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こうして下僕になりさがる - 3

 身体の奥底で醜い感情がうごうご蠢いているこの感じ。気持ち悪い。もともと価値なんてない私が、もっとずっと醜悪な人間に成り下がったような気がする。最低だ。最低でしかも最悪だ。

 私は全てを振り切るように走って走って、商店街の細い路地の奥、ニル婆のいる場所へ戻って来た。

「おや、早かったね」

 ニル婆はそう言ってにやりと笑うと、くゆらせていた煙草を灰皿で押しつぶした。

 本当だったら、顔を合わせたら文句を浴びせてやろうと思っていたんだ。返却期限を半年もブッチする奴があるか。しかもそれを他人に返させようなんて、どんな神経してるんだ、って。でも、あれだけ昂っていた気持ちが、不平不満が、全部どこかへいってしまった。

「もうちょっと色々話してくりゃあよかったのに」

 そう言ったニル婆は、果たしてどこまで知っているのだろう。

 私のお腹の中で渦巻く汚い気持ちも――そいつのせいで気付いてしまった、この胸の内に在り続ける強い思いも。みんな、みんなお見通しなのだろうか。

「私は……っ!」

 ぐっと両の拳を握りしめながら、ニル婆に向かって叫ぶ。

「私は、小説家になりたいっ! なるっ! どうしても、なるんだ!」

 一次選考落選は辛かった。もしかしたら才能なしの烙印を押されたのかもしれない。それでも私は思わずにはいられないんだ。この夢を。

 それに気付いた瞬間、後ろばっかり向いていた私は『これから』のことが気になってたまらなくなった。

 私は、これを、ただの夢では終わらせない。

「……どうしたら、私は小説家になれる?」

 両目をこれでもかというくらいかっと見開いて、ニル婆に尋ねた。

「それが、あんたの占ってほしいことかい?」

 向けられた問いに、私はこくりと頷く。

 ニル婆はにわかに神妙な面持ちになり、私の顔をじっと覗き込んだ。

「――大海を知れ」

 厳かな口調でそう言い放つ。そして黙る。どうやらその言葉に続きはないようである。

「……そ、それだけ?」

 ぱちぱちと目を瞬かせながら拍子抜けする私に、ニル婆は面倒臭そうな顔をしながら言った。

「それだけって、どんだけまけてやってると思ってるんだい? これでも出血特別大サービスなんだよ。ほら、有難~く、頂いたお言葉を反芻しなっ!」

「……」

 そうだよね。ここで具体的かつ希望に満ち溢れたアドバイスをもらって、それからみるみるうちに道がひらけていく、なんて、ただの妄想だよ。ありえないよ。

 じわり、と涙が込み上げてきた自分の情緒不安定ぶりに嫌気がさす。それでもぐっと泣くのをこらえて、拳を握りしめ、言われたようにニル婆の言葉をゆっくりと繰り返した。

「大海を知れ……」

 その言葉から連想されたのは、有名な故事成語だ。『井の中の蛙大海を知らず』ってやつ。

「私は所詮、『井の中の蛙』ってことか……」

 狭い狭い井戸の中で、自分の知っていることだけを振りかざす愚かな蛙。それが私。って、そういう意味だよね。くそ、なかなか傷つくな。

 でも、そんな私が外の世界を知ることが、小説家になる未来に繋がる、って。ニル婆が言いたいのはそういうことなのだろうか。

「そっから先は自分で考えな」

 再び面倒臭そうにそう言い捨てたニル婆は、机の上に置いていた雑誌を取り上げてぺらぺらとめくり始める。

「カードは揃った。あとはお前さんが頭を使う番さ」

 『週刊パチプロ』の題字が躍る俗っぽい表紙の向こう側、視線を落として文字を追うニル婆はもう、私のことなんざろくに見ちゃあいない。

 どうしろっていうんだよ。

 ぽつりと浮かんだ心の声が、彼女に届くことはない。『頼みの綱』は黙々とページを繰るばかりだ。私はすっかり途方に暮れて、首が痛くなるくらいに上を向き、夕焼け色に染まりだした空と滑空するカラスの群れを仰いだ。

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