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こうして下僕になりさがる - 1

「こいつを図書館に返してきとくれ」

 ニル婆がそう言って差し出したのは、ちょい劇画調な作画のゴルフ漫画だった。十年くらい前に青年誌の中堅担ってました、的な雰囲気で……あれだ。千円カットの床屋に全巻置いてありそうな感じの。

 裏表紙を確認すると、市立図書館の貸し出しバーコードが貼られている。なるほど。確かに図書館の漫画コーナーって、こういう感じの単行本がびっしり並んでて、おっさんおばさんがごそっと借りていくイメージがある。

「――なんだ、それだけ?」

 市立図書館なら、ここから歩いて十分くらいのところにあったはずだ。

 『下僕になれ』なんて言い出すからどんな無理難題を突き付けられるかと思ったら、そんな子供にでもできそうなおつかいを命じられるなんて。

「そうだよ。良心的だろう」

 ニル婆はそう言って、皺くちゃの顔でけひゃひゃと笑った。その笑みに何か黒いものを感じないでもないけど、だって、あれでしょ? 図書館に本を返してくるだけでしょ?

「……まさか」

 私はぼそっとそう零すと、念の為にぱらぱらと漫画をめくって、どこかのページが破れちゃいないか、汚れちゃいないかをチェックした。うん、問題なし。ニル婆の意図がいよいよわからなくなってきた。

「だから、私は良心的なんだって言っただろう。いいからとっとと行っておいで。帰ってきたら、あたしのありがたーいお言葉をくれてやるから!」

 そう言って私の背中をぐいぐい押すニル婆は、気持ち悪くなるくらいのいい笑顔だ。

「帰ったら、絶対占ってよ! 約束だからね!」

 振り返りながらそう念を押す私を、野良の犬猫にやるみたいにしてしっしっと追っ払うニル婆。本当か? 本当にこの大魔王がこんなにチョロくて良心的なのか?

 拭えない疑問に顔をしかめながらも、私は漫画本を片手に、商店街のメインストリートを右折し公園通りに入る。

 ポケットのスマホで確認したところ、現在午後三時をまわったところ。幼稚園児だか小学校低学年だか知らないが、ちびっこがきゃいきゃいいいながら走り回ったり、滑り台を下りたりしている。そう。ここは公園通り。だったら公園がなきゃあおかしいってもんだろう。

 木下公園は、昔から近隣住民の憩いの場だった。いつもどこかに誰かがいて、じいさんばあさんがベンチでうたた寝したり、ベビーカーを押したママさん達がたむろしたり、今のようにちびっこがとんだりはねたりしている。

 公園、か。ぼんやりと古びた遊具を眺めていても、何の感慨も湧いてこなかった。近隣住民って言いはしたけど、そこに私は入ってないしな。

 潔癖気味な母さんは私に外遊びをさせたがらなかったし、父さんは平日も土日も関係なく仕事ばっかり。おまけに私はひどい運動音痴だったから、公園遊びが好きな子達から誘われるようなこともほとんどなかった。まぁ、誘われたところで私も楽しく遊べっこなかったから、それでいいんだけどね。

「ゆいちゃーん!」

 不意に聞こえてきたのは、女性の声だった。子供を迎えに来たのだろうか。流行りのリュックを背負いながら、ちびっこの集団に向かって手を振っている。

「いやー! まだ遊ぶのー!」

 そう言ってぐずる女の子を、片手で抱え上げ、一緒に公園を後にするお母さん。二人は二言三言会話し、やがて女の子の泣き声は小さくなっていく。

 あけ色に染まったまるくていかにもやわそうな頬が、お母さんの日にやけた首筋にそうっと寄せられるその仕草。

 きっとあの親子にとっては、なんてことない日常のワンシーンだったのだろう。けれど私には、まるで「幸福」というタイトルで切り取られた一枚の絵画のように見えた。

 照り付ける日差しにやられそうになって、目を細める。

 注視しているわけでもなければ、睨みつけているわけでもない。ただどうしてか鼻の奥がじんと熱くて、ちょっぴり痛かったので、私は強く瞬きをして、その場を通り過ぎた。

 市立図書館はここから目と鼻の先だ。よそ見をしなければ、すぐに目的は達成できる。

 私は植え込みの隙間を抜けて、小走りに図書館のエントランスへ向かった。入り口すぐにある水飲み場に、古ぼけた自動ドア。見慣れた風景が、変わらぬ穏やかさで私のことを迎えてくれる。だから私は、ようやっと口元を綻ばせながらカウンターへと向かうことができた。白っぽい色の弱い照明が、絨毯を踏む私の足取りをじっと見張っている。

 列についてから三十秒もしないうちに、私の番がきた。

 「返却です」と言って、カウンターの上に漫画本を置く。なんとなく司書さんから視線を逸らしてしまうのは、家族以外の本を返却するのが初めてだからだろうか。たしか規則違反じゃなかったと思うけど、と、自分の図書カードの裏に書いてあったはずの細かい文字に思いを巡らせる。

「……あの」

 気が付けば、眼鏡をかけて髪をひっつめた女性の司書さんが、眉間に皺を寄せて怒りをあらわにしていた。やべ。私、なんかまずいことしたっけ?

「――この本の返却期限、覚えていらっしゃいますか?」

 淡々とした冷たい声。そんなもん知る由もない私は、ただただ縮こまって「……覚えてません」と答えるしかない。

 司書さんは眉間の皺を二本に増やしながら、私のことをキッと睨みつけた。

「半年前ですよ。半年前! 図書館の本の返却期限は二週間です。守って頂かないと、困りますから!」

 司書さんはそう言って、ピッと漫画本のバーコードを読み取った。半分こちらを向いているディスプレイに赤字で表示されているのは、なるほど、約半年前の日付だ。

「す、すみません!」

 私にできることは、そう平謝りしながら早々にその場を退散することだけ。

 漫画本を『返す場所のわからない本はこちら』のラックに置くと、私は心の中であンのクソババアを盛大に呪った。くそ。これは確かに下僕にしか命じられないことだ。去り際に見たけひゃひゃ笑いが、あの時以上の邪悪さを伴って脳裏に蘇る。

「ちっくしょ……」

 思わず毒づきそうになって、慌てて口をつぐむ。図書館ではお静かに。にっこり笑顔のライオンが、天井からぶら下がりながらつぶらな瞳で私にそう告げていた。

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