駅で見かけた君の笑顔が見たくて
梅雨というには少しだけ遅い夏の入口の頃、この一週間くらい小雨と曇りを繰り返し、嫌な蒸し暑さにフラストレーションがたまる。時折襲うめまいと強い倦怠感。この時期はいつもこうだ。
視界の端、ぼんやりと淡く光る時計の針はもう夜中の2時を回っている。ベッドに横になったのはいいが、明日も6時に起きなければいけないのに、背中にじっとりと汗がにじむ気持ちの悪さのせいで中々眠れない。
早く眠りたい理由はもう一つ、最近よく見る夢にある。駅へと向かうバスのロータリーに立っている夢だ。
眠りにつくと俺は、快晴の下で見知らぬマンションから駅へと向かう。いわゆる明晰夢ってやつだ。
三階分ほどの階段を降りてから5分ほど歩くと、駅の前にあるバスロータリーに着く。先端の丸い時計が伸びる小さなコンクリートの島を挟んで短い横断歩道が二つ、日に照らされいる。そしてそれらを渡った先に大きな駅がある。駅名はぼやけて読めないが、それでも、まあ『駅』という字は何となくわかる。
見覚えのある、見たことのない場所だ。
そしてそのコンクリートの小さな島、もとい安全地帯に女の子が二人。腰まで伸びた黒のストレートの子と、少しだけ色が抜けたショートボブの二人。なにやら楽しそうにおしゃべりをしている。この位置からでは顔がまったく見えないので、あくまでも『楽しそう』でしかないが。そして俺は、そんな二人にのんびりとついて行く。
そう、この夢のお目当ては右側のロングヘアーの子なのだ。別に駅や電車が大好きで夢を楽しみにしてた訳ではない。おしゃべりしている時は全く顔は見えないが、夢の終わり際に必ずこの黒髪の子はこちらを振り返る。それまでの楽しそうな雰囲気とは違う、ほんの少しだけ驚いた表情。
切れ長の目がちょっと大きくなる、その驚いた表情がたまらなく可愛い。可愛くて仕方がない。この驚いた顔で可愛いのだから、友達と楽し気に話しているときの笑顔は一体どれだけ可愛いのだろう。
その夢を見たいからこそ、寝苦しさに苛立ちを覚えながら無理矢理にでも眠るのだ。見ず知らずの女の子二人をついて行く……可愛い女の子なんてパソコンで少し検索すればいくらでも出てくるこんな時代に、この気持ちの悪さ全開の夢を見るために心躍らせてベッドで何度も寝返りをうっている理由は一つ。
俺は、昔からよく正夢を見るのだ。
それは決まって、同じような夢を2週間連続で見た後に起こる。最後に夢を見た翌日に必ずそれが現実になる。今回も二人に少しづつ近づく以外はほぼ同じ夢だ。そしてその記念すべき2週間目が今日なのだ。そう考えると、寝付けない理由は梅雨のせいだけじゃないのかもしれない。一つ息を大きく吐いて、ゆっくりと羊を数え始める……
足元に影も出来ないような、どんよりとした曇り空。雲はどうにか雨を降らせまいと粘っているが、その限界もきっと近いだろう。普段から人のいないロータリーがより寂しく見え、相変わらず駅の名前は読めないままだが、離れ小島の時計だけははっきり見える。その短針は4の数字を指していた。そして時計の下に女の子が二人。いつもの二人、なのに夢の雰囲気がどうにもおかしい。いつもの明るさはどこへやら、現実の天気と同じように暗いではないか。
そんな違和感に驚いていると、女の子二人がゆっくりと振り向いた。まずい、このままでは夢から覚めてしまう。いつもと違うこの景色の意味も分からないまま終わりたくない。今日がこの夢の最後なのだから、こんなわけのわからないままで終わるのは困る。明るい笑顔で二人と出会いたいんだ。そんな俺の願いも虚しく、二人の顔は完全に俺を向いてしまった。
が、覚めない。現実に戻らない。
しばしの沈黙。二人はこちらを向いたまま、不安そうな表情を浮かべている。驚いた顔は何度か見たが、これほど不安そうな表情を見たことは無かった。大丈夫だろうか、俺はゆっくりと二人へ向けて歩を進める。その時だった。
コツ……コツ……
辺りに靴音が響く。俺のすぐ後ろから、俺の歩みに合わせるように。誰かがすぐ後ろにいるのだろうか。そう考えると何者かの気配を感じる。そうか、彼女たちが怯えている原因は、俺のすぐ後ろにいる何者かだったのだ。いけない、二人を守らなければ。
その何者かを撃退しようにも、なぜか振り返ることが出来ない。それに、不思議と肩や腕が重く、特に右腕は何か重りでもついているかのようだ。明晰夢とはいえ、俺は夢のルールに縛られているのかもしれない。ならば急ぎ彼女たちの元へ行き、守らなければ。こういう時に人々を守るために、俺は毎日スーツに袖を通しているのだから。
あと少し、もう少し。数歩あるけば、彼女たちに触れられる距離まで来た。その間も、ずっとコンクリートを革靴が叩く音はついてくる。いや、もう大丈夫だ。もう辿り着いたのだから。俺は怯える二人にそっと手を差し伸べた。
その瞬間、視界の左側が真っ赤に染まった。先ほどまで可愛らしい顔と茶髪のあったそこには何もなくなり、真っ赤な血が無慈悲に吹き上がる。
目の前に唐突に現れた血の噴水に、思わず後ずさる。その時だった。
プルルルルル……プルルルルル……
けたたましい着信音。心臓が跳ね起きる。テーブルのスマホを手に取ると、画面には4:32という数字と、同僚の名前が表示されている。俺はひとつ溜息を吐いて、その電話に出た。
「んだよ、こんな早くに」
「タケ、すぐに準備しろ……コロシだ」
低いしわがれた声の真剣なトーン。その瞬間、俺の脳も一気に覚醒する。
「場所は?」
「小学校近くの河川敷だ。ガイシャはおそらく若い女」
「おそらく?」
「まあ、とりあえずさっさと来てくれや」
嫌な予感がする。俺はすぐにスーツに着替えると、その河川敷へと急いだ。現場には数台のパトカーが止まっており、遺体はすでにブルーシートで覆われていた。
「おせえぞ、タケ」
「むちゃ言うな、コータロー。これでも大急ぎで走ってきたんだ」
「ほら、お前も死体確認しとけ。腰抜かすなよ」
「あ?どういうことだよ」
「ないんだよ。首から上が、スパっとな」
「……そうか」
やっぱり、そうか。2週間の夢が、まさかこんな現実を呼ぶことになるとは思わなかった。首から上のない死体。その服は襟元こそ真っ赤だが、夢の中で見たものと確かに同じであった。
ふざけた話だ。今まで俺が見た正夢は全て幸福なものだった。500円を拾ったり、昔引っ越した幼馴染みに再会出来たりと、平和な夢ばかりだったというのに、今回は殺人事件だなんて。
夢で一緒に並んでいた黒髪の娘も心配だが、まずは目の前の事件の捜査が優先だ。そして遺留品から被害者が勤めていた会社がわかり、俺たちは聞き込みのためにその会社へと向かった。
まだ朝も早いためか会社の前にある大通りを走る車の数も少なく、もちろん歩く人影もまた少ない。ビル警備のおっさんにこの会社の始業時間を聞くと、まだ2時間もあるという。しばらくは待ち時間になると聞かされたせいか、なぜか空腹を思い出してふらりと歩き出す。
「おい、どこ行くんだよタケ」
「飯。どうせしばらく暇だろ?」
「この時間に飯屋なんかあいてんのか?」
「デカイ道歩いてりゃ、ファーストフードくらいあんだろ、きっと。お前は?」
誘ってはみたが、あいつはタバコさえ吸えればいいと言って車に戻って行った。
何気ない町の景色を見ながら歩いていると、すぐにチェーンのハンバーガーショップをみつけた。やはり俺の予想は当たっていた。
そこで軽く空腹を満たせたのはいいが、なんせファーストフード。全く時間を潰せなかったため、結局また町をぶらぶらするだけだった。そうしてしばらくのんびりと歩き、大きな交差点を曲がると、なにやら見覚えのある風景が目に飛び込んできた。
道はまっすぐにバスのロータリーまでつながり、その中には時計のある離れ小島と短い横断歩道、そしてその奥には大きな駅舎。どれも夢で見たものだった。
ただひとつ夢と異なるのは、その人通り。この辺りはビジネス街なので、駅を利用する人数も多いようだ。
そう、人通りが多くなっている。そのことにに気がつき時計を見て、あっ、と声が漏れる。まるでそれを察したようなタイミングでスマホに着信がくる。
プルルルルル……プルルルルル……
タケの文字がそこにはある。これから言われることを想像して憂鬱になる。
「おせぇぞ!どこほっつき歩いてんだ」
「悪かったよ、腹ごなしに散歩してたんだ」
「散歩ぉ?んなのんきなことを言ってんなよ、さっさと戻ってこい!」
「へいへい、了解」
まったく、叫ばなくてもいいだろうが。あのダミ声は耳が痛くなるんだよな。急いで会社に戻ると、電話の主は腕を組んで苛立ちを隠そうともしていなかった。場をなごませようと笑顔で手を振ってみたが、かえって呆れさせてしまったようだ。
軽くネクタイを絞めなおし、ビルのエントランスへ入ると、そこには初老の男性が一人待っていた。彼は被害者の上司らしく、どうやら事前にアポイントを取っていたらしい。
ほかの従業員たちは興味深そうに遠巻きに俺たちを眺めている。アポイントを取るときに身分を明かしたせいか、会社に警察が来ていることが既に広がっているようだ。
その遠巻きの中にひとつ、強い視線を感じた。上司の更に向こう側、おそらくエレベーターホールがある辺りがどうにも気になり、目を細めて見る。するとそこには見覚えのある黒髪の彼女の姿があった。
やはり二人は現実でも知り合いだった。しかし、まさか同僚とは。こちらも長く見すぎたのか、彼女も見られていることに気がついたようで、そそくさと姿を消してしまった。追いかけるというのも不自然極まりないので、後は案内されるままに応接室へと向かうことにした。
「それでは被害者の山下奈々さんについてお話を聞かせて頂けますか?」
挨拶もそこそこに、話題を切り出す。
「ええ、私の知っていることでしたら。とはいえ……彼女は勤務態度も真面目で、トラブルを抱えていたなんて話も聞いたことがございません」
「そうですか・・・部下のかたに、彼女と親しい方はおられませんか?」
「ええ、何人か親しくしていた社員がおります。呼んで来ましょうか」
「ぜひ!」
被害者と親しい友人。きっと彼女もその一人だろう。理由はないが確信はあった。しかし、しばらく経って現れたメンバーに彼女の姿は含まれていなかった。しかたがない、捜査を続けよう。
「では、山下さんについて、何かご存じでしたら教えてください」
呼ばれた面々も動揺と緊張が隠せないようだが、それでも努めて教えようとしてくれる。
「ナナちゃん明るくて良い子だし、誰かに恨まれるなんてないわよ」
「あ、でも付き合ってる男がなんか変な奴だったって聞いたことある」
「ええ!なにそれ!あたし初めて聞いた!」
「私だって詳しくはわからないわよ。同棲してるって言ってた気もするけど……美奈子なら何か知ってそうだけどね、一番仲良かったし」
「でも、美奈子は話したくないんでしょ?なんか信用できないって……あ、冗談ですよ、冗談。あはは」
ごまかすようにニコニコと笑う同僚の3人に、こちらも気にしてない風を装う笑顔で返した。その後も何とか絞り出そうとする3人を待っていたとき、コータローが隣でなにか気がついたのか、俺を軽く肘でつき耳元で言う。
「美奈子とやら、なにか後ろめたいことがあるんじゃないか?」
「どうだろ、親友が死んで参ってるんだろう。話したくない気持ちもわかる」
「それじゃあ俺らが困るんだけどな」
とはいえ、3人からもこれ以上何も出ないようだ。被害者と同棲していた交際相手という情報が入っただけでもよかった。
そしてその後すぐに、コータローの車で同棲していたという被害者のマンションへ向かった。既にマンションには他の警察官もきており、大家に話して合鍵を受け取ったところだった。
もしかすると、交際相手だった男が潜んでいるかもしれない。彼女たちが変な奴だと言っていたが、急に暴れたりしないか不安だ。
305号室、ドアの両脇に一人ずつ息を潜めて警戒する。名誉ある鍵開けの担当はなぜか俺だった。ドア開けた瞬間飛び出して来たりしないだろうな。
カチャリと鍵が開いた。ゆっくりとドアを開くが、中からは何の反応も気配もない。ドアを半分ほど開いたところで、隙間から日の光が入り玄関を照らす。赤い靴がひとつと、端に掛けられた一着のレインコート、そして鉄の匂い。
その赤い靴にははっきりと違和感があった。少しだけ鈍い赤色のそれのデザインは、どう見ても男物の革靴だ。そして、明らかにその靴の周辺まで赤に染まっている。
壁に掛けられたレインコートもまた、雨など降っていないのに水滴が滴っている。そっちもまた、赤い。
その大量の赤を目にしたとき、夢の光景がフラッシュバックした。
コツコツと鳴る固い靴底、二人の怯えた表情。そして、真っ赤な血飛沫。こいつが、顔もわからないが、この部屋の男があの夢の惨劇を引き起こしたというのか。
「おいおい、なんだよこれ」
「うわぁ、これは・・・」
ドアの両脇にいた二人が玄関を覗き込んで一瞬唖然とした表情を浮かべるが、すぐに気を入れ直して部屋の中へと侵入するが、やはり誰もいない。あまり生活感のない、二人で同棲していたとは思えないようなワンルームだった。家具などは最低限しか置いておらず、ビジネスホテルの部屋と大差ない。
それからすぐに鑑識も駆けつけ、靴もコートも持って行かれた。
また聞き込みでもするか。この辺りに住んでる人達なら、なにか見かけたりしているかもしれない。
タケに声をかけ、階段を降りる。その時だった。不意に強いめまいが襲う。どうにか手すりに掴まり大事には至らなかったが、しばらくその場所から動くことができなかった。
「大丈夫か?」
コータローが心配そうに肩を持って支えてくれる。この時期はいつもの事だ。だからこそ、こいつも必要以上に動揺を見せない。
「ああ、大分落ち着いてきた。すまんな」
「あ~、どうせまた、最近眠れてなかったんだろ? とりあえず車で仮眠でも取れ」
「そうだな、お言葉に甘えさせてもらうよ」
俺はコータローと別れ、一人ふらつく足であいつのワンボックスに乗り込んだ。助手席のシートを倒す頃には既に瞼は限界を越えた重さになっており、夢に落ちるのは一瞬だった。
やはり曇天。嫌な空だ。ロータリーの向こう、駅の自動改札の前に彼女がいた。ちらりとこちらに目配せすると、そのまま改札の中へと入って行った。
そんな彼女を追うように、体が勝手に動く。同じように改札を抜け、また同じように登りのエスカレーターに乗ってホームへとたどり着く。
カンカンと、少しだけ遠くで踏切が鳴っている。もうすぐ次の電車が来るのだろう。『黄色い線の内側へ』なんてアナウンスが流れる。
そこで彼女は俺を待つように立っていた。線路に背を向けて、俺を真正面から見つめている。親友を無くしたショックは当然まだ癒えてないようで、微かに震えているようにも見える。そしてふらふらと後退りしているため、このままでは線路に落ちてしまうのではと心配になる。
大丈夫だ。容疑者は被害者の同棲相手だということは既に判明している。逮捕は時間の問題だろう。安心してと、声をかけるだけでも、少しは彼女の心の負担を減らせるのではないか。
そう考え、ゆっくりと近づく。刺激しないように、なるべく笑顔を浮かべることを意識してだ。
電車がホームに入ってくる。それと同時にポケットで携帯が鳴った。そしてその音に驚いたのか、彼女は一歩大きく下がった。
「危ない!」
少し大袈裟だったかもしれないが、俺は電車から守るために彼女の左腕を掴み抱きよせた。通過の特急電車がゴウゴウと風を切って目の前を横切っていく。良かった、危なかった。
心臓が早鐘を打っている。俺は彼女を抱きよせたまま、しばらく落ち着くのを待った。そして安堵のため息をもらし、腕の中の彼女を見下ろした時、俺は笑顔でいられなかった。
彼女の顔が血まみれになり、その目には恐怖の色が浮かぶ。そして怒りや憎しみのような揺らめきのあと、ふっ、と虚ろな目に変わる。
6時24分
ホームの向こう側、ロータリーの時計が嫌にはっきりと見えた。
「うわぁっ!」
俺は驚いて跳ね起きた。あの生気のない目が脳裏に焼き付いて離れない。あれが、あれが正夢になるのか? いったい何故?
腕時計を見ると、時刻は6時を少し回っていた。
車を降り、急いで駅へと駆け出す。夢では姿を掴めなかったが、もしかするとあの場に犯人がいたのかも知れない。それを止められるのは俺しかいないんだ。
夢と同じロータリーに着くと、改札を通る彼女を遠目で発見した。まだ時計の長針は20分を少し過ぎたくらいだ。ギリギリだが、夢の時間に間に合った。とはいえ、犯人がどこに潜んでいるかもわからない。早く合流して、警察の保護下に置く必要がある。
走って改札を上がり、エスカレーターに乗る。ホームに着くとそこには彼女がいた。周囲に人影はなく、俺と彼女の二人きりのホームには、近くの踏切の鳴る音が響いている。
ここまでは夢の通りだ。このままではあの惨劇を繰り返すだけになってしまう。なにか、なにか変えられないか。そう思ったとき、ポケット中の携帯が鳴った。
それに一瞬驚いた彼女は後退ったが、それでもホームから落ちるほどではない。これだ、ここがきっと分岐点なんだ。あの夢から変えてやる。俺が彼女を救うんだ。
俺はポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押した。
「おい、タケ! 今どこにいる?」
電話の主はコータローだった。なんだか少しだけ嬉しそうな声色をしている。
「駅だ、被害者の親友のこに話を聞こうと思ってな。で、何のようだ?」
「いや、車に戻ったら寝てるはずのお前がいなくて驚いてな」
「餓鬼じゃないんだから、目が覚めたら車外にくらい出るさ」
そんな俺たちの電話の様子を見ながら、彼女は眉をひそめている。
「そんなことより、例の容疑者……あの同棲していた男をついさっき確保した。これたら取り調べだが、こられるか?」
「おお、捕らえたのか」
「ああ、容疑は否認してるが、まあ時間の問題だろ」
コータロー側の声は聞こえていないだろうが、俺の『捕らえた』という言葉に彼女もピクリの反応した。
良かった。これできっと彼女は笑ってくれるはずだ。夢の中で思い描いていた彼女の笑顔が見られるはずだ。
俺はこの朗報を伝えようと、努めてにこやかに彼女に歩み寄る。瞳に恐怖の色が見える彼女も、犯人が捕まったことに安堵したのかこちらに目掛けて駆け寄ってきた。
そして、
トン、と胸に軽い衝撃
彼女の瞳が怒りに変わり、小さく一歩下がると、夢の中と同じく彼女の姿が真っ赤に染まる。それと同時に胸部に鋭い痛みを感じた。視線を下げると、彼女の手には血がベッタリとついた包丁が握られていた。体に力が入らず、思わず膝をつく。
刺された。頭の理解が追い付かないまま、体の温度だけがどんどんと下がっていく。見上げた彼女は虚ろな目で俺を見ながら、吐き捨てるように言った。
「どこの誰だか知らないけど、毎日毎日ロータリーの向こうからあなたに追いかけられて、本当に怖かったわ」
なんだ? 何を言っている。あの夢は、俺の見ていた夢のはずだ。何故彼女がその事を知っている?
「昨日の夜、ナナが死んだ。夢の中で、あなたが手にした斧で殺された」
違う、あれは俺じゃない。俺じゃない……はずだ。
「あなたが警察のフリをして会社に来た時私がどんな気持ちだったか。さっきの電話でも『捕らえた』とか言ってたじゃない。人質でも取って、電話先のお仲間と一緒に私も殺すつもりだったんでしょう? また夢の中で? それとも今度は現実でかしら?」
視界がかすれる。
2人しかいない駅のホームで、彼女の高笑いだけが響いた。
「アハハハハ! ああ、清々したわ……この化け物」
それが、初めて見た彼女の笑顔だった。