泣きっ面に蜂とか実際起こるとかなり最低
がさりと、何かの気配がした。
助けが来たのかと一瞬思ったのだけれど、もし誰かが助けに来てくれたのなら、私の名前を呼んでくれる筈だ。
気配の主は、言葉を発する様子はない。
だとしたら、あまり良いものだとは思えない。
私は動く両手で這いずって、気配のする方向からなるだけ離れようとした。
下半身がまるで使い物にならない。少し動かしただけで、痛みが脳天を突き抜けて、悲鳴を上げそうになる。
危険を察知したからか、涙は止まった。
先程の水魔法で、魔力を使い切ってしまったようだ。這いずるだけで精一杯の体は、鉛のように重たい。
頭ががんがん痛んだ。それ以上に右足が痛い。
全身を苦痛が苛んでいるせいで、どこが痛いのかさえ良く分からない。
木々に覆われた暗い森の奥から、がさがさと音をたてながらそれはのそりと現れた。
「……っ」
這いずったところで、遠くに逃げられるわけじゃない。
私は悲鳴を上げそうになった口を両手で押さえた。
それは、真っ黒い剛毛のはえた、巨大な塊にみえた。
凶悪な爪に、鋭い牙。巨体に比べて小さな顔に、丸くて小さな耳。
毛に覆われて良く見えない瞳はつぶらで、鼻先まで真っ黒い。
熊だ。
それは、普通の熊の三倍ぐらいの大きさがありそうな――魔獣だった。
人食い熊と呼ばれるその魔獣は、普通の熊とは違う。
王国の熊は温厚で人を襲ったりしないけれど、熊に似た容姿を持った魔獣である人食い熊は、その名の通り人を襲う。
危険だからと魔獣が討伐対象になる理由は一つしかない。
人を襲うからである。
人食い熊のように人を食べる目的で襲う者もいれば、人の姿を見れば特に理由もなく襲う者もいる。
魔法が使えれば、応戦できていたかもしれない。
けれど、魔力は底をついている。
人食い熊は私の前にのそりとその巨体を起こして立ち上がった。
鋭い爪のある太い手で一払いされたら、私なんてひとたまりもないだろう。
白い牙の覗く口で噛みつかれたら、即死に違いない。
人食い熊は確実に私を見ている。気づかなかったけれど、落下するときに小石や枝葉に擦れたのか、それとも地面に倒れたときに傷ついたのか、私の着ている制服は切れてほつれて、ぼろぼろになっていた。
その下の皮膚はおそらく出血をしている。
血の匂いを嗅ぎつけて、やってきたのだろう。
今更隠れることなどできないし、隠れたところで嗅覚が鋭い人食い熊にはあまり意味がない。
私は上半身を起こした状態で、なんとか両手を組み合わせて三角形を作り上げる。
このまま何もせずに、食べられるわけにはいかない。
「……水の槍……!」
詠唱と共に、魔力が手のひらにあつまる。
けれどそれは、使い果たした魔力の残り滓でしかなかった。
魔法は形成されず、人食い熊に何もない虚空から水の雫が一滴垂れただけに終わった。
熊は再び四つん這いの姿勢になり、私目掛けて走り出す。
口が大きく開かれている。
不格好に並んだ鋭い牙と、赤々とした口の中、深淵へと続くように深い喉が見えた。
「……嫌……っ」
私は目を閉じる。
せっかく生き延びたのに、駄目だった。
こんなところで、死んでしまうなんて。
最低だ。
お母様とお父様、ルシアナの顔が脳裏に浮かぶ。走馬灯って本当にあるみたいだ。
人食い熊の動きは素早くて一瞬の出来事なのだろうけれど、私にはとてもゆっくりに感じられた。
フィオルと、ミレニア、シグルーンの顔も浮かんでは消えていく。
最後にクロヴィス様が、「リラ」と私を呼んだ。
「――消え失せろ」
低く怒りに満ちた声が、鼓膜を揺らした。
予想していた痛みは感じなかった。私は恐る恐る目を開く。
私の目の前で、人食い熊に鋭く長い鉄製の槍のようなものが何本も突き刺さっていた。
人食い熊は地面に縫い付けられたように倒れ、もがき、やがてその動きを止めた。
動きを止めた人食い熊に、炎がまとわりつく。
蛇のように熊の巨体に纏わりついた炎は、あっという間にその巨体を燃やして、消し炭にしてしまった。
「……リラ! 無事か、リラ!」
先程の低く冷淡な声音とは全く違う、気遣いと不安に満ちた頼りない声が私の名前を呼ぶ。
顔を上げると、クロヴィス様が背の高い草むらをかき分けるようにして、こちらに真っすぐに走ってくるのが見えた。




