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追憶……?
学園の後期が始まって二ヶ月、迎えたのはコージャイサンの誕生日。その日は朝早くからオンヘイ邸に来客があった。
「お誕生日おめでとうございます」
玄関口に立つのは微笑みを携えた婚約者。祝われて感謝の気持ちはあるが、それよりも素朴な疑問がコージャイサンから飛び出した。
「……そのためだけにこんなに朝早くに?」
「だって婚約者であるわたくしが誰よりも早くコージャイサン様に言いたかったんですもの」
そんな理由で——と言う言葉は思い直して飲み込んだ。しかし、朝早くからの突撃に使用人たちもどうやら呆れているようだ。
それもそうだろう。急な客人に使用人たちは仕事の手を止めざるを得なかったのだから。
「それとこちらがプレゼントになります。わたくしの瞳の色のカフスボタンですの。これをわたくしだと思って、いつでもお側に置いてくださいませ。わたくしはいつだってあなた様を想っておりますわ」
目配せを受けた侍従がケースの蓋を開けると、そこに鎮座するは見事な薔薇色の宝石のカフスボタン。
言葉通り、その行動原理が好意からなのは間違いない。一目見ただけで高価なものと分かる薔薇色の宝石は彼女の気持ちを表しているのだろう。
「ありがとうございます」
そう返せば婚約者は頬を染めて嬉しそうに笑った。普段の差し入れすら受け取らないのだから、婚約者からすればようやくなのだ。
「コージャイサン様は登校の用意は今からですの? わたくし待っておりますから共に参りましょう」
「分かりました。……悪いがサロンで彼女の相手を頼む」
執事に命じ婚約者をサロンへと送る。部屋に戻り一人になると朝にも関わらずどっと疲れが押し寄せた。
手に持ったカフスボタンを眺める。主張の強い鮮やかな赤。好みか、と言われればそうではない。
——単純なものに興味が湧かないんだが。
ルビーもエメラルドも宝石自体が美しいことは分かる。だがそれだけだ。興味をそそられるのはもっと別のもの。そう、例えば……。
——一見すると薄茶色だが、角度や光の加減によって緑にも見えるヘーゼルアイのような。
環境や状況に応じて違う姿を見せるその色は実に興味深い。宝石に例えることが難しいのが難点であるが。
目に入った薔薇色のカフスボタン。婚約者を待たしている事を思い出し、用意を始めた。
さて、朝イチで疲労に見舞われたコージャイサンだが、それは序の口。両親に、使用人に、友人に、学園関係者に。次々と祝われるのだから一日中忙しない。
もちろん見ず知らずの人からも祝いの言葉を貰ったが、贈り物に関しては……。
「受け取ってください!」
「お断りします」
すっぱりバッサリ、いつも通りである。辛うじて友人からは受け取ったが、そこは思春期男子たち。彼らの夢と希望とロマンは——哀れゴミ箱行きとなったとか。
夜は夜でオンヘイ邸で開かれたパーティー。そこでも大勢の人から祝いの言葉をもらった。
それが終わり私室に戻ったところで届いたのは祝いを告げる不思議な声。
『お誕生日おめでとうございます。これ、プレゼントです。……今開ける? どうぞー。ふふ、何だと思います? ……ただの箱に見える? インテリア? ブブー! ハズレです! ……これね、魔導具の時計なんですけど、こうやって手を叩くと〜……ほら、音に反応して時間が分かるんです! 面白いでしょ?」
——へぇ、いいな。
部屋のどこを探してもあるはずのないモノ、けれど興味を惹かれて仕方がないモノ。
その箱は今どこにあるのだろう。
またある日。学園が休日である本日は婚約者が訪ねてくる予定だ。だが、まだ時間はあると素材と術式の応用について調べ始めたのがいけなかった。
「コージャイサン様! レディを待たせるなんて失礼ですわよ!」
「すみません。つい時間を忘れてしまったようで」
執事が呼びにきた声も耳に入らないほど集中していたようで、約束の時間から三十分ほど待たせてしまったのだから。
だが、サロンで侍女たちから接待を受けながらも婚約者のお冠は変わらない。
さらに対面に腰掛けたのもいけなかったようだ。ムスッとした顔でわざわざ隣に移動してきた。
「わたくしとの約束を忘れるなんて酷いですわ。何をなさっていましたの?」
「素材と術式の応用について調べ物を」
そう答えると婚約者はため息を吐くではないか。
「そのようなくだらぬものに時間を費やすなんてやめてくださいませ。あなた様の才能はそんなものの為にあるのではありませんわ。そんな事は凡人にさせればいいのです。ねぇ、すぐにでも出掛けられますの? わたくし行きたい店がございましたのに」
これは完全にコージャイサンの失態だ。それは分かっているが、調べ物に対して「くだらない」と言われて苛ついた。顔に出さないのは流石である。
『好きな事してると時間ってあっという間に経ちますもんね。みてください。私もこの時間でこんなに読んじゃいました! 推しの胸熱展開がヤバくて! そちらも一区切りついたならお茶にしませんか? 今日のお茶請け、とても美味しそうですよ』
どうして、今また聞こえてくるのか。婚約者に対して謝らなければならないのに、不思議な声の方に返しそうになるではないか。
だが、不思議な声の言葉に少し胸が軽くなった。
「……お待たせして申し訳ない。ですがそんなに出掛けたかったのなら私を待たなくてもよかったのでは?」
「わたくしはコージャイサン様と出掛けたいのです! なのにくだらないものに貴重な時間を奪われてしまいましたのよ⁉︎ ねぇ、そんな事よりも婚約者であるわたくしとの時間を大切にしてくださいませ」
甘えるようにしなだれかかり、どうして分かってくれないのかとその態度で責める。
その目に、その言葉に、コージャイサンから謝罪の気持ちが一気に萎み、抱いていた嫌悪感がその芽を吹き出した。
——興味が持てないにしても、なぜくだらないと決め付ける?
ここであしらえばさらに面倒になると分かっている。だが、婚約者のご機嫌取りをしようとは到底思えず、コージャイサンの口をついたのは冷淡な言葉。
「そのようなくだらないことに時間を費やしたくはありません」
「え?」
驚き固まる婚約者をよそに巻き付く腕を外す。
何を驚くのかと、コージャイサンは不思議に思う。婚約者にとってコージャイサンのやる事がくだらないように、彼にとっても彼女のお出掛けに付き合う事はくだらないだけの事。
立ち上がった彼の口から続けて出たのは怒りも興味もない、それはそれは冷えただけの音。
「すみませんが、今日は気分が優れない。待たせてしまった上で申し訳ないがお帰りください。 埋め合わせはまた今度に」
「待ってください! わたくしはただ二人の時間を大事にして欲しいだけで……!」
「そうですか、次は気をつけます。……彼女を送って差し上げろ。では失礼」
婚約者は青褪めて追い縋ったが、コージャイサンはそれを躱し、控えていた執事に淡々と命じるとそれ以上言葉を紡がず部屋を出た。
閉じた扉越しに聞こえる金切り声。
——時間に遅れた俺が悪いが、ああも一方的に言われるとな。
二人の時間を大事にしてほしい、と乞われても言い方一つで応えようと思えなくなるのはどうしてか。
合わない価値観。この先も面倒な事になりそうだが、コージャイサンにだって虫の居所が悪い時もある。そう言う事だろう。
さて、後日。場所は学園の裏庭。婚約者が揉めていたと聞かされ、友人たちに行ってこいと言われてきたコージャイサンだが、数人の女子生徒とすれ違った先に婚約者が一人佇んでいた。
小さく震える肩、足音に気付き振り向いた彼女の目には涙が溜まっている。
「あっ……」
婚約者の眦からポロリと一つ零れ落ちた涙。それはきっと庇護欲を誘うには十分で。
「先日の事を相談したら、わたくしがコージャイサン様に相応しくない振る舞いをしたと責められて……あんな人たちが友人だったと思うと悲しくて……コージャイサン様、どうかお側にいてくださいませ」
そのまま婚約者は涙を流しながらコージャイサンに抱きついて助けを乞う。
己より小さなそれでいて柔らかな体の温もりや香り。エスコートやダンスの時と同じはずなのにどこか拭いきれない違和感。
ゾワリと立った鳥肌を隠すようにコージャイサンは極力意識して優しく聞こえる声を出した。
「そのままでは教室へ戻れないでしょう。落ち着くまで養護室へ行かれては?」
「お側に……いてくださいますか?」
「養護室までは付き合います」
養護室に着くと安心したのかふらりと婚約者が倒れ込んだ。
隣に立っていたのだから当然抱き止めはしたが、なんとコージャイサンは運ぶ事すらも養護教諭に任せてきた。ちなみに養護教諭は妙齢の男性だ。
「えっと、側に居てあげないのかい?」
「養護室までと言いましたし、養護教諭のあなたがいるなら私は不要ですよね」
婚約者相手に驚くほどの線引きだ。養護教諭の顔が引き攣るのも無理はない。
「あはは……いやー、聞きしに勝るクールさだね。分かった、あとは引き受けるよ」
お言葉に甘えて早々に辞した。なんだか婚約者の金切り声が聞こえたような気がしたが気のせいだろう、と歩を進める。
その教室へと戻る道すがら。
『……ふふ、ふふふふふふ、あはははははは! 『あなたなんかコージャイサン様に相応しくない』から始まる……うふふふふふ、必殺テンプレ祭り! ぷっくくくくく、脳内でね、んふふふふふふ、小説の登場人物で完全再現できちゃいましたよ! あははははははははははは! ヤバい、ぶはっ、ははははははははは! ツボった、あははははははははは! ……ふぅ、防音魔法を展開してくれてありがとうございます。お陰で思いっきり笑えました!』
聞こえた不思議な声は悲壮感とは真逆の楽観的な笑い声。言葉から察するに状況としては笑えるものではないだろうに、何故こんなにも笑っていられるのか甚だ疑問だ。
けれども全く気にしていないことが伝わるその笑い声にどこか安堵している自分もいる。
——俺が防音魔法を使うようになったきっかけは……なんだったか?
度々気づく整合性がとれない事実。そんな事を考えていると突然横から声をかけられた。
「こんにちは、オンヘイ公爵令息。あのように婚約者に頼られるとは男冥利に尽きますね」
目を向ければそこには平均的な身長、ポッチャリとした体型の一人の男子生徒。
一体どこから見ていたのか、その表情はニヤニヤとしていて不快感が湧く。
——確か……伯爵家のデブリ・ストーキン、だったか?
特に親しくもない彼がわざわざ話しかけてきたのだ。婚約者にまつわる事なのだから一応聞いておくのが筋だろうとコージャイサンも足を止めた。
「気は強そうですが爵位も見た目も申し分ない。それにあのスタイル。男なら寄りかかられて満更でもないでしょう。平凡な女よりも余程いい……そうでしょう?」
「そうですか」
「ええ。ぜひ彼女を逃がさないように。貴殿程の男が夢中になれば彼女も喜んで全てを差し出すでしょう。文字通り全てを、ね」
それだけ言って去っていった。
結局何が言いたかったのかも分からないまま、コージャイサンは教室へと戻った。
学園生活も二年目に入った。試験も、剣術大会も、婚約者との交流も、一年目と同じ流れに慣れたように淡々とこなす日々。ただ時々、不思議な声に耳を澄ませながら。
変わったと言えば後期に入ると将来の進路について考える機会が増えた事。
コージャイサンもその時点で有り難くも各所からお誘いを受けており、こう言ってはなんだが選り取り見取りの状態だ。
両親からは「選ぶも進むも自己責任だ」と言われている。つまりオンヘイ公爵令息としてではなく、コージャイサン個人としては進路を選べと言うのだ。
それ故にコージャイサンは考える。自分の将来を、真剣に。
「卒業後の進路はどうなされますの?」
自宅のサロンで婚約者とお茶をしているとそう尋ねられた。
「そうですね。色々と考えてはいます」
「騎士団か魔術師団のどちらに入るか悩まれているのでしょう? 本当に才能豊かでいらっしゃるからもうお話は頂いて当然ですわ。ふふ、コージャイサン様ならどちらを志されても国中に名を馳せることが出来ますわ。わたくしも妻として一生懸命支えさせていただきます」
妻として支える。婚約者の言葉は貴族女性として正しいのだろう。彼女の進路は結婚一択だ。
ため息を吐きそうになったコージャイサンの耳が拾った不思議な声。
『資格を取ってどうする、ですか? 私が取ったのは一般的なものばかりで特殊なものはないですよ。……そんなに必要か? うんまぁ、持ってて困るものでもないですし。最近では働く貴族女性も増えてきましたし選択肢は多い方がいいですから!』
選択肢が多すぎるのも考えものだがな、とコージャイサンは心底思う。誘われるのは有難いが、その分要らぬ妬みも向けられるのだから。
——婚約者は相談する相手ではないな。
何となくそうと思った。だってコージャイサンは騎士団と魔術師団で迷っているとは言っていないのだから。
「よくお考えになってください。どちらを選ばれてもわたくしはあなたの味方ですわ」
「ありがとうございます」
それは善意からのエール。一つ微笑みを返してコージャイサンはお茶と共に言葉を飲み込んだ。
婚約者が帰ったあとコージャイサンは図書室へと向かった。進路の参考になるかと本棚の間を彷徨い、なぜか全く関係ない娯楽小説を手に取ってしまった。
——忠臣の騎士……たまには気分を変えてみるのもいいか。
そう思い椅子に腰掛けて読み始めた。
するとどうだろう。初めて読むはずなのにどこか覚えのある内容と挿絵。
——襲いくる既視感
——繰り返す欠落感
——変わらない虚無感
——募る不信感
考えすぎて疲れているのか、と目を瞑ればまるで船に乗っているようにグラリと平衡感覚が揺れた。やり過ごす為に瞑っていた目を開けば……いつもにはないことが起きた。
一人であるはずの図書室に現れた爽やかな新緑のワンピースを着た茶髪の女性。
隣に腰掛け本を読んでいた女性がこちらを向いたが——顔は分からない。
『何かお探しですか? ……進路について、ですか。選び放題って言うのも大変ですねー。じゃあ、まずは興味があることや好きなことを思いつく限りあげてみてください』
そう言って紙を差し出された。
彼女は誰なのか、この現象はなんなのか。気にするべき事はあるのに、コージャイサンは紙を受け取り言われた通りに書き連ねる。
それを覗き込む彼女の唇から放たれる耳を打つ柔らかな声。
『……ふふ、やっぱりこういうのが好きなんですね。次に実際に興味が持てそうな分野に振り分けましょうか。これはこの分野、こっちはこの分野……うん、こんなものかな?』
そこへ彼女が分類分けを付け足した。綴られたそれは少しだけ丸みを帯びていて。コージャイサンは思わずその手元を覗き込んだ。どうしてだか懐かしい、と感じてやまない。
『この中で気になるもの全部、一度見に行ってみましょう』
「全部?」
明るく告げられ、つい返事をしてしまったが彼女は頷きを返してくる。
『はい、全部ですよ。実際の雰囲気を見ないと興味がある事でも自分に合うか合わないかなんて分からないでしょ? 同じ分野でも場所、特に人によって雰囲気は変わりますから』
「周りが薦めてくるものは?」
『薦められると言うことは客観的に見て向いているって事ですよね。それに対してやってみたいとかちょっと興味あるなって思うのであれば見に行くといいと思います。やりたい事、出来る事、やりたくない事、出来ない事。一つずつ確認して自分に馴染むものを見つけましょう。大丈夫。焦らなくても答えは出ますよ』
「自分に馴染むもの」
——ああ、そうか。
それはまるで天啓を得たような晴れやかさ。
周囲の期待も羨望も関係ない。期待に応え続けるには労力が要る。他者が勝手に押し付けてくるモノは重荷でしかないのだ。
ならば自分自身がどうしたいか。将来を考えるということは親でも、婚約者でも、誰の為でもない——自分の為だ。
自然と微笑み、礼を言おうともう一度女性の方へと視線を向けた。だが——そこには誰もいない。二人分の文字が書き込まれた紙もなくなり、不思議な声も聞こえない。
静かな図書室で、風が本のページを捲る。コージャイサンは一人、そっと息を吐いた。