7
現在
すっかりと夜も更けた深夜。ベッドで眠るコージャイサンに異変が起きた。
「イヤアァァァァァア!」
「ギャアアァァァァア!」
部屋を満たす目を開けていられないほどの紫銀の眩さと夜の静寂を切り裂いた絶望を帯びた断末魔。
警戒に当たっていた従者たちは唐突な浄化に目を庇いながら立ち尽くすことしかできない。
部屋が静寂を取り戻した時、コージャイサンが目を覚ました。
数度瞬きをしたあと、ゆっくりと腕を持ち上げる。筋力を確かめるように拳を握っては開くが、そこまでひどく衰えたわけではなさそうだ。
——戻って来た。
囚われた悪夢からの脱却にグッと拳を握りしめた。胸を占めるのは彼女に会えると言うこと。
——声が聞こえるだけでは物足りない
——姿が見えるだけでは満たされない
——炎ではあの温もりにはなり得ない
ところが拳越しに見えたモノに気分は急降下した。自身の体の上で浮遊する今にも消え入りそうな一体の黒い影がいたから。
「コー、ジャ……イサ、ン、様……愛……シ……」
途切れ途切れに縋りつく黒い影にコージャイサンの感情が揺れることはない。
黒い影は朽ちて崩れ落ちそうな手を懸命に伸ばした。
だが、触れたのは彼を守るように現れたイザンバの姿を模した紫銀の炎。ただ触れただけ。だが黒い影を完全に消し去るにはこれで十分だ。
コージャイサンに向けた想いも、手も、何もかもが届かない。抵抗することも声を上げることもできずに、黒い影は消滅した。
最悪な寝起き。しかも声を出そうとして違和感を感じた。それは痛みというよりも乾きだ。体を起こしサイドテーブルにあった水を飲むと喉を潤して呼ぶは忠実な影の名。
「イルシー」
「ここに」
応えたイルシーはすぐさまベッド脇に跪く。翡翠がその姿を捉えると彼は自身が得た情報を影に託した。
「牢に捕えているエンヴィー・ソート元侯爵令嬢。魔術師団に属するデブリ・ストーキン伯爵令息。この二名を呪いの使用および教唆で諜報部に知らせろ。次男の処罰はあちらに任せる」
「御意。って次男は? 元侯爵令嬢はどうすんだ? 殺ってくんぜ?」
「元々罪人だ。わざわざ手を出す必要はない。聖なる炎の呪文を手加減しなかったから、そもそも正気を保っていないだろう。様子を見てくるだけでいい」
そう、コージャイサンは一切手心を加えなかった。それはただ呪いが返るだけではすまないほどに。
けれども今の彼の瞳には敵意すらない。もはや無関心なのだ。
「ハッ。自業自得ってやつだなぁ。ま、あの勢いで呪いを返されたなら狂っててもおかしくねーワケだし?」
ご愁傷様、と嗤うイルシーは楽しげだ。そして、悟った。彼も全開で放たれるその威力を知るからこそ——主の怒りのほどを。
コージャイサンは淡々と言葉を続ける。
「元侯爵令嬢に呪いの手引きをした共犯者がストーキンの次男。父親同様ヤツ自身も叩けば埃が出る。が、こっちも正気は保っていないかもな」
「ならあっちに処罰任せる意味ねーんじゃ……いや、防衛局に所属してんだから必要か」
例え正気を無くしていても、例え個人的に罰を受けていようとも、組織に属し規則やルールを遵守するからこそ与えられる特権があるように、反した者は懲罰を受ける必要がある。
ただ身内のやらかしに防衛局、それも魔術師団には衝撃的な知らせだろう。
「小物すぎて見逃したんだろうなぁ。ま、俺には関係ねーけど」
知ったこっちゃねー、と笑うイルシーは完全に他人事である。処罰という名の後始末はあちらに丸投げだ。
また一口水を飲むとコージャイサンはそのまま別の影を呼ぶ。
「ファウスト、リアン」
「はっ」
揃ってイルシーの後ろで跪いた二人に告げるのはデブリの思考から抜き取ってきた情報だ。
「ストーキンのもつ邸、別荘も含めて四つ、全て押さえろ。各地に本邸にあったタバコがまだある。執事に関しては伯爵同様捕縛対象だ。ソート元侯爵の元からこちらに流れている者が数名いる。それも捕縛」
「私兵はいかがなさいますか?」
「好きに暴れて来い。どのみち処罰対象だ」
「仰せのままに」
ファウストの質問になんの感情も含まずコージャイサンが与えた指示は生死を問わず。
順番に叩くか、一気に叩くか、ファウストは思案しながらも恭しく頭を下げた。
「ただし、別邸の地下に捕えられているストーキン伯爵の長男。こちらは保護して防衛局に引き渡せ。麻薬漬けにされているが彼は伯爵を止めようとしてそうなった被害者だ。潜入時に殴打されたメイドは本邸の地下にいる。儀式の生け贄にされる前にこちらも保護」
「了解いたしました」
告げられた保護対象者の情報を頭の中で並べてリアンが受託する。
コージャイサンが視線をまたイルシーに向けた。これは彼が呪いを受けた理由の一つ。
「ソート元侯爵家の別荘、今は別名義となっているがそこに『商人』がいる」
「マジで?」
「それとお前が見た魔法陣、布に刺繍されていたんじゃないか?」
「あー……そうだな」
「恐らく儀式用の他にも複数ある。『商人』はそれを使うそうだ。抜かるなよ」
「当然」
挑発するように問えばイルシーもニヤリと口角を上げて返す。
主自らのお膳立てだ。ここでやらなければ筆頭の名折れ。弧を描く口元がいっそ凶悪だ。
コージャイサンは立ち上がると少しふらついたがそのまま机の方へと歩く。従者たちもそれに続いた。
卓上にはインテリアのような箱、それに向かってコージャイサンが手を叩くと音に反応して日付と時刻が示された。しかし、それを見た彼は首を傾げる事となる。
「ん? 六日しか経ってないのか」
「はぁ? 六日も経ってんだよ!」
返すイルシーの声に含まれた怒気と呆れ。後ろでファウストとリアンも頷いて同意を示している。
「ったく、調査のためにあえて呪いを受けるなんて言うからすぐに終わんのかと思えばまさかの丸六日寝っぱなし! 公爵閣下も人が悪いぜぇ。『十日経っても起きなければ俺が叩き起こしてやろう』っつって放置すんだからよぉ」
わざわざゴットフリートの声真似付きで言っているが、どうやら彼にとっては不服だったようだ。
叩き起こすと言っているが、ゴットフリートもその豊かな才能で退魔が出来ることが分かった。
息子の検証結果を防衛局内で共有した際に「やったら出来ちゃった」というなんとも軽いノリだ。実に親子である。
その際に「才能とは時に理不尽だ」と王が愚痴ったとかなんとか。
コージャイサンが受けた呪いは学園時代の三年分を上書きするようなものであったが、実際にその時間を過ごしたわけではない。
——どれほど待たせたかと思ったが……。
現実世界との時間の流れを知る術が無かったが故に生じた齟齬であるが、それが六日で済んでいるのだから確かに『しか』と言いたくなる。
イルシーたちに顔を向けると彼らはまた揃って頭を垂れた。
「無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
退魔の才能がない彼らにはただ主が帰る事を待つしか出来なかった。それはどれほど歯痒く、落ち着かない六日間だった事だろう。
怒りも呆れも不満も、恐らく彼らが自分自身に向けたものでもあるのだ。
「ああ。待たせたな」
ならばコージャイサンは変わらぬ姿を見せる事でそれらを払拭する。
そして胸ポケットから取り出したお守り。三センチほどの楕円の木に蛙のモチーフと古語の呪文を掘り込んだお守りは夢の中で彼を支え続けた。
「無事にカエル……か。ちゃんと戻ったぞ」
それが誰に向けた言葉か従者たちにはすぐに分かった。お守りを見つめる目があまりにも愛おしさを孕んでいるから。
待ち続けた従者たちの肩からもやっと——力が抜けた。
さて、お守りを見つめるコージャイサンの口から出たのは当然彼女の事。
「ザナはどうしている?」
「イザンバ様も生き霊や呪いを頑張って祓っておられるそうですが連日盛況だと聞いております」
ファウストはその頑張りを讃えるように、また主を安心させるように努めて穏やかに返す。
「体調に変化は?」
「目立った変化はないそうです。けれども毎日気絶するように眠っているそうです」
リアンの回答にコージャイサンの眉間に皺がよる。
気絶するように眠るとは穏やかな状態とは程遠い。いくら魔力回復薬があっても、イザンバの魔力は平均値。連日ともなると精神的にも厳しくなってくるのだろう。
「やはりザナには負担が大きかったか……」
「過保護かよ……ただの疲労だろ。つか、さっきの聖なる炎はなんだよ。イザンバ様の形してなかったか?」
首を傾げるイルシーに、さてコージャイサンはニヤリと笑う。
「ザナは俺にとっての火の天使って事だ」
「ちょっと意味分かんねーんだけど……頭、平気か?」
「至って正常だ」
全く、失礼な事を言う従者だ。
呪詛の世界ではコージャイサンの記憶を封じられただけで魔力への制限は一切かけられていなかった。
外部干渉であるイザンバの願いもまた届いたのだ。
「ザナは夢と呪いに関して何か言っていたか?」
「ヴィーシャたちから報告が上がってる。読む?」
「ああ」
渡された報告書の束。コージャイサンがそれを受け取り椅子に腰掛けるとファウストが声をかけた。心なしかウキウキとした声だ。
「主よ、空腹ではございませんか? 軽いものでよろしければすぐにご用意いたします」
「頼む」
「お飲み物は……すっかりお目覚めのご様子。時間は遅いですがコーヒーをお持ちします」
「ああ。その前に魔力回復薬を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
甲斐甲斐しく世話を焼き始めたのは忠犬よろしく待ち続けた反動か。その巨体に似合わない俊敏さで動き回る彼にイルシーからは「オカンかよ」との声が漏れた。
「俺が寝ている時の状況は?」
その問いかけに答えたのはリアンだ。
「黒い影が二つ、ずっと主に覆い被さっていました」
「成る程、それが元侯爵令嬢と次男か」
「その二つ、物凄い勢いの聖なる炎で祓われてましたけれどやはり退魔と言うのは回復薬が必要なほどの消耗をするのですね」
「二体なら問題ない」
主を気遣えば返ってきたのはケロリとした言葉。確かに魔力回復薬を欲した割には普通に動いていたが、従者たちはまじまじと主人を見つめてしまう。
「ただ夢の中とは言え連続して思考を読んでいたからな。それと絶対零度で炎を打ち消していたから今の消耗はそっちだ」
自我さえ保てればそこが現実だろうが虚構だろうが関係ない。コージャイサンはどこでもやる男である。
「派手にやってんじゃん。てか、思考って夢の中でも読めんのか?」
ふと疑問を抱いたイルシー。寝ている人の思考を読む事はあれど、夢の中で思考を読む行為をしない事から出た純粋な疑問だ。
「いや。夢の登場人物というべきか、そいつらの思考は読めない。読んでみたが思考も何も持っていなかった。だが呪いの使用者は簡単に読めた。魂を飛ばしているから思考能力もあると言う事だろう」
思い出してからのコージャイサンは夢の中で多くの人に触れた。家族に、友人に、学園の生徒に。
しかし、誰一人として思考をしていない、空っぽなのだ。
夢とはいえ呪いが干渉して出来た世界、思考が読めたのは魂そのままの存在のあの二人だけだった。
「呪いの体感と現実での実働が違うなら消耗も凝縮されるという事だろうがどの程度まで負担が増すのか……興味深いな」
けれども現実と時間の流れが違うせいか、それとも単に呪いの影響なのか、思考を読むのにいつも以上に消耗したのだ。
さて、愉快そうな主の調子に従者たちの反応はといえば……。
「いや、ソコかよ」
イルシーは呆れ返り。
「主だから保っただけで興味深いで済ませるには危険ですぞ」
ファウストが嗜めて。
「本当に……すごいしか出てこないです」
リアンはただただ憧れを強めた。ひとまず主が規格外であるからこそ出来た事だ。
三者三様の反応をサラリと流し、ここでコージャイサンは視線を部屋の端にやった。呑気に会話をしているが、そこには黒い影がウヨウヨとしているではないか。
「それで、生き霊とはあれか?」
「ご名答」
イルシーが状況にそぐわないほどニッと口角を上げた。
「ナンデオ前バカリ!」
「コージャイサン様、スキスキ好キーーー!」
「羨マシイ羨マシイ羨マシイ羨マシイ羨マシイ!」
「オ前サエイナケレバ俺ガトップナノニッ!」
「魔王様イタブッテクダサァァァイ!」
「結バレナイノナラ来世デ一緒ニナリマショウ!」
「オ前ノセイデ彼女ニ振ラレタンダァァァ!」
生き霊たちは護符に阻まれながらもそれぞれが好き勝手喚いている。
さて、ここでリアンが一体の生き霊を指差しながら素朴な疑問を口にした。
「……ねぇ、アレ。変なの混ざってない?」
「性癖とは人それぞれだ」
「いいか、リアン。イザンバ様には絶対言うなよ」
ファウストは優しい表情で首を振り、イルシーは圧を強めて言う。心配しなくてもイザンバの方にもその手の類は来ていたので、隠しても今更だ。
コージャイサンも眉間に皺を寄せ不快感を露わにしているのだから余計なことは口にしないに限る。
「あいつらは六日間順番待ちでもしてたのか?」
「いえ、六日かけて徐々に増えたという感じです」
主の問いにリアンが端的に答えた。言葉を継いだのはファウストだ。
「最初に異変に気付いた時にいたのは一体でしたがのちに一体加わりました。翌日の朝にはジオーネがイザンバ様の報告と共に護符を持ってまいりました。その護符に阻まれ、三体目以降はあのように……」
「実際コージャイサン様は一体目のせいで仕事を休んだからなぁ。これなら一矢報いれるって思って便乗してきたヤツもいんだろ。それこそ……防衛局内のヤツでもなぁ」
そう言うイルシーのなんと意地悪く歪む口元だろうか。
ふーん、と返すコージャイサンは自分に向かってきているものだというのにまるで興味がなさそうだ。それよりも彼の関心を引いたのは別のもの。
「護符、ね。夢にもこれの効果があったのか?」
「俺らが知るかよ」
「ああ、惜しいな。それならもう一体捕まえて……」
これには従者たちが大いに慌てた。彼らはこのパターンを知っている。それこそ身をもって。
真っ先にイルシーが声を上げた。
「いやいや、何言ってんだ⁉︎」
「まさか……もう一度呪いを受ける気ですか⁉︎」
「おやめください! 次も無事に戻れるとは限りませんぞ!」
リアン、ファウストと続いたが、騒ぎ立てる彼らにコージャイサンは淡々と返した。イルシーを指差しながら。
「俺じゃない。お前だ」
「なんでだよ! やらねーからな!」
いつものご指名である。拒否を申し立てるイルシーだがコージャイサンは気にしない。
「安心しろ。俺が取り憑かれたお前の思考を読んでいいタイミングで祓ってやる」
「見極めがギリ過ぎて不安しかねーわ!」
「ついでに消耗の凝縮具合もみたいから思考読んでこい」
「さっきので計算すればいいだろ⁉︎」
遠慮なくポンポンと飛び交うコージャイサンとイルシーの言葉にファウストはゆっくりと息を吐く。そして、頬が緩むのを止められないほどの安堵の声を出した。
「ああ、いつもの主が戻られた。これで一安心だな、リアン」
「本当良かったね、ファウスト! ……イルシーは主のためにそのまま実験台になったらいいと思う」
ファウストに向けて可愛らしい顔での同意から一転、イルシーにはニタリとした笑みを向けたリアン。これにイルシーが青筋を立てた。
「へぇ、言うじゃねーか。コージャイサン様が目覚めないだけで泣きべそかいてたくせによぉ」
なんと意地の悪い事を言うのだろう。人前で、それも主の前で泣いたと言われればもちろんリアンも黙ってはいない。
「なっ⁉︎ 泣きべそなんかかいてないし! 適当な事言うなよな!」
「ハッ! 不安そうに目ウルウルさせてたじゃねーか。そこらの女どもよりカーワイー顔してたぜぇ?」
「はぁあ⁉︎ そんな事ないし! しかも何その言い方! まじウザい!」
「あ? なんなら俺が再現してやるよ。ほら見ろよ、こーんな顔だったぜぇ」
「絶対嘘だ!」
やいやいと言い合う二人。イルシーはわざわざリアンの顔になって泣き真似をしているのだから本当に技術の無駄遣いだ。
そこへ空を切り裂く音が割って入ると、カッと小気味良い音を立ててダーツの矢が壁に突き刺さった。
コージャイサンが二人に向かってダーツの矢を投げたのだ。しかしそれをイルシーは指先で挟んで止め、リアンはサッと身を屈めて避けたのだからいつもよりも精彩を欠いていることが窺える。
風を纏いフードスタイルに戻ったイルシーがダーツの矢をプラプラとさせながら茶化す。
「寝たきりだったし筋力落ちてんじゃね?」
「うるさい」
もう一本お見舞いしたが、やはり止められた。ニヤニヤとした口元に苛立ちを誘われるが、ふと彼女の言葉が甦る。
『ところで、今度のお休みに地方へ行ってみませんか? 伝説の暗殺者を輩出したと言う隠れ里があるらしいんですけれど』
もう夢からは覚めたと言うのに……。
だが、これもイザンバが繋いだ縁。戻ってきたからこその賑やかさだ。
「本当にすっかりいつも通りですな。よろしい事です」
ファウストの言葉にコージャイサンはゆるりと口角を上げた。
活動報告に待っている間のイルシーたち従者の会話劇をアップ予定です。