2.崖から落下(ベルトルド)
「ベルトルド兄様! ライザ様! 大丈夫ですか?」
義妹のアンナリーナが大声で叫んでいる。しかし、かなり距離がある上に草や木が生い茂っていて、崖の上の様子は全くわからない。
「ライザ様は気を失っておられるが、呼吸はしっかりしているし、怪我もしていないようだ」
崖の下は川が流れていて、川岸には白くて粗目の砂があり平坦になっている。そこにライザ様を横たえた。
「騎士殿! ライザさんを抱いて運べるか? その川沿いを下って行くと森の外に出る。ここから馬車の所まで歩くのと距離はそれほど変わらない。無理して気絶した女性を抱えて崖を登り、木の生えた森を行くより安全だろう」
植物研究所副所長の声がする。確かに、気を失ったライザ様を抱えてこの険しい崖を登るのは無理だ。再び落下するようなことがあれば、今度こそライザ様に怪我をさせてしまうかもしれない。
「ガイオ副所長、わかりました。ライザ様に負担をかけないようにゆっくり歩きますので、少し時間がかかると思いますが、必ずや無事にライザ様を森の外までお連れいたします」
「よろしくお願いします。我々は馬車を川の所まで移動しておきます。どうかお気をつけて」
「了解いたしました」
俺は護衛としてこの場にいたのに、ライザ様が崖から転落するのを止めることができなかった。護衛騎士としてこれ以上ライザ様を危険な目のさらすわけにはいかない。どんなことをしてでも無事にライザ様を王都まで連れ帰るんだ。
「騎士様、ライザさんをお願いね。馬車には治療道具を積んでいるので、すぐに治療できるように用意しておくから」
それはもう一人の女性医師の声だった。
「お義兄様。お気をつけて」
アンナリーナはとても心配そうだ。
「ベルトルド! 一人で大丈夫か? 小柄な女性とはいえずっと抱いて歩くのは大変ではないか?」
同僚のチャーリーが気遣ってくれている。上から俺の姿が見えなくて本当に良かった。確認できていたら、チャーリーまで降りてこようとするかもしれない。もし、彼まで怪我をすることになったら、それこそ大変だ。
「俺なら大丈夫だ。それより、アンナリーナのことを頼む」
この森には猛獣はいないと聞いているが、どんな危険があるかわからない。大切な妹なんだ。アンナリーナを護衛もいないまま森を歩かせるわけにはいかない。
「任せておけ。俺だって騎士の端くれだからな」
チャーリーならばアンナリーナたちのことを絶対に守ってくれるだろう。
「ライザ様。大丈夫ですか?」
何度か声をかけたが、ライザ様は目を覚まさない。
なぜもっと早くライザ様が崖に近付くのを止めなかったのだろうか。ライザ様が崖から落ちてしまう事態になるとは、俺は騎士として失格だ。
ライザ様は、噂通りのとても美しい女性だった。
長いプラチナブロンドの髪はまるで月の女神のようだ。今は目を閉じているが透き通るような紫の瞳は、俺の心を奪っていくようだ。
ライザ様が王都の治療院へ診療に行く際、騎士仲間が護衛を務めたことがある。美しい侯爵令嬢であるにも拘わらず、平民にも分け隔てなく聖魔法を施し、苦しむ患者を一所懸命に励ますライザ様の姿に頭が下がる思いだったと、その騎士は興奮気味に話していた。
この国一番の魔力を持ち、精度の高い聖魔法を操る美しき聖女様。この国に絶対必要なお方だ。
まさか、ライザ様が薬草採取をあんな風に楽しそうにされるとは思わなかった。嬉しそうにはしゃぐライザ様に思わず見惚れてしまい、崖から落ちそうになる彼女を助けるのが遅れてしまった。今更反省しても遅いが、悔やんでも悔やみきれない。
しかし、失態を悔やむことはいつでもできる。今はこの身に代えてもライザ様を王都までお連れしなければならない。
俺は自分の左腕を見た。明らかに骨が折れている。右腕でライザ様を抱えて左半身で崖を滑り落ちた。その時、岩にぶつかって折れたらしい。
目の上を切ったらしく、血が左目に入ってくる。
左側の肋骨にもひびが入っているようだ。動くと酷く痛い。
本来ならば女性は両手で横抱きにすべきだが、今の状態ではとても無理そうだ。
俺のような男と密着することになり本当に申し訳ないが、ライザ様の顔を自分の右肩に乗せて、彼女の太腿を右手で固定した。
流れ出る血を拭けないので、左目は瞑り右目だけで前を見て進む。
動けないことはない。だけど、倒れことはできない。
ライザ様を絶対に助けなければならない。
その想いだけで、何とか足を進めた。