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従者たちの衝撃も和らいだ頃、彼女が受けた呪いに触れたのならば当然彼にも水が向くわけで。
「コージー様は呪いでどんな夢を見たんですか?」
「不愉快」
しかしコージャイサンはいつも通り四文字に纏めてしまうはないか。これにはイザンバも神妙な顔で顎に手を添えた。
「なるほど……分からん」
「分かんねーのかよ!」
「前提も何もないんですからこれは無理ですよ。コージー様、具体的にお願いします」
イルシーのツッコミをサラリと流し、コージャイサンに再度願いでる。
流石の彼もそれで分かるとは思っていない。ただ感想としては一言で言えてしまうだけだった。
「ザナは過去を見ていたが、少しパターンが違ったようで俺は学園の入学から三年間をやり直していた。そして、そこにザナだけが居なかった」
「マジかー。存在抹消されちゃった。そんなに邪魔だったんですねー」
「彼女にとってはそうだったんだろうな」
存在しないと言われてもイザンバはあっけらかんとしたもので。けれども誰が願い主なのか分からず首を傾げる彼女にイルシーが口を挟む。
「エンヴィー・ソート元侯爵令嬢。イザンバ様の暗殺企てて捕まったヤツだ。覚えくらいあんだろぉ?」
「あー、ね……確かに学生の時も色々言われましたけど」
イザンバに苦笑が浮かぶのは覚えがありすぎるからだろう。
直接の言いがかりはもちろん影口にマウンティング、それらをイザンバが右から左に聞き流せば別の嫌がらせに発展したのだから、ガッツ溢れる女子は怖い。
視界の端でジオーネが拳を握った。
「お嬢様の足元にも及ばぬ女の癖に……許すまじ!」
「全くだ。イザンバ様、過去にどのような事を言われたのですか?」
さりとて、それを人に言う気にはならない。ファウストの問いかけにイザンバは唇の前で人差し指を立てると悪戯っぽく微笑んだ。
「もう済んだ事だから内緒です」
本人が気にしていないのなら問い詰めてもしょうがない。
さらに言えば、相手はすでに想い人から呪いを返されているのだからイザンバの分も含めて報復は完了していると言えるだろう。
ファウストとジオーネが了承の意を頭を下げて伝える。
「ソイツがコージャイサン様に呪いをかけてさぁ。まぁそれなりに大変だったワケ」
イルシーの言葉に、訪れてすぐのコージャイサンの態度に、そしてエンヴィーという女性の性格を知るからこそ、その厄介さや面倒さだけはイザンバに伝わった。
コージャイサンに向けられた彼女の視線に労りが混ざる。彼はそれを受けて大丈夫だと言うようにゆるく口角を上げると静かに語り始めた。
「彼女は俺の記憶からザナの存在を消して自分が婚約者として振る舞っていたんだ。反発の声が少なかったのも自分の方が相応しいという彼女自身の呪詛の一部からだろうな」
「ほぉほぉ。いわゆる成り代わりですね」
キリリとした表情でイザンバは相槌を打つ。
どこかおどけた口調だが、頭の中ではエンヴィーがコージャイサンの隣に立つ姿を想像して胸にモヤを抱えた。
「俺も記憶を封じられていたから父が決めた婚約者だと言われて納得した節もある。あの時ザナと婚約してなかったら他の誰かとそうなっていた可能性もあるし」
「まぁ、そうですよね」
それはありえた未来。
婚約は何も恋愛面ばかりではない。政治的、経済的に繋がりを持つことを考えるとエンヴィーでなくても他の女性がその位置に立つ事は貴族としては当たり前で。
従者たちも耳を傾ける中、コージャイサンの語りは続く。
「婚約者としてエスコートはしていたが、どうにもしっくりこなくてな。ただ彼女自身も自由に動いていたから成り代わると言うよりも自分の都合のいいように変えたかったんだろうな。同じ場面と違う場面があったから」
「へぇー、どんな感じに?」
「違ったのは出掛けた場所だな。彼女が行きたがるのは観劇や宝石店とか普通の令嬢そのものだったし。あと俺の部屋も少し変わっていた。ザナから貰ったものがなくなっていたんだ」
「あらら、そこまでですか」
徹底しているなぁ、と感心したように微笑むイザンバ。
コージャイサンにもお茶を勧めると二人は揃って一息つく。
内容としてはまだ序盤。
それなのに聞く側にも語る側にももう疲れが見えるのはなぜだろう。
「婚約者と言われても親しくないから俺の行動は基本的に社交と変わらない。ただ彼女の望む対応ではなかったようでな。よく癇癪を起こしていたし、友人たちにも冷たいと言われた」
「そうですか」
コージャイサンの話にイザンバが静かに調子を合わせるが手持ち無沙汰なのか指は髪の先をいじりだした。
「そうしているうちに三年になるとロイヒン男爵令嬢まで出てきた。やたらと二人で絡んできてはくだらない言い合いを聞かされて……ただ婚約者だからと言われれば行動を放置するわけにもいかないし」
「……大変ですね」
「魔獣討伐訓練では一緒のチームになっていたしな。長期休暇を領地で二人きりで過ごしたいとも言い出して、とにかく男爵令嬢や他の女性を遠ざけようとしたり、俺自身に触れてくることが増えた」
「……——ふぅん……」
くるり、とイザンバの指先が遊んだ毛先。軽く巻かれた一筋はするりと指を通り抜けた。
そして、話を聞いた従者たちから主人に向けられる哀れみ。
嫉妬に駆られた女の典型的な行動にはつくづく嫌気がさすものだ、と。まぁイザンバには違う意味で振り回されるが。
コージャイサンは従者の視線にため息を返した。
「記憶は封じられていたが思考や体を操られている感覚はなかったからまだ良かったと言うべきか」
「記憶を……ね。妙に時間がかかったのはそのせいかぁ」
そう呟きながらイルシーは頭の後ろで腕を組んだ。
ヴィーシャたちからの報告で知ったイザンバが受けた呪いの期間、本人から聞いた話との違いがこんなにもあるとは思ってもみなかったのだ。
「ああ。違和感は感じていたんだが記憶がないせいで何がおかしいのか気付かなかった」
「術式をお使いになられたのですか?」
「それは問題なく使えていた。防音魔法が使えるとは気付いたが、なぜ使えるのかは分からなかったし、退魔の呪文に関しては覚えてすらいなかった」
「イザンバ様に関連する事柄が悉くとは……」
あまりのことにファウストの頭が痛む。
祓う手段を持つから受けた呪い。その手段を記憶ごと封じられていたのだから。
ジオーネがふと疑問を口にした。
「なぜその女はそのように回りくどいことをしたんでしょうか? お嬢様に成り代わるだけなら記憶をすり替えれば済む話です。わざわざ学園の三年間をやり直さなくても良いのでは?」
「彼女の目的は卒業パーティーだ」
コージャイサンの回答にジオーネは首を傾げた。
貴族ならばパーティーは珍しくない。それなのにどうして、とさらなる疑問が顔に出る。
そこにイルシーが口を挟んだ。それは心底エンヴィーを馬鹿にするような口調で。
「卒業パーティーでコージャイサン様だけが婚約破棄を言わなかった。アレも結構話題になってたし、そんだけ大事にされている婚約者の立場になって悦に浸りたかったんだろぉ」
「ああ、そう言うことか」
「女の情念と言うものですな」
くだらない、と打ち捨てるジオーネ。ファウストが納得顔を浮かべるのは年長者ゆえか。
時に人を激しく突き動かす様々な感情は意思での制御が難しい。
不安、悲嘆、驚愕、歓喜、そして嫉妬も。
それでも、常識ある人はそれらを抑えようとする。踏みとどまろうとする。
だが、エンヴィーにその枷は無い。だからいとも簡単に呪いに手を出したのだ。
「つか、領地で二人きりとか狙ってんなぁ。あの女、体つきは良かっただろ? 記憶がないなら誰に遠慮する必要もねーんだし……ヤッた?」
そんなイルシーの言葉に飛んできたのはダーツの矢ではなく射殺すような冷たい視線。
「ヤッてない」
「なんで? 据え膳じゃん。ヤりたくならなかったのかぁ?」
「ならない」
「ぷっ……くくくくっ。あーあ、あの女かわいそー」
しかしイルシーは縮こまる事なくニヤニヤと笑う。哀れみの言葉を吐く癖になんと歪む口元か。
ちっとも可哀想とは思っていないその様子、かと言ってコージャイサンは咎める事なく淡々としていて。
「だが狙ってはいたんだろうな。次男が『彼女を抱いていたらもっと呪いが深部にまで至った』と悔しがっていたから、そうなると俺は操り人形になっていたようだ」
何一つとして現実となっていないからこそ彼は隠す事なくサラリと告げる。
話題を振っておきながらも彼らは主がそう簡単に女の手に落ちるとは思っていない——たった一人を除いて。
「成る程なぁ。宿願のために洗脳も加えるつもりだったのか」
「体を使うのはあたしたちもよく使う手段だ。その方が御しやすいからな」
「呪いが二体居たのはそういうことも絡んでいたのですな」
いくら婚約破棄騒動を巻き起こした王子の従兄弟とは言えコージャイサン・オンヘイという男を御すのは容易くない。
二手三手と策を弄したが、結果として全て返されてしまったのだから相手側としたら大誤算だ。
「お戻りの際には聖なる炎が使われていましたが、いつ記憶を取り戻されたのですか?」
ファウストが持ち出したのはコージャイサンが起きる直前の眩い紫銀の炎。
あれは三年間をやり直しているどのタイミングだったのかと疑問が湧いたのだ。
「三年の前期が終わる頃だ」
「なんですぐ戻らなかったんだよ」
「目的を思い出したのもその時だ。それに彼女が願い主だと言う事は分かったが同時に次男も呪いの願い主だと分かった。持ち帰る情報は多い方がいいだろう」
「そりゃそうだけどよぉ」
彼は目的を優先させただけの事。
しかし、待たされた身としてはすんなりとは頷けない。イルシーの口がへの字に曲がった。
コージャイサンも出来ることなら早く帰りたかったのだが。
「彼女は勝手に触れてくるからすぐに思考は読み終えた。だが、一番情報を持っていたヤツがザナの聖なる炎で焼かれてから中々近づいてこなかった。結局卒業パーティーまでやる羽目になっただけだ」
「それで拗らせて戻って来たのかぁ」
やっと見えた「会いに行く」と譲らなかった理由。多大なストレスを抱える状況でそれを癒すものが本当に「足りなかった」のだとイルシーは納得を得た。
ここでツンツンと腕をつつかれた。犯人は左側に立つファウストの肘。
「あ?」
そちらに顔を向ければファウストとジオーネが顔を青くしているではないか。
不審に思って視線を辿ったイルシーはギョッとした。
その様子にコージャイサンも同じく視線を辿ればイザンバの姿があるのだが。
彼女は視線を下に向けていた。正しくは、膝の上に置いた本にだが、読んでいると言うよりもただ眺めているに近い。
「ザナ?」
呼びかけられたイザンバは本に向けていた顔を上げた。
「あ、お話終わりましたか?」
微笑んではいるがそれは淑女の仮面そのもので。一見明るく人当たりの良いそれは彼女の予防線。
一線を引くような態度にコージャイサンも目を見張る。
そんな中でイルシーがガシガシと頭を掻いた。そう言えば途中から声がしなかったな、と。
「あー……イザンバ様はこういうタイプか」
彼はイザンバ=騒がしいと認識しているが故に口を閉ざし、そっと風景に溶け込んだ彼女を見落とした。
完全に身内ノリで話していたが一部の会話について「しくじった」とイルシーは思い返す。
「こちらばかりが話してしまい申し訳ありません」
「ふふ、お仕事に関係することでしょう? 私の事は気にしないでください」
ファウストの謝罪にすら返されるのは作り込まれた綺麗な微笑み。その笑みが罪悪感にグサリと突き刺さり、ファウストの申し訳なさが余計に募っていく。
「お嬢様、あの、お顔が……大丈夫ですか?」
コージャイサンを迎えた時もしおらしい態度ではあったが、またそれとは違う。
ジオーネから案ずる声が漏れるが、しかし彼女の態度は変わらない。
「大丈夫ですよ。そんなに変な顔してますか?」
そうは言うが目には全く力が入っていない。まるで死んだ魚のようだ。
どう声をかけていいか分からずジオーネは歯を軋ませると右側にいるファウストへと鋭い視線を送る。
——ファウスト! なんとかならないのか!?
——自分にできる事はない! おい、イルシー!
——いや、俺も無理だっての。
順繰りに回される視線。と言うわけで、頼れるのはこの人ばかり。
コージャイサンの翡翠の瞳が真っ直ぐにイザンバに向く。
「ザナ、どうした?」
「なんでもないですよ」
だと言うのに彼女の返答にどこか拒絶の色が滲む始末。
——なんでもなくはないだろう。
イザンバ以外の全員が思うほどに硬すぎる態度だ。
コージャイサンの甘さに全振りしたような状態も大概だが、今日はイザンバの気分の落差も大きい。上がったり下がったりと本当に忙しない。
「怒っているよな」
「え? 怒ってなんかいませんけど」
そう返される声はカラリとしていて確かに怒りがない。
けれどもこれはこれで面倒な事になってしまったと従者たちは思うわけで。
「あっ! 俺あいつらの様子見てくるわ!」
すぐさまイルシーが打った逃げの一手。
「なら、あたしはヴィーシャに気持ちが落ち着くお茶を淹れてもらって来ます!」
「では、自分も行こう! 茶菓子もどんといるからな!」
ジオーネもファウストも便乗した。
——じゃ、あとは頑張って!
コージャイサンに丸投げだ。なんと素早いことだろうか。
慌ただしく出ていく従者たちに流石のイザンバも気を遣わせたと分かる。
「本当に怒ってないんですけど。……——ただ、ちょっとだけ……」
「何?」
聞き返されたがイザンバはギュッと拳を握り込んだだけで中々口を割らない。暫し続いた沈黙に、ようやっとポツリと小さな声が落とされた。
「…………聞いてて面白くないなって……そう、思っただけです」
そう言って顔を背けるのが精一杯だった。