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追憶での攻防
「そう言えば、ソート侯爵は新しい事業を始められるそうですね」
後期が始まってからのある昼休み。昼食の後、教室まで婚約者をエスコートするコージャイサンの姿がある。
振った話題は彼女の実家の事業について。コージャイサンも公爵家嫡男として事業に興味があるとでもいう風に。
それに婚約者は得意げな顔で説明し始めた。
「そうなんですの。相手は他国の商人なのですが共同事業の予定ですわ。二人だけの秘密ですわよ? こだわりのある愛煙家の意見を聞きながらフルーティーな香りのものや独特のニオイを軽減したものを開発中ですのよ」
「私も社交界に出るにあたって一度は経験しておいた方が良さそうですね。ソート侯爵にお話する機会をいただきたいのですが」
「ふふ、コージャイサン様もお吸いになるの? 父に話しておきますわ。でも、そちらにばかり夢中になりすぎないようにしてくださいませ」
「なぜですか?」
そう問えば婚約者はそれはそれは綺麗に微笑んだ。
「コージャイサン様の一番はわたくしでありたいですもの。例え父でもわたくしより優先されるのは嫌ですわ」
それは剥き出しの独占欲。
誰よりも優先されるのは自分である、と。
婚約者の心の一番を占めるのは自分である、と。
過ぎれば受け手の心を壊してしまうほどのそれを果たしてなんと呼ぼう。
「そうですか」
ところがコージャイサンは受け流したようで。流石メンタル鋼仕様とでもいうべきか。
けれども婚約者は拒絶されなかった事に満足したのか、パッと華やいだ表情でこう言った。
「そうだわ! わたくしたちも婚約しているのですから我がソート家とオンヘイ公爵家でもなにかしましょう! ファッションでもアクセサリーでもわたくしたちが宣伝すればどんな事でも成功しますわ」
婚約者の自信満々な様子にコージャイサンは案ずるように答えを返す。
「しかし、そんな事をすれば今の共同事業の相手との間に亀裂が入りませんか?」
「あら、それは有り得ませんわ。彼には我が別荘地を与えていますし、もう傘下も同然ですもの。それに彼は北側の国出身。我が家から去ったところで戻る場所はありませんわ」
「……そうですか」
婚約者の言葉にコージャイサンは暫し考え込んだ。前提を揃え、本質を見極め、客観的事実を探る。そうして導き出した結論に揺らぎはない。
そんな横顔を婚約者はうっとりと見つめた。それに気づいていながらもここで彼が図った話題転換。
「ところで、あなたは社交界に出るにあたって何か心配事はありませんか?」
「まぁ、気にしてくださるの? わたくしは大丈夫ですわ。人をあしらうのは得意ですもの」
コージャイサンの言葉に婚約者は微笑みながら返す。
「それにドレスは常に最新のものを作らせておりますし、宝石も価値の高いものを用意しておりますわ。わたくしもいずれ公爵夫人として流行をつくる身。コージャイサン様のお側にいて恥ずかしくないよう努めておりますのよ」
それは彼女の自負。侯爵令嬢として培ってきた美的センスは確かなものだ。人のあしらいについては言及すまい。
けれどもコージャイサンが聞いているのはそんな事ではない。
『心配事、ですか? それなら社交界に出る前に新しい魔法を作りたいです。思考を読まれたり精神干渉を受けたらブワーって跳ね返す的なもの。オタバレもしてるしコージー様に思考を読まれるのは構わないんですけど、やっぱり他の人ってなると嫌ですし。それに……公爵家の皆さんの足を引っ張りたくないですから』
耳を傾けたのは馴染んだ声。
彼女に向けられる敵意や害意、果ては殺意と言った悪意。オタバレを理由にしているが、自分を介してオンヘイ公爵家を害されては堪らないという思いがこぼれ落ちた。
だからと言って「じゃあ新しい魔法作ろう!」と言う結論に至るのも大概だとコージャイサンは思うわけで。
『読める人の感覚が分かるコージー様にお願いしたいんですけどいいですか? 説明するのめんd……難しいので、そのまま私が作りたいもののイメージを読んでください。その方が確実に伝わりますし。あ、思考の端々に妄想が転がってるかもしれませんけど、そこはいつも通りスルーしてくださいね!』
——あそこまでオープンにされると逆に清々しいけどな。
婚約解消だとか主従逆転だとかコージャイサンが望まない事を考えているところもあるが、伝わる内容もいつも話してくれていることと同じで、そこに恐怖や嫌悪がない。
邸で、学園で、街中で、どこを探してもその姿は見えないが、聞こえてくる声は今日も絶好調のようで心がいやに落ち着いた。
なんにせよ二人の違いに目くじらを立てる気はない。それをする価値もない、とコージャイサンが判断しただけだ。
そんな内心を悟らせる訳もなく、何食わぬ顔でエスコートをしていると婚約者の笑顔が陰った。
「ああ、でもあの男爵令嬢は気掛かりですわ。コージャイサン様はわたくしの婚約者なのに、いつも馴れ馴れしくて……。コージャイサン様、あの女に近づかないでくださいませ」
目を潤ませ、コージャイサンの手を握り締めた美少女の渾身の哀願とも言える。
それに対してコージャイサンはただ微笑んだ。
「そうですね」
「わたくしのお願いを聞いてくださるのね」
そう言って婚約者が浮かべたのは恍惚とした笑み。
婚約者の持つ独占欲、支配欲、それらに対してコージャイサンが応えるように動いた事で満たされた自尊心。
手を取るコージャイサンに伝わる赤裸々な彼女の思考。
優越感に浸る彼女はその手が触れる事実に酔い、翡翠の奥に隠された闘志に気付かない。
「嬉しいわ。コージャイサン様もようやく私のことを知りたいと思ってくださったのね」
「あなたが私に……全てを見せてくださるのなら」
その言葉に薔薇色の瞳に負けないほどに染め上がる婚約者の頬。
「もちろんですわ。わたくしの全てはコージャイサン様のものですもの」
そう言うと情欲を滲ませコージャイサンに向かって艶然と微笑んだ。
「ねぇ……わたくしは今でもよろしくてよ」
そう言って婚約者はコージャイサンの首に腕を回すと顔を寄せてくる。纏わりつくような甘い香りにコージャイサンも彼女が何を求めているのか察した。
だが、すぐにコージャイサンは接近する婚約者の肩に手を添えるとぐいっと押し返す。ここで突き飛ばしてはいけない、と懸命に堪えて……少し厳しい表情を婚約者へと向ける。
「……戯れが過ぎますよ」
「わたくしたちは婚約者ですもの。問題ありませんわ」
「見せ物になるつもりですか?」
「いいえ、見せつけるのですわ」
食い下がる婚約者にそれでもコージャイサンは距離を保つ。
表情こそ取り繕っているが限界がある。その内心は迷惑、不快、嫌悪——手っ取り早く言うなれば「無理」。この一言だ。
「女性にリードされたとなると私が笑いものになるのですが」
コージャイサンが眉を下げ、それらしく言うと婚約者は不承不承ながらも引き下がった。パフォーマンスとして騎士の礼をすると満足気になるのだからチョロい。
婚約者を教室に送り届け、自身の教室の前を通り過ぎた。
予鈴を無視し目的地を図書室へと定め一人向かう途中、ジャケットのポケットから取り出したのは露天商から買ったお守り。
——今、声が聞きたい。
常に抱いていた喪失感は声を聞く事で救われ、そして、渇望だけが増す。それは思い出してからも変わらない。
願い届かず、一人荒んだ心を落ち着かせていると横から声をかけられた。
「こんにちは、オンヘイ公爵令息。最近は婚約者との仲も良好なようですね」
柱の影から現れたのは以前も声をかけてきた伯爵令息だ。ニヤついた表情は相変わらず不快感を誘う。
コージャイサンはお守りをポケットにしまいながらしっかりと足を止めると、彼に向き直った。
「お陰様で。そう言えば、あなたは二年の後期から三年の前期の間に随分と順位を上げられたそうですね」
「ありがとうございます! 貴殿に知っていただけて光栄です!」
変わらないネットリとした視線にコージャイサンの腕に一気に鳥肌が立った。
そんな拒否反応も微笑みの下。紳士の嗜みも大したものだ。
さりげなく視線を外し、コージャイサンは何食わぬ顔で会話を続けた。
「今回は十位にまで上がっていて教授が驚いていましたよ。就職は魔術士団をお考えで?」
「そのつもりです。自動的に後継の座が手に入る嫡男と違って次男なんて身を立てないと食べていけませんから。お恥ずかしながら貴殿の地位を揺るがすには及ばなかったようですが、私も出来る方だと自負しております! お困りごとがあればなんでも申しつけてください!」
コージャイサンは難しいと言われることを人よりも容易く出来てしまう。
それはその道を志す者からは嫉妬を、そうでない者からは畏怖を、欲深いものからは道具としての視線を向けられる。
伯爵令息から向けられる視線には憧憬。しかしそこに確かに混ざる嫉妬。
「それにしても全てを見せてほしいだなんてよほど気に入っているのですね。やはり平凡な女よりもあちらの方がいいでしょう? 彼女も乗り気なようですしね。貴殿は本当に……幸せ者ですね」
ニヤニヤとした笑みは誰に向けたものか。それでもコージャイサンは微笑みを崩さない。
「それが叶えば幸せでしょうね」
「心配しなくても叶いますよ。ですがそれでも貴殿を満足させられるのでしょうか? 婚約者も美しい女性ですが、もっと上の、それこそ高貴たる方がおられます。その方と並び立つ貴殿の姿を……ああ、想像したら、もうっ!」
何やら一人で感極まっている。
コージャイサンは辛うじて微笑みを保ってはいるがもう視界に入れたくない、と視線を外した。
「そのためにもぜひ婚約者と仲睦まじくされるべきです! 私がお手伝いいたしますので!」
しかし、伯爵令息はお構いなしに息巻く。コージャイサンの手を両手で握ろうとして——バチリッ、と弾かれた。
——それは触れる事を拒むように
——そこにだけ結界があるように
静電気なんて生易しいものではない紫銀の光にコージャイサンの意識が向く。
——あれは聖なる炎……ザナ?
何かを知らせている。コージャイサンはすぐにそう思い至った。
呆然とする伯爵令息の掌を見るとひどい火傷を負ったようになっている。
——聖なる炎は呪いのみを燃やす。こいつ……。
けれどもここでコージャイサンはまだ理解が追いついていない伯爵令息に追い込むように言葉をかける。
「大丈夫ですか? すごい静電気でしたね。私も驚きました。念のため養護室に行かれてはどうですか?」
なんと! コージャイサンは静電気で押しきる気だ。例え無理があろうとも公爵令息が静電気と言えば静電気なのだ。伯爵令息に否など言えない。
「……そ、そうですね。すみません、養護室へ行ってきます」
ジクジクと熱と痛みに苛まれるのだろう。脂汗をかき始めた姿に余裕なぞまるで見えない。
だが、去り際にこれだけはとコージャイサンに訴える。
「貴殿もいずれお会いできます。それまではぜひ婚約者の願いを叶えてあげてください。彼女が真の幸せへと導いてくれますから。それでは、失礼します」
「ええ」
伯爵令息と別れ、コージャイサンは図書室へ向かいながら頭の中で情報を整理する。
「……成る程な」
冷え冷えとした声に合う薄情な表情。逆方向に立ち去った伯爵令息がそれらを知る術はない。
さて、翌日にはコージャイサンと婚約者が学園内でキスをしていたという噂が出回った。
「ふふ、わたくしたちの事が噂になっているそうですわ。こんな風に言われると少し恥ずかしいですわね」
と言いながらも勝ち誇ったように一層密着してくる婚約者にコージャイサンは人知れずため息をこぼす。
相手から近寄ってくるのだから好都合といえば好都合だが、正直なところもう彼女から得られるものはもうない。
不自然にならないように距離を取る方法を考えていると一人の女子生徒に捕まった。胸の前で手を組み、瞳をウルウルと潤ませる男爵令嬢だ。
「いくらコージャイサン様が好きだからって繋ぎ止めようと必死になってあんな噂を自分で流すなんて……コージャイサン様が可哀想」
どっかで聞いたな、なんて他人事に思っていてもコージャイサンの表情はしっかりと微笑みのまま。紳士の嗜みも優秀だ。
「私はコージャイサン様の味方ですから」
そう言って男爵令嬢がコージャイサンの手に己の手を重ねた。
しかしここでコージャイサンは閃いた。隙あらば迫ってくる婚約者から距離を取るために彼女を利用する事にしたのだ。なぜなら男爵令嬢がいれば友人たちもいるから。
婚約者からはコージャイサンも取り巻きに加わったように見えた事だろう。男爵令嬢との衝突が増えたが、以前のように仲裁には入らない。
そんな彼の行動に婚約者は苛立ちを隠せなないようで。休日に押しかけてくるだろう事は簡単に予測できたので先手を打った。
「休日は防衛局での研修がありますので会えません」
「少しくらいよろしいでしょう? わたくしは婚約者なのですよ」
「これも将来のためですから」
そういえば婚約者は一人勝手に勘違いしてくれる。コージャイサンがその将来に思い描いている相手を自分だと思って。
途端にご機嫌になると甘えるように腕に抱きついた。
「まぁっ! ふふ、それなら仕方がないですわ。あなた様ならすぐに国一番の騎士になれますわ。でもわたくしとの時間も必ず取ってくださいませ。寂しいですわ」
「ええ、その内に」
綺麗に微笑めばコージャイサンに軍配が上がる。忙しさを装いさっさとその場を離れた。
しかし、のらりくらりと躱せたのも数回。昼食前に不満を溜めた婚約者に捕まった。
「ずっと研修ばかりなんてひどいですわ! それなら戦場に出ない近衛騎士になさった方がいいわ。殿下とコージャイサン様の仲ですもの。研修も必要ないでしょう? それに直接戦うことなど下々にさせればいいのですから! コージャイサン様はいずれお父様の跡を継いで防衛局長となる大事な身。戦場に行く必要はありませんわ」
防衛局長が安全な場所にいてどうする。
人を動かし、自らが力を奮い、国を守る為に動くのが防衛局長だ。彼は誰よりもその責任を負う人の背を見てきている。
だから婚約者の言葉にコージャイサンが白い目を向けてしまうのも仕方がない。
「自ら戦わない者には誰もついてきません。騎士も魔術師もお飾りで務まるものではありませんから。命をかけて国を守る——そこに貴賎はありません」
コージャイサンの言葉に婚約者は少しだけバツが悪そうな顔をした。
彼女にとって『騎士』も『魔術師』もその身を飾るアクセサリーでしかないのだろう。
これを理由に一気に遠ざけた。金切り声? そんなものは聞こえないフリをすればいい。
そんな日々に時折感じるネットリとした視線。視線が外れた隙に窺えば彼は両手に手袋をするようになっていた。
あれ以来、伯爵令息から近づいてくることはない。
そして、ついに迎えた卒業パーティー。煌びやかな光あふれる空間。優美に流れる調べに乗せ、華やかな衣装がまるで咲き誇る花のように揺らめいている。
だが、煌びやかなはずの空間がコージャイサンには随分と色褪せて見えるのは肝心なものが欠けているからだろう。
視線を巡らせてもその姿は会場のどこにもない。覚えた一抹の寂しさを吹き飛ばしてくれたのはやはりこの声。
『……すっかり淑女の仮面が板についたな? そうですね、師匠が素晴らしい方ですから。何よりも隠れたいオタクに擬態は必須スキルですし、もう昔みたいにボロは出しませんよ。……え、ランタマ・カランケシ様の美麗画集がなんですって⁉︎ ハッ! もうっ、わざと外させようとしないでください』
ぷりぷりとした声につい笑いが漏れた。姿は見えないが向けられる表情も簡単に思い返せる。
ところが、せっかく心が穏やかになっていたのに、騒がしさの矛先がキノウンによってコージャイサンに向けられた。
「なぁ! お前もそう思うだろう⁉︎」
「え? 何のことだ? 迷惑だからこっちに振るな」
「は?」
驚いているところ悪いが、彼はもう一方の声に集中していて本当に話を聞いていなかっただけだ。
呆気に取られる友人たちをよそに彼女は感動に目を潤ませた。
「コージャイサン様……わたくしを信じてくださるのですね」
「いえ、あなたのことはどうでもいいです。エンヴィー・ソート侯爵令嬢……失礼、元侯爵令嬢でしたね」
「え?」
すげなく返してコージャイサンはぐるりと辺りを見回した。集うメンツに見覚えはある。先ほど振られたセリフにも覚えがある。
さて、パーティーはどこまで進んだのかと確認する様はまるで他人事のようで。
「おい、どうした?」
「——どうしたと言いながら、お前の中には何もないんだな」
肩に乗った友人の手に軽く触れてそう言う彼の瞳は少しだけ寂しげだ。
けれどもコージャイサンは彼らに背を向けた。
「コージャイサン様、どちらへ? 一体どうなさったのですか?」
「呪いにこういう使い方があるんですね。夢だというのに、いや、夢だからこそ随分と都合のいい事だ」
その言葉に、彼女の表情は一瞬固くなった。
「何を仰っているのか……分からないのですが」
「分からないなら結構。あなたのような普通の令嬢には私も興味がありませんから」
「待って……どうか、お待ちになってください!」
引き止める声に足を止めれば、エンヴィーは途端にホッとしたように安堵を浮かべた。
彼女はすぐに表情を微笑みへと変え、優雅に歩み寄る。それはそれは余裕のある表情でコージャイサンを諭すように言葉を紡ぐ。
「興味がないだなんて嘘を仰らないで。あの男爵令嬢よりも、あの女よりも、わたくしに笑いかけてくれたではありませんか」
「社交ですからね。円滑な人間関係のために微笑むくらいします」
コージャイサンにとって微笑みを形作る事は社交である。
けれどもエンヴィーにとってはそうではない。美しい微笑みを確かに向けられた覚えがあるからこそ返された言葉は思いもよらないものだった。彼女の眦が少し吊り上がった。
「社交? わたくしはコージャイサン様の婚約者ですのよ。それなのに社交だと言うの?」
「ええ、あなたの相手は社交です。私の婚約者は……俺が選んだのはイザンバ・クタオ伯爵令嬢ですから」
コージャイサンがきっぱりと言い放つ紛れもない事実。
記憶を封じられ、存在をないものとされた人物の名を紡げば——ピシリ、と世界に亀裂が入った。