
「…………いや、僕も残るよ」
絶対に二人きりにしてはいけない。あの少女はどういう訳か自分がアスターに愛されると信じて疑っていない様子なので、このままいけば際限なくミューリアの神経を逆撫でするだろう。
他のどんな事柄でもミューリアは意に介したりはしないが、アスターに関することだけは別である。
『ミューリア様はアスター様にはふさわしくありません』などとでも口にした日には、それはもう、当然ダガーナイフだ。刺して捻って引き抜いて、こちらが新鮮な少女の遺体でございます、だ。
それだけはどうにかして回避しなければならない。別に、ベルスタイン家ならばあんな少女一人簡単に消してしまえるが、単純に、アスターの心情として嫌なのである。
確かに婚約のきっかけはミューリアがアスターの顔を気に入ったからでしかないし、扱いだって所有物の一つみたいなものだが、それでも五年も共に過ごしていれば情も湧くし、好きな部分だって出てくる。
婚約者に人を殺してほしい人間が何処にいるのか。しかも意味不明な物言いで勝手に近づいてくるような頭のおかしい女なんて、絶対に手にかけてほしくない。
加えて言えば、ミューリアに人殺しの経験をさせたくない、というのもあった。一人殺したらあとは何人殺そうと一緒になったりするかもしれない。そうなると、アスターを刺す時のハードルが下がるかもしれない。それは困る。非常に困る。とんでもなく困る。
ので、アスターは早急にこの少女のことをミューリアの頭の中から追い出す必要があった。
「ミューリア様の横暴は婚約者に対するものではありません! その上、気に入らない人間に嫌がらせをするだなんて……とても公爵家の御令嬢のすることとは思えません! アスター様にはもっと相応しい方が────」
太腿の仕込みナイフに伸びかけたミューリアの手を、アスターは咄嗟に手首を握って引き寄せた。絶対にナイフには届かないようにしよう、と思いから顔の近くまで持ち上げてしまったので、引き寄せられたミューリアは、アスターと正面から密着する形になった。
明確な憎悪を持って少女を睨んでいたミューリアが、呆けたような顔でアスターを見上げている。それはそうだろう。アスターは今までミューリアからのアクションに応えるばかりで、一度も自分から動いたことはないのだから。
しかし今は動かなければならない。どのようにすればミューリアが喜ぶのかわからないので好きにさせておいたほうがいい、などと言っている場合ではないのだ。
「ア、アスター? どうしたの、ねえ、は、離して」
「嫌だ。君は離したらあの女のところに行くつもりなんだろう」
しまった、存在に言及してしまった、と思ったが、ミューリアは特に気にしていないようだった。
絶対に離さないで済むように、ミューリアの腰に腕を回して固定しておく。普段は雪のように白い頬が、途端に紅色に染まったが、アスターは密着したせいで微かに感じるナイフの感触があまりにも恐ろしいせいで少しも気づかなかった。
「君が行きたい店に行こうって誘っているのに、どうして無視するのさ」
「む、無視なんてしてないわ……だって、仕方ないじゃない、あの女が腹立たしいことを……」
「何か言ってた? 僕には君の声しか聞こえなかったな。ミューリィは違うの? 僕と出かけるよりも此処に残る方が大事?」
こうなったらもう強引にでも押し切るしかない。覚悟を決めたアスターは、これまでの人生で最も真剣な顔でミューリアに詰め寄った。
ミューリアはアスターのことをまるで所有物のように扱うが、少なくとも気に入ったから側に置いているのである。
出過ぎた真似をすれば最悪刺されるかもしれないが、不躾な無礼者を始末することよりもアスターと共に美味しいパンケーキでも食べに行く方が有意義だと思わせることができれば勝機はある。
「アスター……違うわ……私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ僕と一緒に行ってくれる?」
一刻も早くこの場を離れなければならない。鬼気迫る思いはアスターに常日頃はない必死さを宿し、普段はやる気なく発せられる声にも切実な響きを持たせた。
結果、甘く囁くような声で尋ねることとなったアスターに、ミューリアは何かが喉に詰まったように息を詰めると、彼女にしては珍しく、非常におとなしい仕草で小さく頷いた。
同意は得た。アスターの勝利である。助かった。助かったのだ。
必死すぎて何やら喚いているらしい少女の声が一切聞こえなくなってしまったが、アスターはさして気に留めることもなく、何やらおとなしくしているミューリアの気が変わる前に、とできる限り早急に、逃げるように裏庭を後にした。
「…………それで、ミューリィが行きたかったお店って何処だったかな?」
「………………」
荷物を揃えて公爵家の馬車に乗り、校門を出てから十分。
行き先を指定しなかったせいでこのままだと普通に帰ってしまうな、と気づいたアスターが声をかけたが、隣に座るミューリアは惚けたように宙を見つめるばかりで一向に答える気配はなかった。
「ミューリィ、どうした? 具合でも悪い?」
「え? いえ、そんなことないわ。今は、そうね、とても素敵な気分よ……」
「へえ、そう。それはよかった」
何処か夢を見ているかのような声音で返って来た答えに、アスターはひとまず安堵した。力の抜けた様子でアスターの肩に頭を預けるミューリアを見る限り、少なくとも嘘ではなさそうだったからだ。
どうやら今日のところは脇腹は刺されずに済みそうである。明日はどうかは知らないが、明日のことは明日以降のアスターがどうにかしてくれることだろう。
「お店にはまた今度行きましょう。私、早く帰って今日の事を日記に認めないといけないの」
「…………日記」
まさか例の『お嬢さん』の件でも書き留めておくつもりなのだろうか。後日学園から消えていやしないだろうな、彼女。
別に消えてしまったところでアスターにとってはどうでもいいのだが、知らぬ間に死体になっていたりしたら嫌だな、とは思った。しかし、思うだけで特に口にはしなかった。アスターは基本的に、自分の命の方がよほど大事なのである。
ミューリアが視線でねだるので、アスターは指で髪を梳くようにしてゆっくりと彼女の頭を撫でていた。そのまま続けること五分、目を閉じ、唇を笑みの形に歪めたミューリアがぽつりと呟いた。
「…………エルア・トーマシーには褒美を与えなければならないようね……」
「誰だい、それ」
「…………ふふ、いいのよアスター。忘れてちょうだい」
本当に心当たりがなかったので心底不思議そうに尋ねたアスターに、ミューリアは何故だか妙に楽しげに笑みを深くした。
聞くな、というのならばアスターから尋ねることはない。言われるがまま、聞いたばかりの名前はアスターの記憶に刻まれることなく抜け落ちていった。
「今日のアスターは素敵だったわ。まるで私のことが好きみたいで」
「………………僕は君が好きだよ」
何を試されているのだろう。緊張から胃を鷲掴みにされたのと同程度の圧迫感を感じ始めたアスターに、ミューリアはやはり機嫌良く笑った。
「いいのよ、アスター。私はあなたが私のことをちっとも好きじゃないと知っているもの。もちろん、好きになってくれたならこれ以上ないほどに嬉しいけれど、貴方が私のものであるという事実だけで十分だわ。死んでも手放してあげないから、そこだけは覚悟しておいてね」
「………………」
それはどうかな、きっと老いて容姿が劣化すれば飽きるんじゃないかな、とアスターは思ったが、口には出さないでおいた。
記憶にある限り、アスターはこれまでに出会った全ての人間から、顔以外を誉められたことがない。人間離れした美しい容姿だけがアスターの取り柄だが、それでいてその容姿を活用して上手く振る舞うことができないアスターは常に厄介ごとだけを運び込んだ。
幼少期の誘拐騒ぎや兄の出世街道に障害となりかねない醜聞、見目だけで流される下卑た噂は、家族にとっては常に疎ましいものだったに違いない。
そして今はミューリアもアスターの容姿に惹かれているが、いずれアスターの容姿が衰えてしまえば、すぐに何の中身もない男だと気づいて興味を失うだろう。
何せ、ミューリアはアスターと違って容姿にも才能にも家柄にも恵まれているのだ。多少、いやかなり嫉妬深い節はあるが、それだって行き過ぎなければ可愛いものである。
アスターのように、顔ばかりが人目を引くような碌でもない男を好きにならなければ、きっと可愛らしい程度の嫉妬に収まることだろう。
アスターはここ数年ずっと抱えているその思いを、今更わざわざ口や態度に出す気にはならなかったので、いつものように麗しい美貌を無表情のまま固定するに留めた。
だが、ミューリアはアスターが口に出さなかった思いの全てを、どうやら正確に読み取った様子だった。
伏せられていた長い睫毛がゆるりと持ち上がり、透き通った湖のような瞳がアスターを見上げる。優しく、慈しむような笑みを浮かべたミューリアは、まるで幼子に言い聞かせるかのような声音で囁いた。
「アスター、貴方は素敵な人よ。貴方はこの世に生きているほとんどの人間に興味がないけれど、その代わりにあらゆる人が作る物語を何処までも真摯に愛しているわ。
私、貴方の書籍への感想と批評がとっても好きなの。覚えているかしら、貴方が十二歳の時に書いた『ファーマインの騎士』への感想がとても素敵で、初めてああいう本を読んだのよ」
「……………………何それ、初めて聞いたよ」
「言ったことなかったもの。アスターが隠したがっていたことを暴いただなんて、こんな時でもなければわざわざ言わないわ」
大体六年前だろうか。十二歳の時、アスターは文通をしていた知り合いに誘われて、ほんの一時期だが書籍の批評を雑誌に載せていたことがある。厄介ごとは御免だからと匿名で載せていた筈なのに、ミューリアはどうやって調べたのか、それがアスターの書いたものだと知っていたらしい。
幼いアスターが書いた批評は今思い出しても拙くて恥ずかしくなるような代物だったが、それでも自分が書いたものが誰かが本を取るきっかけになっていたというのは、途方もなく嬉しいことだった。
「………………でも、ミューリアは僕の顔が好きなんじゃないのかい」
「あら、勿論顔も大好きよ。とっても素敵だもの、見ているだけで幸せになれるわ。もしかして、茶会の時のことを気にしているの? しょうがないじゃない、あれが周りを黙らせるのに簡単だったし」
「………………まあ、確かにね……」
「でも一番好きなのは貴方が愛している物に対してとても真摯なところなの。貴方が読んでいる本のページを捲るのを見るたびに、その本が私だったらいいのに、と思うわ。貴方が愛している物だから私も好きでいたいのだけれど、それでも本にすら嫉妬するの。だから、貴方に軽々しく寄ってくる他の女なんてもっと憎たらしいわ。
だって、分かる? 貴方のことを好きだという人に、貴方が読んでいる本について尋ねてみたら、ただの一人もまともに題名すら答えられなかったのよ! 貴方が愛しているものに興味も持たないのに、貴方を好きだというの。信じられないわ、全員今すぐ何処かに消えてくれればいいのに」
願うだけでなく実際に何処かに消してしまうあたり、ミューリア・ベルスタインはやはり厄介な婚約者であると言えた。だが、そんなことは今更なので、アスターはわざわざ「なるべく消さないでおいてくれ」などとは口にしなかった。面倒だったのである。
「ミューリアは僕が好きな本、覚えてるのかい?」
「勿論よ。どうして覚えていないだなんて思えるの? 今年一番好きだったのは『翠星の歌姫と八人の小人たち』よね、何度も繰り返し読んでいたもの」
「……………………うん、そう。三年待ったシリーズの新作なんだけれど、期待を裏切らない面白さで」
アスターはある種の照れ臭さと、堪えきれない嬉しさから、知らず綻ぶような笑みを見せていた。喜びから体温が上がり、微かに頬が赤く染まっている。
嬉しそうに微笑むアスターを見上げていたミューリアが、一瞬身を強ばらせ、次いで、首まで真っ赤に染まった顔でアスターを睨みつける。
「やだ、待って。駄目よそんなの、そんな顔二度としないで」
「え。何か駄目だった?」
「駄目よ、素敵すぎるから二度としないで。アスターは自分の顔が常軌を逸した造形をしてることをもっと自覚した方がいいわ。もう、甲冑の頭でもつけておこうかしら……」
「いいね、それ。寄ってくる人が減るかも」
甲冑の頭をつけた男と常に一緒にいることになるが、ミューリアがそれで許してくれるのなら、アスターは別に多少の不便はどうでもよかった。ひょっとすると名案かもしれない、と考えかけたアスターだったが、ふとあることに気づいて、「いや」と溢した。
「やっぱりやめよう、本が読みづらい」
「言うと思ったわ。大丈夫よ、アスター。これまで通り、一線を越えた他の女は私が対処するから」
「…………ミューリィだけに任せるのも悪いから、これからは僕も頑張るよ」
「嫌よ。たとえどんな動機だろうと、他の女と関わろうとしないで」
それまで機嫌よく笑っていたミューリアが、一瞬で表情を鋭いものとへ変える。答えを間違えたら刺されかねないな、という緊張感のもと、アスターは慎重に言葉を選んだ。
「勿論、君以外の女性と関わったりはしないけど、もっとミューリィを好きだって態度で表していこうと思う。流石に相思相愛に見えたら言い寄ってくる人も今よりは減るだろうし」
「…………賭けてもいいけれど、アスターは三日で嫌になるか、飽きると思うわ」
「………………ミューリィって本当に僕のこと分かってるんだね」
「当たり前でしょう、大好きな人のことだもの」
そう言って、ミューリアはちょっと呆れたように笑った。アスターはその笑みを見つめながら、自分が何処か寂しい気持ちになるのを感じた。
恐らく、自分は一生をかけてもミューリアと同じだけの愛情は返せないだろう。アスター・グランバルツというのはそういう人間だからだ。
ミューリアが断言した通り、アスターはこの世に存在する大抵の人間には興味がない。
だが、その『大抵』の中にミューリアまで入れてしまうのは、なんだかとても寂しいことのように思えた。
「僕もそのくらいミューリィのことが分かるようになるかな」
「どうかしら。でも、分かろうとしてくれるだけで十分嬉しいことだけは確かよ」
言葉通り嬉しそうに微笑むミューリアを見つめながら、アスターはそっと、明日は一冊読む分の時間をミューリアに使おう、とだけ決めた。
「────そういえば、そんなこともあったなあ」
ある麗かな春の日。アスターは皺の刻まれた手で、随分と古くなってしまった日記のページをゆっくりと捲った。
『絶対に私を忘れないでね』と繰り返していた妻の遺した日記は全部で十五冊ほどあるが、そのどれもがアスターにとっては眩い宝石に等しい価値を持っている。
ミューリアはあれだけ言っていたのに、結局アスターより七年も早くこの世を去ってしまった。ミューリアがいなくなってから七年間、アスターは毎日欠かさず彼女の遺した日記を読み返している。
日記の中のミューリアは、いつだってアスターに対して真摯な愛を向けていた。わざわざ他の女性について記したくないからか、言及が一切無いために嫉妬の感情も残っていない。
ミューリアから嫉妬を除いてしまえば、そこにあるのは何処までも、アスターへの愛だけだった。
「君はとても厄介で、だいぶ危なくて、大層困った人だったけれど、僕も似たようなものだったから、きっとお似合いというやつだったんだろうね」
何だかとても眠い。日差しが暖かいからだろうか。アスターは静かに日記を閉じると、ゆったりとした動作で瞼を閉じた。
繰り返し読んでいるから、もうミューリアの日記は全て頭に入ってしまっている。まるで一番好きな物語のように。
窓から降り注ぐ陽だまりの中、アスターは意識が沈むまでずっと、記憶のページを捲り続けていた。