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こうして下僕になりさがる - 2

 それにしても、図書館という場所のなんと心落ち着くことか。

 あっちを見ても本、こっちを見ても本。椅子に座っている人は、読書に勤しんでいるか勉強をしているかの二択だ。基本的に、他人を観察してこき下ろしてやろうなんて腹の人間はここにはいない。それのなんと素晴らしいことか。

 私は図書館にいる人同士特有のこの距離感がとても好きだった。そしてもちろんここにある本たちにも、たくさんのことを教えてもらった。

 一般文芸のコーナーを通り過ぎ、さらに奥へ。私が自然に足を向けたのは、小学校の頃から通い詰めだった少女小説のコーナーだ。向かい側の棚にはヤングアダルトと呼ばれるジャンルが並んでいるのも「わかってる」感じがしてたまらない。

 この辺りは、小学生・中学生時代の私の根城と言ってもよかった。夏休みになると毎日のようにここに来て、手当たり次第に気になる本を読み漁ったものだ。あ、あのシリーズの新装版入ってる。この先生新作出したんだ。今度絶対買わなきゃ。

 並んだ本の背をひとしきり眺めまわしたのち、書棚から視線を外す。そのまま辺りをぐるりと見回した瞬間、視界の端にほんの僅かな違和感を感じた。

 本来ならこの時間帯にここにいるはずのない、私と似たような年の女の子がいるのだ。自習スペースの机に向かって、黙々と何かを書いている。一心不乱と言ってもさしつかえないような必死さだった。

 しかも私は、彼女の顔に見覚えがある。たしか隣のクラスの――ま、ま、ま、牧瀬。牧瀬さんだ。きのこのように丸いボブヘアーと赤ぶち眼鏡が個性的で、印象に残っていた。確か性格ももれなく個性的で、「あの子なんか変だよね」とか噂になっちゃう系だった気がする。って、一度も話したことのない私がそんなこと言っていいわけないけど。

 机に向かっている牧瀬さんは私服だった。学校はどうしたんだろう。私みたいに病欠? いや、もしかしたら仮病だろうか。

 ないと思うけど、私がこんなところで元気にふらふらしてたなんて言いふらされたらまずいな、なんてぐるぐる考えていたら、パッと顔を上げた彼女と目が合った。

「……何?」

 牧瀬さんは、メガネの奥の両目を細めながら、訝し気にそう問いかけた。

「用があるんなら手短にね。そうじゃなかったら私は作業に戻る」

 そう言いながらも、彼女の視線は既に手元の紙に落ちていた。私のことなんて、ろくすっぽ興味ないって感じだった。

「ああ、サボりって追及するんだったら、あんたも同じでしょ。宮木逸子」

 なんと、クラスの違う私のことをフルネームで呼べるとは。びっくりしたというか意外だった。

「……私は、朝熱があったから」

 名前知ってたんだ、的なことを言おうと思ったけど、コミュ力と会話文構築力が足りなくて無理だった。結局「だからなんだよ」って感じの情報だけを牧瀬さんに伝えて、黙り込む。

 ここはこのまま立ち去っていい場面か? それとも少しはそれっぽく会話しておくべき? 日頃のコミュ障っぷりがたたって、今、どうすればいいのかがまるでわからない。できれば早々に退散したいところではあるけれど、感じが悪いと思われるのも嫌なので、とりあえず何か話題、話題……と、彼女の手元に視線を落とした。

「あんまりじろじろ見るの禁止。提出前の原稿なんだ」

 牧瀬さんはそう言って、ぴっと右手の掌をこちらに向ける。

 厳しい口調で告げられたのは紛れもなく警告だったけれど、私の脳味噌は『原稿』の二文字を聞いた時点でフリーズしていた。原稿? 今原稿って言った?

 ――もしかして、彼女も『お仲間』なんだろうか?

「原稿、って……?」

 私はごくごく小さい声で、牧瀬さんに尋ねた。

「決まってんでしょ。漫画だよ」

 そう答えた彼女の口元は、にやりと笑んでいる。

「あたし、漫画家なの」

 小柄な身体を少し逸らして、牧瀬さんはとても誇らしそうな顔をしていた。

「漫画、好き?」

 向けられた問いに、私は思わずこくりと頷く。小説も好きだけれど、未だに週刊少年誌のチェックを欠かさないぐらい漫画が好きなのも本当だった。 

「だよね。やっぱり、漫画っていいよね」

 大好きなものを褒められた時って、どうしても最高の笑顔が浮かんじゃうもんだ。牧瀬さんが浮かべた表情を見れば、彼女が本当に、心の底から漫画を愛していることくらいすぐにわかった。

 でも、漫画家? 本当に? 彼女は私とおんなじ学校に通う、高校二年生だっていうのに?

 心の中に、どす黒い感情が沸き立っていくのを感じた。

 もし牧瀬さんの言っていることが真実だったら、彼女は、私の望むものと形は違えど、抱いた夢を叶えた勝者ということになる。

 つまんない自虐とか疑問とか嫉妬とか。そういう色んなものがぐるぐるぐるぐるお腹の中を渦巻いているのを感じた。車酔いをした時に近い吐き気。そう。私は、私の意思と関係なく蠢く、自分自身の悪意に酔っていた。

「――証拠」

 もはや前後不覚といってもいい私の口から、咄嗟に飛び出したのはそんな言葉だった。

「……証拠、見せてよ」

 牧瀬さんはきゅっと眉間に皺を寄せ、こちらを伺っている。

「あなたが、漫画家だっていう証拠、見せてよ」

 ぎゅっと拳を握りしめた私は、自分が口にした言葉がなかなかに失礼だという自覚をもちながらも、止まることができなかった。心の中ではずっと、「そんなことがあるはずがない」を繰り返している。私が掴むことのできなかった星が、あの子の手の中で燦然と輝いているなんて――そんなひどい現実が、あってたまるか。

「……いいよ」

 牧瀬さんは不敵に笑いながらそう言って、手元の紙を一枚こちらに差し出した。

「気が変わった。読み切りの冒頭、特別に見せてあげる。こんな機会、なかなか無いよ」

 差し出された紙を手に取った私は、必死の形相で右上のコマから順々に視線を走らせる。

 紙面には、シャープペンで描かれたいびつな線が無数に躍っていた。でもそれが一体何で、どんなストーリーなのか、私にはどうしたって読み取ることができない。

 正直、これが漫画だってことも、言われなきゃわかんないんじゃない、ってレベルだった。字はみみずがのたくったようだし、絵だって、言っちゃあ悪いけどひどいもんだ。ラフって言葉は聞いたことあるけど、そういうんじゃない。私だってちょっと練習すればこんなん書けるんじゃないの、って感じ。

 「なぁんだ」って胸をなでおろした私は、控えめに言っても最低だと思う。

 しかし牧瀬さんはそんな私を気にもとめず、嬉しそうにふふんと笑っていた。

「本当はどこに載るか教えてあげたいけど、一応まだ言えないことになってるからね。いやぁ残念」

 牧瀬さんが言葉を重ねれば重ねるほど、私の中で彼女が『イタイ子』になっていく。

 そりゃあね、「小説を書いているから私は小説家」とか言っちゃう奴、確かに一定数いるよ。ネットで見たことある。

 けれどそんなの絶対違うだろうマジで。私は心の中で拳を振り上げながら雄たけびをあげる。そんな甘っちょろい『自称プロ』の世界じゃない。私は小説家になる。なりたい、じゃなくて、なる。……なるんだよ。

「……そっか。大変だね」

 私はひきつった愛想笑いを浮かべながら、当たり障りのない返事をして、そっと後ずさった。「それじゃあ、もう行かなきゃならないから」とかなんとか、これまた無難な別れの文句を口にして。

 去り際に牧瀬さんが何か言ってた気がするけど、正直あんまりよく覚えてない。

 ただ、ぐるぐるとお腹の辺りを渦巻いているどす黒い感情があった。私はあんなんじゃない。あんなんじゃない。

 初めて言葉を交わした子を「あんなん」呼ばわりするなんて最低だ。それでも思わずにはいられなかった。私はあの子とは違う。違う。違うんだったら。

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