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私の心は曇りのち土砂降り

 ――どうしよう。

 手が、震える。気づかれたくない。覗いていたことも、私がここにいることにも。

 薄く開いていた扉を、音が立たないように閉めた。

 数歩後退り、来た道を急いで戻る。

 足の痛みも、呼吸の乱れも気にならないぐらいに、私は狼狽えていた。

 ゆっくり登ってきた階段を、駆け降りる。

 途中足がもつれて転がり落ちそうになったけれど、何とか堪えた。

 これで階段から落ちて足をまた痛めるとか、情けなさすぎる。

 そこまでの醜態を晒したくない。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 ――エイダ・ディシードが、クロヴィス様の番だったのかしら。

 エイダは、ディシード家の侯爵令嬢だ。同じ侯爵家の令嬢でも、ミレニアとは違い、昔から気が強くて目立つタイプだった。取り巻きも多く、エイダのいる場所はいつも華やかだった。

 私は、昔から嫌われていたわよね。

 クロヴィス様やシグルーンと気安く付き合っている私のことを、明らかに嫌っていた。

 親の七光りとか、リリーナ様に比べて地味とか、そういうことは影でこそこそ言われていた気がする。

 私もエイダと仲良くなりたくないわけじゃなかったから、距離を置いていた。

 あえて近づこうとはしなかったし、わざわざ挨拶を交わすこともなかった。

 クロヴィス様はエイダのことを昔から知っていたと思うのに、――番とは、ある日突然なるものなのかしら。

 良く分からないわ。顔を合わせた瞬間に本能的に感じるものなのかと思っていたけれど、そうじゃなくて、昔から見知っている相手が運命の相手だったということに気づくまで、時間がかかるのかもしれない。

 ――ロヴィ、と呼んでいたわね。

 クロヴィス様をロヴィと呼んでいるのは、私だけだったのに。

 馬鹿だわ、私。

 予想はついていたわよね。

 一度割り切っていた感情が、再び熱を持ったばかりだというのに、遅すぎたのかもしれない。

 崖から落ちて痛みと不安で、クロヴィス様に甘えてしまって――だから、呆れられたのかも。

 都合の良い時ばかり頼ってくる、嫌な女だと思われたのかもしれない。

 どのみち、エイダがクロヴィス様の番なのだとしたら、私の出る幕なんてない。

 そんなことになったらクロヴィス様を強引に連れて逃げろとか、運命の番を学園から追い出せとか言っていたけれど、――何も、できない。

 こんなに、痛いなんて思わなかった。

 体の痛みなんて比ではないぐらいに、ずっと、ずっと、痛い。


 気づけば私は校舎から出て、学園の門まで辿り着いていた。

 本当は寮に帰らなければいけないのだけれど、今私はきっと酷い顔をしている。

 ルシアナに、見られたくない。

 街に出るときは必ずルシアナに告げていたのだけれど、私はそれをせずに学園の門を抜けて真っすぐに続いている道をとぼとぼ歩きだしていた。

 誰にも会いたくなかった。こんな情けなく愚かな姿を、見せたくなかった。

 朝は晴れていた空が、どんより曇り始めている。

 冬の空気が肌を刺し、吐き出した息が白くなびいて消えていく。


「……馬鹿だわ、私」


 本当に馬鹿だ。馬鹿だとしか思えない。

 冷たい態度をとり続けて、クロヴィス様の心配を鼻で笑って本気にせず、けれどいざ、こうなってしまうと――辛くて、苦しいなんて。

 独りよがり。自分勝手。

 そんな言葉が浮かんでは消えていく。

 こんなことなら――崖から落ちて、死んでしまえば良かった。

 そこまで考えて、私はあまりの情けなさに唇を噛みしめる。

 ――愛だの恋だのが苦手とか、思っていたくせに。

 手のひら返しも良いところだわ。この程度のことで、死んだ方が良いだなんて――馬鹿馬鹿しいわよ。

 そう自分に言い聞かせても、心が晴れることはなかった。

 いつの間にか私は王都の大通りにある、広場まで辿り着いていた。

 広場の端にある休憩用のベンチに腰を降ろす。

 数日後にはお祭りで賑わう広場には、色々な屋台が出る。

 楽しみにしていたのに、今は、何もかもがどうでも良い。

 足が、治らなければ良かった。

 そうしたら、体に欠陥があるという理由でクロヴィス様の婚約者を辞退することができた筈だ。

 本当はずっと好きだったと、認めなければ良かった。

 そうしたら、私は別に好きじゃないのだからと、クロヴィス様が心変わりをしても苦しまずに済んだのに。

 ぽたぽたと、膝に置いた手の甲に水滴が落ちる。

 いつの間にか空を分厚く覆っていた暗雲から、ぽつぽつと雨が降り出していた。

 雨は一瞬のうちにその雨量を増し、広場の石畳を黒く染めていく。

 突然の雨に、道行く人々は慌てたように走っていく。

 私はどこにも行く気にならずに、冷たい雨に打たれながら、体を小さくしてじっとしていた。

 それでも、自分で座っていることを選んだはずなのに、体は震えて、手はかじかむ。

 寒いなぁと思うのが、なんだか滑稽だった。

 雨に濡れた制服のローブが重たい。広場にはもう誰もいない。ざぁざぁと雨は降り続けていて、時折ぴかりと稲光が薄暗い空を眩しいほどに照らしては、遠くで雷鳴を響かせた。

 寒さのせいだろうか。

 体から奇妙なほどに力が抜けていく。眩暈と息切れが酷い。座っていることすら困難だ。

 わたしはずるりと、ベンチの上に倒れこむようにして上体を横に倒した。仰向けになったせいで、顔に氷の塊でもぶつけられているように冷たい雨粒が降り注いだ。

 視界が霞む。もう、目を開けていられない。

 ――もしかしたら、本当に、死んでしまうのかしら。

 雨に濡れたぐらいで命を失うだなんて話は聞いたことがないけれど、それぐらい体の感覚が鈍い。

 頭も働かない。

 崖から落ちたときも人食い熊に襲われた時も、なんとしてでも生き延びてやると思っていたのに。

 ――今は、そんな風に思うことができない。

 ばしゃばしゃと、水溜まりのを靴底が蹴る音がする。


「リラちゃん!」


 焦ったような男性の声と共に、体がふわりと宙に浮くのがわかる。

 触れる大きな手は力強くて繊細で、冷えた体ではそこだけ焼けるように熱かった。


 

 ――お城の大広間では、越冬の祭典の晩餐会が行われている。

 豪奢なシャンデリアがいくつも天井から吊り下げられている。

 昔は蝋燭を使用していたけれど、オイルランプの発達の後に、動力としての蛍石の発掘・開発が行われて、シャンデリアにも蛍石が使われている。

 そのため、大広間は真昼のように明るかった。

 楽隊の奏でるゆったりとした音楽に合わせて、大広間の中心では二人の男女が優雅に踊っている。

 私はそれを、壁を背にして立って眺めていた。

 踊っているのはクロヴィス様だ。

 それではなぜ、私はここにいるのだろう。

 クロヴィス様の首には、細く白い女性の手が絡みついている。

 金色の豊かな髪を結いあげて宝石で飾り、クロヴィス様の目の色と同じ紫色のドレスに身を包んでいるのは――エイダ・ディシードだった。

 エイダは青い目で、挑発的に私を見つめる。

 赤い唇が弧を描き、言葉の形に動いた。


「かわいそう」


 声は聞こえなかったけれど、エイダがそう言ったのが分かる。

 クロヴィス様は私の方を見ることはない。

 どうして私は、ここに立っているのだろう。立っていなければいけないのだろう。

 助けを求めるように周囲に視線を彷徨わせる。

 クロヴィス様とエイダのダンスを眺めていた人々は、気付けば皆顔のない人形に変わっていた。


「――っ」


 目を見開く。

 呼吸の仕方を忘れてしまったように、喘いだあとに、けほけほと咳をした。

 体がだるい。体の表面はあたたかいのに、芯の方が冷え切っているかのようだった。


「リラちゃん。大丈夫?」


 額に大きな手が当てられる。

 あたたかくて優しい体温に安堵して、私は大きく息をついた。

 夢と現実がごちゃ混ぜになっていたのは一瞬のことで、すぐに現実が戻ってきた。

 私は暖かい毛布にくるまれている。

 毛布は濃い茶色で、ふわふわしている。びしょ濡れだった体は乾いているようだった。

 髪はまだ少し濡れている。

 私はシングルベッドに横になっている。飾り気のないシンプルなベッドだ。さらっとしたクリーム色のシーツが気持ち良い。体を包む毛布があたたかい。

 額に当たっていた手が、そっと頬を撫でて離れていく。

 ぱちぱちと瞬きを数回すると、ぼんやりとしていた視界が鮮明になる。

 私を心配そうに見つめているカレルさんの薄紫色の瞳と目があう。

 その色に、クロヴィス様の瞳を思い出してしまい、心臓がブリキで動くおもちゃになってしまったかのように、ぎりりと軋んだ。


「カレルさん……」


「うん」


「あの、……私、どうして」


 カレルさんは、床に膝をついて座っているようだった。

 私の部屋よりも少し狭い部屋だ。窓辺には観葉植物が並んでいて、窓の外は薄暗いけれどもう雨は降っていないようだ。

 多分ここはカレルさんの部屋なのだろう。

 部屋の主をそんな姿勢で座らせているのが申し訳なくて、私は起き上がろうとして自分の体の状態に気づき、慌てて毛布の中に戻った。

 どうにも、服を着ていないみたいだ。

 気づいてよかった。危うく、見せてはいけないものを見せるところだった。


「広場のベンチに座っているのがお店から見えて、心配になって近づいたら、リラちゃんだった。声をかける前に倒れて、意識がなくなっちゃったから、俺の部屋に運んだ。治療院に行けば良かったかもしれないけれど、慌てていて。ごめんね」


 カレルさんは申し訳なさそうに眉尻を下げて言った。 


「ありがとうございます。迷惑をかけてしまってごめんなさい」


 私は首を振ってこたえる。

 カレルさんの手を煩わせてしまって、申し訳なかった。


「迷惑なんて思っていないよ。それよりも、どうしたのリラちゃん。……魔力、空になってる」


「……魔力が?」


 確かに酷い怠さは、魔力を使い果たした時のそれに似ている。

 でも、どうしてカレルさんにそれが分かるのだろう。カレルさんには確か魔力がなかったはずで、魔力がない方は魔力への感受性に乏しく、そもそもそれを感じ取ることが困難だった筈なのに。

 でもそんなこと、今は気にしている場合でもないかと、私は頭に浮かんだ疑問をすぐに消した。


「急に、酷い雨が降ったよね。今日はたしか、ずっと晴れって言っていたはずなのに。――リラちゃんて、水魔法が使える?」


「……もしかして、雨、私のせいですか」


「わからないけれど、リラちゃんが気を失った途端に雨がやんで、虹が出たから。魔力が暴走したのかもしれないと思って」


 私は目を伏せた。

 罪悪感が足元から這い上がってくる。涙が零れ落ちそうになったのを、唇を噛んでこらえた。

 泣いても仕方ない。更に迷惑をかけて、困らせてしまうだけだ。



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