6
二人の間に落ちる沈黙。
だが、先ほどのゆったりとした静寂とは違い、居た堪れなくなったイザンバは視線を逸らしたまま矢継ぎ早に言葉を吐き出した。
「エンヴィー様は確かに気は強い方ですけれど、社交界ではそれくらいの方がいいですし。学生の時から気持ちが変わらないって事は言い換えれば一途ってことだし。美人だし爵位も高いしスタイルもいいし美人だし……コージー様と並んだらお似合いだって……言われるだろうし」
「ザナ」
コージャイサンがその愛称を呼ぶ。まるでそれ以上言わなくていいとでも言うように。
そうなれば彼女はキュッと唇を引き結び、押し黙るしかない。
頑なな態度に彼はイザンバの左隣へと座り直すと、顔を反対側へ向けられた。だがそれに構わず固く握りしめられた手をそっと解く。
すっかり冷えた彼女の指先に自身の指を絡め遊ばせながら穏やかな声で囁いた。
「こっち向いて」
しかし、返されたのは首を横に振る仕草。
「……ごめんなさい。今……ちょっと無理、です」
か細い声で合わせる顔がないと背け続ける彼女の姿は悔いているようにも、怯えているようにも見える。
そんなイザンバを包み込むように、安心感を与えるようにコージャイサンは横から抱きしめた。
「じゃあ、そのままでいい。不快な話を聞かせて悪かった」
「……コージー様は何も悪くありません。ちゃんと初めに不愉快だって言ってたし、私が具体的にとお願いしたんですから」
はぐらかすような事もなく、コージャイサンは淡々と話していた。
話の内容は信ずるに値するものだが、イザンバは彼も同じように過去を見ただけと思っていた。
ところが思っていた内容とは違い、話が進むにつれて——彼女は自身の気持ちを持て余した。
本当なら自分の中で折り合いをつけるつもりだったが、どうしてか上手くいかなかった。
そんな風に足掻く彼女に、コージャイサンはゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。
「あのな、確かにザナの姿はなかったけど違和感はあったって言っただろう? 彼女との会話の中に不思議な声が何度も聞こえたんだ」
穏やかな声は知ってほしい事実を奏でる。
——冷えた指先に
——強張る肩に
温もりを分け与えながら。
「俺と彼女は合わない。最初に婚約者だと告げられた時からずっと受け付けないんだ。考え方も隣に立った感覚も何もかも。嫌悪感が先に立つくらいだ」
コージャイサンはその声に億劫さを隠しもしない。
イザンバもエンヴィーと対面した時を思い返せば、耳の奥で木霊するいくつもの声。
「早く婚約を辞退なさい」
「あなたなんかコージャイサン様に相応しくない」
「いつまでもその座にしがみついて図々しい」
「公爵家に望まれたなどと思い上がらないことね」
「あなたでは釣り合わないとお分かりにならないの?」
「地位も財産も美しさもない癖に」
「わたくしの方がよほど相応しいわ」
「何をしても凡才で何の取り柄もない女の癖に」
——あれ? どれがエンヴィー様に言われたんだっけ?
なにせ過去を振り返れば多くの女性から言われすぎたのだ。思い出せなくても仕方がない。
ぼんやりとしたイザンバをコージャイサンの声が引き戻す。
「そんな時に決まって不思議な声が聞こえるんだ。それは夢の中の俺が欲しい言葉そのものだった。彼女には悪いがついその声と比べてしまってな」
ちっとも悪いと思っていない声音。
ただイザンバはまた少しモヤッとした。エンヴィーとは別に比べてしまうほどの人物が側に居たのだと思うと胸が苦しい。
「何度救われたかしれない。いつしか声が聞こえるのを心待ちにするほどに」
優し気な声に耳を塞ぎたい衝動に駆られたイザンバだが、けれども肝心の手が冷え切って動かない。
より身を固くした彼女の首筋に頬を擦り寄せると、コージャイサンは殊更思いを込めて告げた。
「ザナが当時俺にくれた言葉が、夢の中の俺を救ったんだ」
「…………え?」
ゆっくりと、振り向いた背けられていた顔。
——色を無くした頬
——不安に揺れる瞳
——引き結ばれてもかすかに震える唇
固くなったその姿に胸を痛めたコージャイサンはそっと左手を頬へ滑らせた。
「だって……記憶……私はいなかったって……」
「記憶が封じられても心と体が覚えてる。俺が求めているのはここにあるものだ」
そう言って正面から抱きしめ直した腕はどこまでも温かくて。
それでも、まだイザンバの心に刺さる棘。
「でも、エンヴィー様とこういう事……だって今日、ちょっと変っていうか……」
「誓ってしてない。触れたいとも思わなかった。今日離してやれないのは……たまに声は聞こえてもザナが側に居なくて…………——淋しかったから」
力が込められた腕はまるで縋るようで、けれども力無い声に今日の姿が思い返される。
『……——ザナ……ッ』
『ちょっとした反動だから気にするな』
『跡を付けるのは俺だけでいい』
首筋の赤い花弁がまるで息を吹き返したように脈打った。
「……コージー様」
吐露された心情にイザンバからゆっくりと強張りが解けていく。
それはまるでこの言葉を受け入れると言っているようでコージャイサンは体を預けてくる彼女に安堵した。
出会ってすぐに彼女がそうしてくれたように心臓の音に合わせて背中をポンポンと優しくたたく。不安が和らぐように、想いが伝わるように。
彼女が落ち着き始めたところでコージャイサンが口を開いた。
「当時のザナは推しが全てにおいて最優先で、俺に対しては婚約解消前提で線を引いていたし、興味も薄いし、気になる人は居るかと聞いてくるし」
「あ、いや、それは、そのぉ……はい……申し開きもありません」
おっと、いきなり詰められた。だがイザンバはしどろもどろになりながらも素直にその行いを認める。
事実当時のイザンバがコージャイサンに対してこんな姿を見せる事はなかった。
もしもコージャイサンが「他に好きな人がいる」と言えば「婚約解消、了解でーす!」なんて至極明るく軽い感じで返された事は間違いない。
「それでもちゃんと俺のことを考えて言葉をくれていた。甘やかすような事を言ったり、突き放すようなことを言ったり。今思えば中々の手管だよな」
「そんな高等技術は持ち合わせておりません」
答えるイザンバの表情のなんと渋い事だろう。コージャイサンは思わず吹き出した。
「ふ、くくくくっ。その顔……」
「お気に召しました?」
「んー、ははっ、いや、せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「うっぷす」
わざと渋い表情をする彼女の頭を撫でると変な呻き声をあげるではないか。
赤みが戻り始めた頬にコージャイサンもホッと息をつく。
「今の俺があるのはザナと出会えたからだ。感情が動くのも、強さを得たのも、アイツらを信頼するようになったのも、全部」
頭に置いていた右手を滑らせて耳飾りの方へ。
「記憶を封じられても、存在を感じられなくても、俺は何度だってザナを見つけて好きになる。俺と馴染む存在はザナだけだから」
そして、まるで宝物に触れるようにコージャイサンはイザンバの髪の一房を手の中に収める。彼女と視線を絡ませると、そのまま髪に口付けた。
——その甘やかさに
——その真摯さに
途端にうるさいくらいに踊り出すイザンバの心臓。
それを誤魔化すようにコージャイサンの手から髪を奪い返すとギュッと握り込んだ。
「い……いーけないんだ、いけないんだっ……そんな事……ただし二次元に限るってやつなんですよっ……!」
「ふぅん。でも——効いてるみたいだけど」
まるで見透かすようなコージャイサンの不敵な笑みに、これでもかと言うほどの赤がイザンバの頬を彩った。
真っ直ぐに伝えられた言葉に抱えた不安が残らず吹き飛んで、嬉しさや喜びが彼女の内を占めて朱を呼びつけたから。
ときめきが顕になった顔を隠すようにコージャイサンの肩にコツンと額を当てた。
「あのね、本当は……ヤキモチ、やきました」
「うん」
「コージー様がモテるのは今更ですし、私が何かを言われるのは平気なんですけど……私以外の誰かが婚約者で、コージー様の側に居たって聞くと……——すごく、モヤモヤしちゃって……ごめんなさい」
なまじ想像力が豊かなだけにイザンバは話を聞いてその場面を思い描いた。
イザンバから見たエンヴィーは美人だ。二人が寄り添う姿に落ち込んでしまい、途中から相槌すら打てなくなってしまったのだ。
「謝る事じゃない。嫌な思いをさせてたのに……」
そこでコージャイサンは言葉を止めた。
はて、と疑問を抱いたイザンバが顔を上げると手を口元に当ててはいるが隠しきれていない。
目をぱちくりとさせる彼女から呈された当然の疑問。
「……なんで笑ってるんですか?」
「ごめん。ヤキモチが嬉しいから」
どうでもいい相手に嫉妬はしない。
——大切だから
——愛しいから
そんな感情が伝わってきて、コージャイサンの頬が勝手に緩む。
同じ感情をエンヴィーから向けられた時は煩わしいばかりだったが、今腕の中にいるイザンバには庇護欲さえ湧くのだから。
だが、イザンバの膨らんだ頬に込められたのは不満だ。
「コージー様……ズルい。なんでそんな余裕なの」
少し拗ねた口調が伝えるのだ。私はいっぱいいっぱいなのに、と。
コージャイサンはその姿をあやすように頭を撫でると、少し考えてから本音を返した。
「そうは言うが俺も嫉妬くらいするからな」
「え? なんで?」
そう言って本気で首を傾げるイザンバの顔には『三次元に興味ありませんがなにか?』とありありと書いてある。
これにはコージャイサンがすんとなる番だ。
そして彼から心底呆れたと吐き出された長い息。少しだけ翡翠に圧を込めるとイザンバの体がそろりと離れた。
ジリジリと後退した彼女が言葉を受け止める姿勢になったところで、さぁ、聞かせてあげようではないか。
「やれシリウス様だサタン様だと他の男の名前ばかり聞かされる身にもなってみろ」
「いや、それ全部二次元!」
「男だけに飽き足らず何人の嫁が居ることやら」
「そこだけ聞くと私がすっごい浮気者みたい!」
「ちょっと目を離した隙に跡まで付けられて」
「不可抗力な上に付いたのは呪いの手形ですが!?」
「俺は貰ってないけどアイツらにも両親にも使用人にも、何なら騎士団長たちにも手作りのお守りをあげたらしいな。俺は貰ってないけど」
「よくご存知でー!」
ポン、ポン、ポン、と軽やかな調子のやり取りはすっかりいつも通りで。
「え、これはどうしたらいいやつ? ワタシ、オタク、辞メレナイ」
混乱しながらも飛び出した彼の不満にイザンバはどう対応すべきかと唸り始めてしまった。
そんな彼女へ圧を解いたコージャイサンが距離を詰めてゆっくりと手を伸ばす。
「知ってる。だから——……」
頬を包み込み、交わる翡翠とヘーゼルの視線。
「今は俺だけを見ろ」
強い口調とは裏腹に頬を包み込む手つきは優しく、見つめ合う翡翠はとろりと甘さが溢れていて。
たちまち赤く染まったイザンバの頬。高鳴る心音につられ恋慕と羞恥が溶けて混ざり合いヘーゼルに色がつく。
それはコージャイサンが見惚れてしまうほどに美しい。
一層甘くなった翡翠に見つめられ、はくはく、とイザンバの口が開いたり閉じたりとした。程なくして、その口から小さな音が漏れる。
「——……んで……」
「ん?」
コージャイサンが優しい声色で聞き返すと、少し目を伏せてから届けられたのは震えたイザンバの声。
「三次元では……コージー様だけだもん」
二次元にはたくさんの恋をしてきた彼女の唯一だと。告げられた言葉にコージャイサンから愛おしさが溢れ咲いた。たまらずイザンバの頬に口付けたのは仕方がない。
柔らかな唇の感触にピクリと彼女の肩が揺れたが、コージャイサンの視線は次に口付けたい場所に向いていて。
「いや?」
その場所を親指でなぞりながら窺う彼に、イザンバはゆるく首を横に振った。
「…………一回、だけなら」
その答えにコージャイサンが笑みを深めた。
「ザナ」
囁く声が甘く誘う。こっちを見て、と。
そろそろと視線を上げた矢先。イザンバの顔に影ができると、ゆっくりとした優しい触れ合いが唇を湿らせた。
触れ合ったことで胸を満たす愛おしさや喜び。
増すばかりの感情がイザンバに離れることの寂しさを教える——だが、離れたのはほんの一瞬。
コージャイサンは唇を啄むようなキスを繰り返す。
「ちょっ……コージーさ……」
抗議は角度を変えて重なる温もりに阻まれて。
やっと掌を間に挟むことでイザンバは腕の中から訴える。
「待って! 一回って言った!」
けれどもコージャイサンはその掌を絡め取った。そしてニッコリと、それはそれは綺麗に微笑むではないか。
「了承してない」
「んなっ……!?」
そう、コージャイサンは彼女の提案に笑んだだけでうんともすんとも言っていない。
まるで文句を封じるように軽く重なった唇が離れる直前、彼女の唇をコージャイサンの舌が撫でる。
「いま……っ!?」
「レベル——上げようか」
低く艶を含んだ声の甘いいざない、彼が親指に力を入れればそれだけで唇は浅く開いてしまう。
イザンバが可哀想なくらいに茹で上がるのはその意味が分かるから。加速した心拍がその緊張を表して、ブンブンと首を横に張った。
「ハードモードへの変更は受け付けておりません! 死んでしまいます!」
「大丈夫だ」
「だいじょばない!」
「自分で言った事をもう忘れたのか? 俺が探偵の格好する日まで死なないんだろ」
「くっ……言っ……た……けどぉ!」
確かにイザンバは言った。だがそれは未来の楽しみや生きる活力の話であって、羞恥で串刺しにされるような現状を乗り切るためではない。
しかし、それを知っていてなお翡翠は甘く強請る。ゆっくりと顔の距離を縮めて。
「それに俺がまだ足りない。ザナがここにいるんだって実感したいから頑張れ」
「あわわわ……」
ああ、彼女が拒絶しない事を知っている彼の確信を持った笑みのなんと小憎らしいことだろうか。
甘やかすように包まれる、その居心地に白旗を振って。
再び唇が触れるまで、あと少し——。
活動報告に従者たちの会話劇アップ予定です。