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月隠
クタオ邸を辞したコージャイサンが自宅へと戻った夕暮れ時。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
玄関先で出迎えた執事にコージャイサンは鷹揚に答えながらジャケットを脱いだ。洗練された動きで受け取る執事に問うたのは当主の所在だ。
「父は?」
「執務室においでです」
「分かった」
短い返事の後、彼は早速執務室へと足を向けた。
コンコンと響いた軽いノック音。許可を得て入室するとゴットフリートは椅子に腰掛け、さらに机に肘をつくと手を組んで顎を乗せ。
セレスティアはその対面で腕を組み、麗しい顔を顰め厳しい眼差しで。
揃いも揃って真剣な表情で机の上に視線を向けているではないか。
なにか不測の事態でもあったのか、と思考を巡らせたところでカッと目を見開いたセレスティアが動いた。
「…………——これに決めたわ!」
机上を掠め高々と上げられた右手。見覚えのあるサイズ感の紙に、コージャイサンは数歩進んで机の上を覗き見ればイザンバとの写真がズラリと並んでいる。
服装からして今日のものだが、コージャイサンに撮られた覚えはない。さて、ここで彼は影を呼んだ。
「イルシー」
「ここに……って、夫人はその写真に目をつけたのかぁ。お目が高いぜぇ」
コージャイサンの左後方に現れたイルシーが言葉を紡ぎきると同時に見舞われた回し蹴り。危なげなく避け距離をとった彼にコージャイサンが淡々と詰める。
「お前は何を撮っているんだ」
「何って俺にも言い分はある!」
「言ってみろ」
「金の匂いがした」
声は至極真面目な調子で、フードがなければキリリとした顔つきになっていたであろうイルシーにコージャイサンは怒るでも呆れるでもなく。瞬きの間に、とある依頼を思い出した。
「またクタオ伯爵か?」
「これは伯爵が見たら泣くだろ。今回はクタオ家の使用人達だ。アイツらコージャイサン様とイザンバ様がイチャつくたびに宴会してるからなぁ。はぁ……ほんとなら三十ゴア入るヤツなんだけどなぁ」
わざとらしく、再び大きなため息をつくイルシーの脳裏でいけずに微笑むヴィーシャがチラついた。
彼女が余計な事を言わなければシャスティ達に貸出料として三十ゴアを受け取れる筈だったのだ。
しかしそれをヴィーシャに邪魔された。コージャイサンが呪いを受けている間、珍しく棘のない言葉を漏らした事をわざわざ突いてきたのだから本当にあの女はいけ好かない、とイルシーの口はへの字に曲がってしょうがない。
だが、彼は転んでもタダでは起きない。写真の需要は何もクタオ伯爵家だけではないのだから。
「訓練公開日も含めてとてもいい仕事ぶりよ。三十ゴアでは安いわね……別に褒美を取らせるわ」
「さすが公爵夫人! 話が分かるぜぇ」
母の口ぶりから訓練公開日の写真も買い取っている事をコージャイサンが察した。
そして、イルシーはと言えばセレスティアのお買い上げ宣言にウハウハだ。脳内からあっさりとヴィーシャが追いやられたのだから損失を上回る利益と言うのは強い。
もしやワザと写真を放置したのかと言いたくなるほどの従者の態度にコージャイサンが冷ややかな視線を向けると、彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
そんな従者に対してコージャイサンより先に口を開いたのはセレスティアだ。
「この先もしっかり務めを果たしなさい。二人の写真は当たり前だけど孫の写真は特によ!」
「孫って……どんだけ気早いんだよ。つか、俺の仕事は写真撮るだけじゃねーんだけど?」
「褒美は都度出すわよ」
「撮影はわたくしめにお任せください!」
褒美に釣られてコロリと態度を変える現金な従者だが、写真が手に入ることが確定したセレスティアの表情はご満悦の一言。これを持ちつ持たれつと言うのだろうか。
本人放置で撮影されることが決定したが母は言い出したら聞かない。コージャイサンは小さくため息をつくと、それで、と母に尋ねた。
「その手に持っている写真をどうするつもりですか?」
「決まってるじゃない。飾るのよ」
息子の問いかけに答える彼女は威風堂々たるもので。すかさずゴットフリートのフォローが入った。
「丁度ファブリスが写真を肖像画のように引き伸ばして印刷する術式を完成させてね。国王夫妻やご家族の写真を城でお披露目するから、ついでにうちもやる事にした」
「玄関ホールに飾れば嫌でも目につくもの。次のお茶会が楽しみだわ。コージーにこんな顔をさせるのはザナだけだと来たもの全てに思い知らせてやるわ! おーっほっほっほっ!」
その尊大な物言いは何様わたくし王女様で響く高笑いも様になる。口元に添えられた左手の角度も完璧だ。
しかし、息子はと言えばそんな目的で写真を選んでいたのかと呆れるばかり。
「自分たちのものを飾ればいいじゃないですか」
「それはもう選んであるわ」
「……そうですか」
国王夫妻、公爵夫妻に続きお披露目されるのがまだ婚約状態のコージャイサンとイザンバになるとは。
——まさか……俺たちの写真を飾るために国王夫妻の写真が披露されるのか?
そんな息子の視線での問い掛けにゴットフリートは笑みだけを返すとその視線を妻に向けた。
「ティア、どんな写真を選んだんだ?」
「これよ」
差し出されたのは微笑み合う二人。ただしイザンバの手がコージャイサンの頭の上にあり、優し気な手つきで撫でているのだろうと分かる一枚にゴットフリートの眼差しが一層和らいだ。
「ああ——……とてもいい写真だ」
「そうでしょう。社交中の表情は凛としているけれど、家だとこうして二人とも気を許している感じが良いわよね」
「本当だ。特に……ふ、くくっ、コージー。普段澄ましているくせにこの緩んだ表情……くくくっ」
「ええ。本当に」
忍び笑うゴットフリートとは対照的に穏やかな声で呟かれた言葉。
セレスティアの柔らかな表情は確かな愛情を持っている事を伝えているが、その真意が読めずゴットフリートが不思議そうに妻を呼ぶ。
「ティア?」
「親子って似るものね。この表情——あなたが私に向けるものにそっくりだもの」
慈愛に満ちた視線と共に告げられたその言葉に、パチリと目を瞬かせる彼の姿には防衛局長の威厳はない。
ゴットフリートは視線を写真へと向けると、その表情を隠すように口元へと手をやった。
「…………——そう言われると気恥ずかしいな」
「あら、堂々と誇ればいいわ。言葉にせずともこれほど雄弁に伝わるのだもの。それだけ私のことを愛してやまないのでしょう?」
「もちろんだ」
その自信と余裕を携えた笑顔の妻は美しい、とゴットフリートは迷いない肯定を返した。
慣れたように差し出された妻の手。その甲へキスを送れば彼女の口角は満足そうに上がる。
いくつになっても愛しい妻と笑顔を交わした後、ゴットフリートは楽しげな声を息子に向けた。
「……だ、そうだ。つまりはコージー。お前のザナへの想いもダダ漏れだ」
「そこを似ていると言われても嬉しくない」
「ぶはっ!」
あまりにもコージャイサンがぶっきらぼうに返すものだからイルシーが耐え切れずに吹き出した。
ぎろり、と音がするほどの視線を主から向けられたがこの父子が似ているのは才能面だけではない、と彼は思うわけで。
「んんっ……オンヘイ公爵家の未来が明るい事に間違いはなく実に喜ばしい事です」
なんてわざとらしくも殊勝な事を言ってみせたが主人の顔は顰められたままなのだから、視線一つ、言葉一つで変化をもたらす彼女にはやはり及ばない。
そんな男たちの会話を横目にセレスティアの目は写真の中のイザンバを追う。
心配そうに眉が下がっていたり、少し拗ねているようだったり、嬉しそうな笑顔だったりとその表情は様々だ。
だが、時折見え隠れする今までにない表情。
これは何と嬉しい変化だろう。
婚約が整った頃は肩肘を張り踏み込まずに
——敬愛はあった
一年が過ぎた頃、会話や笑顔がぐんと増えて
——友愛になった
学園に入学する頃には気の置けない仲で
——親愛を見せた
緩やかに進んだ二人の関係性。だが、淑女教育に携わるが故にイザンバの傷ついた心が張る頑なな一線にセレスティアも気付いていた。
けれども今は————恋心を抱いている。
彼女は分かりやすくコージャイサンの美貌に見惚れたりはしていない。ただ……。
——どんな表情でもその視線が息子へと向けられている事に
——時折見える恋情に染まった輝く瞳に
セレスティアは殊更嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。ザナ、すっかり可愛くなったわね」
漏れ出た声が喜びに弾んでしまうのはしょうがない。つられたようにゴットフリートも顔を綻ばせた。
「そうだね。可愛いだけじゃなくて防衛局に来た時の淑女としての振る舞いも大したものだった。局内でも評判がいいし」
「当たり前じゃない。私が手ずから育てた淑女なのよ。評判も最高になるに決まっているわ。……まぁっ!」
夫の言葉に我が事のように胸を張っていた彼女の目についた二枚の写真によって麗しい眉間にキュッと皺がよる。
それはコージャイサンがキスマークをつけているもの。
そして、まるで二人がキスをしているように見えるもの。
心底呆れた、と言った風にセレスティアから声が漏れる。
「言葉足らずなくせに手は早いのね。やっぱり親子だわ」
「ティア」
「あら、何かしら?」
咎めるような夫の声に彼女はふんわりとした笑みを返した。
その視線が息子へと向く。ガラリと雰囲気を変えて強く、意思を乗せて。
「愛し愛される女は美しく化けるわ。横から攫われないよう気を引き締めなさい」
「分かっています」
息子の返事にセレスティアは短く息を吐き出した。本当に分かっているのか、と。
そして、指差したのはキスをしているように見える写真だ。
「あなた訓練公開日でもキスしたんでしょう? あの子は奥手なんだから人前では控えなさい。嫌われるわよ」
「ザナが本気で嫌がる事をするわけないでしょう。あの日も今日の写真でも唇には触れていません」
「そうなの?」
母の歯に衣着せない指摘にもコージャイサンは淡々としたもので。
小首を傾げる彼女に「恐れながら」とイルシーが一礼した。
「夫人の懸念は尤もなんだけど、これはコージャイサン様がイザンバ様の首にキスマークを付けた直後でさ。イザンバ様の顔の角度が変わった事でそう見えているだけで、実際には触れてねーんだよ」
——俺たちの目の前ではな。
なんて言葉は蛇足であるから飲み込んだ。
イルシーの言葉にゴットフリートが厳しい顔つきになる。
「事実と違う見え方もここまではっきりと残ると誤解を生むな」
「はい。例えば前後不覚に陥った場合、都合よく切り取られた場面は既成事実となり危険でしょう。それが王族ともなればなおさら」
コージャイサンが示した危険性に考え込んだゴットフリートだが、さすがに理解が早い。
楽しいひと時を、美しい瞬間を、形として残す写真。それは他者に言葉だけよりも正確にその特徴を伝える手段ともなる。
だが、どのような発明にも開発者の思惑とは違う活用法を見出す者はいる。
——あやふやになる人の記憶だけよりも
——醜聞と引き換えの人の目の多さよりも
そう見えるように狙って写した一枚はその場を見たものがいなければ確固たる事実に入れ替わる。
ゴットフリートは少しだけ残念そうに息を吐き出した。
「撮影機や術式についての市場流通は暫くやめて防衛局のみで使用するか」
「その点についてはお任せします。流通を見直すのでしたら俺たちの写真を飾るのはやめた方がいいのでは?」
「それはするわよ」
コージャイサンの提案にセレスティアが即答した。どうやらその点に関しては考え直す気は毛頭ないらしい。
ゴットフリートは二人のやり取りに喉で笑い軽く流すと、ところで、と妻へ話を振った。
「息子が横から攫われる心配はしてやらないのか?」
「いらないでしょ。あんなに大勢の前で自分の意思を明言したのよ。これで余所見なんかしたら私がザナを攫うわ」
「それは頼もしい。なら俺は御者をしようか」
「いいわね、護衛要らずじゃない! そのまま三人で旅に出ましょう! きっと楽しいわ!」
「ティアが望むならどこまでもお供しよう」
微笑み合う夫妻にコージャイサンが苦言を呈した。この二人なら本当にイザンバを攫って旅立ちそうだ。
「旅ならザナは俺に返してから二人で行ってください」
しかし、セレスティアはいい事を思いついたとばかりに手を叩く。息子の苦言はスルーである。
「今度エルザの店に連れて行くわ! 可愛くなってさらに色んな服が似合うようになっているもの。ふふ、ザナを着飾るのは楽しいのよね!」
「母上はザナにとって上司みたいなものなんですから連れ回したら嫌われますよ」
しかし、ここでもまたコージャイサンの制止が入る。それも先ほどセレスティアが言った言葉を同じくして返してきたのだ。
可愛げのない息子に彼女はツンとそっぽを向いた。
「あの子が気を遣いすぎることくらい知ってるわ。私が何年淑女教育に携わってきたと思っているのよ。ちゃんと疲れる前に休ませるわ」
「それなら店に行かず邸にマダムを呼べばいい。その方が俺も選べる」
「コージーが選ぶと偏りがひどいのよ。ザナのドレスが黒と緑ばかりになるじゃない」
「何か問題でも?」
年若いイザンバだからこそ似合う色やデザインがある。セレスティアは彼女にそれらを纏わせたいのだ。
だと言うのに、この息子はいけしゃあしゃあとしているのだから小憎らしい。
「……独占欲まで強いなんて。本当、変なところが似るものね」
「ティア」
少し力強くゴットフリートがその愛称を呼ぶ。事あるごとに似ているとイジってくれるな、と。
しかし、呼ばれた当人はただにっこりと綺麗に微笑んでみせた。