{ショートショートを一杯} 「みかん」
テーブルの上に置かれタ湯飲みに手を伸ばすと、中の緑茶をゆっくりと口の中に含む。舌の先に残る僅かな苦みと共に、体の芯へと温かさが染み込んでくる。横のテレビを見ると、丁度演歌が終わったところだ。
「もうすぐですよ、お父さん」
向かいに座る源治に、みかんを差し出す。むっつり顔のまま受け取った彼は、皮をむき始める。一方テレビでは、今度は鮮やかな演出と共にキラキラとした服を着た男たちが出てきた。アイドル、だっただろうか。孫が好きだと言っていたのを思い出す。
「あの子の出番はこの次だったかしらね」
彼は何も言わずに、湯飲みに口をつける。本当は嬉しいくせに、と言いたいところだが、ここは黙っておくことにしよう。私も2個目のみかんを手に取ると、皮をむき始める。何となく嫌なので、スジまでとることにしている。
おコタから伝わってくる温かさが心地いい。別になにもない茶の間なのに、テレビとコタツとみかんさえあれば、もうそれでいい気がする。なんて怠惰なんでしょう、と自分で思いながら、なぜか笑えてくる。テレビでは、アイドル達が紙吹雪を浴びながら踊っている。ああいうのがいいのかしら。やっぱり近頃の子は違うのね、とつくづく思う。
皮をむき終わり、スジもあらかたとってしまったので、1粒もぎ取って口に入れる。柔らかな皮の弾力を口の中で2・3回転がして楽しんだ後、一気に噛んでみる。ぷじゅ、という音と共に、甘い汁が口の中で弾ける。何回か噛んで飲みこむと、口先に残る微かな甘みと、酸味。なぜか、もう1粒口に運びたくなる。
ふと見ると、アイドル達が舞台裏に消えていくと、画面が切り替わり、司会と共にスーツ姿の男が映し出される。
「ほら、お父さん。あの子の番ですよ」
「・・・フン」
そういうと彼は、茶の間にゴロリと横になってしまった。まぁ、どうせ見ているんだろうけれども。
「それでは、東野隆治さんで『あの日』。どうぞお聞き下さい!」
司会の声と共に、画面が切り替わりバックライトで照らされたあの子のシルエットが浮かび上がる。
『一言では、表せないー♪』
バックダンサーの前で歌うあの子から感じたのは、不思議なほどの魅力だった。昔から、歌が上手い子だとは思っていたが。まさかこんなになっていようとは。勝手知ったる息子なのだが、なぜだか画面の向こう側にいるような気がして、すこしくすぐったさを覚える。でも、何だろう、この気持ちは。
『貴方に、言える事はもうないが♪』
いつの間に、こんなに離れてしまったんだろう。それでいいのだけれども。
「・・・認めてあげればよかったのに」
言ってから、ハッと気づく。しまった。黙っておくつもりだったのに。別に彼の事を責めているつもりではないが、やっぱり心のどこかに事実は残る。聞かれていたらどうしようと、彼のほうを向くと、
「・・・そうだな」
こちらも向かずに、ただポツリと、そう言った。
驚いた。まさか、彼からそんな言葉が聞けるなんて。
なにか言おうと思い口を開いたその時・・・
『あの日は、後悔なんて言わないで♪あの蜜柑の味は♪』
曲の最後の一節。その一瞬、あの子の歌声に、そしてその歌詞に耳を奪われた。
画面の中で歌っているのは、間違えなく、あの子だ。
ふと横を見ると、寝転がっていた彼も飛び起き、画面を凝視している。
あぁ、結局は、こうなることを望んでいたんだろう。彼も、私も。私たちの事なんか忘れて輝いてほしいなんていっても、それはただの綺麗事。結局は、まだその傍らに立って、見つめていたいのだ。
「有難うございました、東野さん!」
切り替わった司会の顔がぼやけて見える。思わず彼の方を見ると、又寝転んでしまっていた。しかし、耳が赤くなっているように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「では、一言お願いします!」という司会の声と共に、マイクを持ったあの子が画面に映し出される。
やっと一息ついて2粒目のみかんを口に入れると、私は微笑んで、あの子の一言に耳を傾けた
「あの世の両親にも、この歌が届きますように!」