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追憶……?
学園は前期(9月始まり)後期(3月始まり)です。
夜の帳が降りて幾ばく。意識が夢へと沈みかけた頃合いに変化は訪れた。
ザワザワと体の内外に押し寄せる不快感。
——それは捉われた
大切な何かが欠けるような喪失感。
——それは囚われた
体は重く指一本すらも動かせない拘束感。
——それは捕らわれた
黒い影はコージャイサンに覆い被さると、愛おしそうにその頬に触れ、優しく囁いた。
「異物を排除して、正しい形に戻しましょう。これが本来の形。あなた様はわたくしと在るべきなのですわ」
無防備な状態では抗うことも出来ず、翡翠は閉ざされたまま沈んでいった。
メインストリートの奥に見える荘厳な学舎、そこに向かって歩いている人の服装は皆揃いの白地、濃紺のジャケットの制服。
ここはハイエ王国の貴族子女が通う学園だ。
まずは学園の説明をしよう。ハイエ王国において学園というのは、成人の前段階である。
学園には貴族は十五歳を迎えた者から通う許可が下りる。一年を前期と後期で分けた二期制。前期には新年を祝う冬の長期休暇、後期には夏の長期休暇がある。
卒業すれば貴族としての教養が一通りあると言う証明にもなるので、成人への通過儀礼のようなものだ。
もちろん入学までに家庭教師を付けている家も多い。特に高位貴族はそうだ。しかし、下位貴族や経済状況が芳しくない貴族にとってその余裕がないのだから学園で学べるのは有り難い話だ。
授業では一般教養はもちろん人付き合いやマナーを実践形式で学んだり、また文官や騎士、職業婦人を目指す者はそれぞれのコースに入り知識や技術を身につけていく。
それと同時に人脈作り重要な場である。婚約者がいるものは交流を深め、そして婚約者がいない者にとっては結婚相手の候補を探すのだ。
しかしながら親が介入しない子どもだけの社交場であるため多少のオイタが横行する。まさに学園は貴族社会の縮図である。
十三歳頃から一気に背が伸びたコージャイサンもすっかり幼さが抜けた。周りと同じく入学を果たした学園に今日も通う。
磨きがかかった美貌、天井知らずの才能を持ちながらもよく言えば落ち着いた、悪く言えば退屈そうな様子で彼は学園生活を送っている。
「コージャイサン様。おはようございます」
教室に向かっていると名を呼ばれた。振り返ればそこに立っていたのは一人の女子生徒。目が合ったので挨拶を返せば彼女は顔を綻ばせて近づいてきた。
「おはようございます。あなたは……」
学園の一年生にしては成熟した体付き、しっかりと毛先を巻いたブロンドの髪、薔薇色の瞳がはまる猫目、美少女と名高い彼女は…………。
「まぁ、あなただなんて他人行儀な事を仰らないで。いつものように名でお呼びくださいませ。婚約者なのですから」
——婚約者……? 俺の婚約者は十歳になってからのお茶会で……。
考え始めると途端に思考に靄がかかる。思い出そうと記憶を探れば頭がひどく痛んだ。
——決まらなくて……ああ、それで先日父に紹介された……エンヴィー・ソート侯爵令嬢。
彼女は学園入学直前に引き合わされた婚約者。そう結論に辿り着き一応は理解したが、どうにも思考がスッキリとしない。
まだどこか距離を取るコージャイサンに対して彼女はニコニコとご機嫌な調子で一人語る。
「全員が同じ服だなんて高位貴族であるわたくしやコージャイサン様の品位が下がるかと思っていましたけれど、仕立ての質がまだ良い方で安心しましたわ。それに同じ服だからこそコージャイサン様の美貌がより目立って……ああ。わたくし、あなた様の婚約者である事が誉ですわ」
「そうですか」
うっとりと見惚れる婚約者に対してコージャイサンの返事は適当なもので。見た目を褒められることは昔から日常茶飯事だが、こういった反応にコージャイサンは辟易としている。
「ええ。服自体は規則ですので仕方がないので……ねぇ、お気づきになって? 我が領地で取れた純度の高いルビーですわ。宝石商にはわたくし以外ではこの輝きに負けてしまうと言われましたのよ。でも、本当はもっと美しいエメラルドが欲しかったの。ねぇ、コージャイサン様、今度贈ってくださる?」
輝かしいルビーのブローチ。それに負けない自信に満ちた表情。
並び立つ二人に周囲からは「美男美女でお似合いだ」との声が聞こえてくる。それらにコージャイサンはうんざりしてしまう。
コージャイサンの外見に寄ってきて
——俺は人形じゃない
公爵家、防衛局長の名声に擦り寄って
——その地位は父のものだ
己の美しさや装飾品の価値を主張し
——それ以外にも価値があるものは存在する
他者を下げることに余念がない
——なぜ自分が優位だと言わなければ気が済まない
どこにでもいる普通の貴族令嬢。
それがコージャイサンの婚約者への印象だと彼女はもちろん周囲の人間も知らない。
だが、両親はどうだろう。十歳の時も確か父に聞かれたはずだ。印象に残っている子はいるか? と。
——あの時、真っ先に頭に浮かんだのは……。
そんな事を考え始めた途端にまた頭が痛んだのは徹夜のせいだろうか。ふと、耳に届く予鈴を知らせるベルの音。
「そうですね、機会があれば。……授業が始まります」
「もう時間ですの? では参りましょう」
そう言って手を差し出した彼女が望んだエスコート。
コージャイサンは黙って彼女の手を取り歩き出す。婚約者であるならエスコートは彼の役目だ。無視するわけにもいかない。
そして、彼女を教室へ送り届け、コージャイサンは自分が所属する教室へと向かうその途中。
『……また徹夜したでしょう? うわ、その割にお肌ツヤツヤで腹立つなー。今日はいいお天気だから授業中に絶対眠くなりますよ。当てられないように気をつけてくださいね」
今響いたのは誰の声だ。
なぜ、徹夜したことに気付いたように言ったんだろう。
なぜ、腹が立つと言いながら楽し気な声なのだろう。
不思議に思い辺りを見回しても、そこには誰の姿もなかった。
——アレはなんだったんだ。
自席からぼんやりと眺めた窓の外、どこか色褪せた景色はいつもと変わらない。
しかし授業中にあまりにも外ばかり見過ぎで「問題を解け」と当てられてしまった。
だが、難なく解いて席へ戻りまた外を見る。教師の悔しそうな顔も、女子生徒のうっとりとした顔も、茶化す友人の声も、興味はないとばかりに。
淡々とした日々に起きた不思議な出来事。これきりかと思いきや、この日を境に度々コージャイサンは不思議な声を聞くこととなった。
ある日、友人たちと剣術大会へ向けて練習をしているところへ婚約者が現れた。
「差し入れをお持ちしましたの。あちらで休憩にしませんこと?」
「申し訳ないが以前差し入れに良くないものが入っていました。ですので誰のものも受け取らないようにしているんです」
ちなみに異物混入が発覚したのは、差し入れを羨ましがったキノウンが横取りをしてまんまと当たりを引いたからだ。
最初はなんともなかったが、次第にコージャイサンを見ては顔を赤らめる。そう、まるで恋に落ちたような状態となっていた。
乏しい語彙で思いつく限りの愛の賛辞を送るキノウンにコージャイサンだけでなく友人全員に鳥肌が立った。
語りながら徐々に迫ってくる彼に身の危険を感じたコージャイサンが拳で沈めたのだが、もしも、自分が食べていたら……差し入れた令嬢がナニを狙っていたのかなぞ考えるまでもない。ガッツ溢れる令嬢の恐ろしさが身に沁みた。
一度でもそんな事があれば警戒するのは当然だ。婚約者がそう言ったことをするとは思いたくもないが、王子であるケヤンマヌも共にいるのだからコージャイサンとしては面倒を避けたい。
「あら、わたくしのものは大丈夫ですわ。婚約者なのですから安心なさってください。もうあちらに用意させてありますの」
「結構です。あなたがではなく、差し入れにいい思いがしないのです。せっかく用意をしていただいて悪いがまだ練習をしたいので……」
「大丈夫ですからそんなに遠慮なさらないで。きっとご満足いただけますわ」
どうやら婚約者は人の話を聞く気がないとみえる。コージャイサンからため息が漏れたところで耳に入ってきた不思議な声。
『異物混入は嫌ですねー。あ、私は用意してないですよ。……理由? 情熱的な女子が怖いから! 怪我しないようにちゃんと休息も取ってくださいねー!』
あっけらかんとした声にホッとしたような、呆れたような気持ちが湧いて出た。
声の主を探すが、やはりその姿は見えない。すると、ぐいっと腕を引かれた。
「コージャイサン様、参りましょう」
「いらないと言っているでしょう。失礼します」
あまりのしつこさに少しばかりキツい態度になってしまったがコージャイサンはさっさとその場を去った。後を追ってきたケヤンマヌが口を開く。
「コージー、さっきの態度は冷たすぎないか?」
「ならお前が行ってこい」
「自分が断ったものを王子である私に勧めるな! まぁ、この前アレを見たばかりだしな。やはり怖いし……私も遠慮しておく」
そらみたことか、と視線を向ければケヤンマヌは肩をすくめた。もちろん他の友人たちも。
態度を咎められはしたが、差し入れの異物混入は彼らにとって軽いトラウマなのだ。婚約者にも理解してもらえたら嬉しい。
そのまま振り返る事なく、賑やかな友人たちの声に囲まれながらコージャイサンは練習を再開したのであった。
またある日。彼らが通う学園にも前期後期に一回ずつ試験がある。一般教養はもちろん、剣技、魔術の実技、マナー、全ての結果が掲示板に張り出され、一喜一憂する声で廊下は騒がしい。
友人たちといるところへ婚約者がやってきた。
「全試験でトップだなんてさすがコージャイサン様ですわ。……あら、ご覧になって。あちらから次点の者がこちらを見ていますわ。ふん、コージャイサン様に敵うはずがないのに生意気なこと」
「そうですか」
婚約者の賛辞も次点の敵意もどこ吹く風。張り出された成績も一瞥するだけでコージャイサンの感情は特に篭らない。誇ることも驕ることもないその態度に婚約者は上品な笑みを浮かべた。
「お父様もお喜びになる事でしょう。いえ、防衛局長のご子息にして公爵家の跡取りですもの。この程度出来て当然でしょうし、コージャイサン様にとって学園の試験なんてつまらないものですわね」
防衛局長の息子。公爵家の跡取り。
他者より恵まれた環境は同時に無遠慮で無責任な期待を押し付けられる。
送られる秋波も振られる尻尾も向けられる嫉妬も、コージャイサンにとっては全てが煩わしくてしょうがない。
「けれども学園内にコージャイサン様のように文武両道な方は他に居ませんもの。わたくしも婚約者として鼻が高いですわ。どうか次の試験でもトップに立ってくださいませ。コージャイサン様にはその座が相応しいのですから」
当たり前のように望まれる次。例えばその座から陥落したら彼の価値は落ちるのだろうか。
ふと、二人の様子にチラチラと視線を投げてくる女子生徒の集団が目についた。
「そうですか。ああ、あちらでご友人がお待ちですよ。それでは」
そう言って婚約者をそちらへと向かわせた。
コージャイサンも掲示板の前を離れ一人になる。今回の達成感も次回の意気込みもないまま、どこか虚しさを覚えているとまた声がした。
『私の結果ですか? 今回もバッチリ平均点です! でね、試験お疲れ様ってことでお出掛けしませんか? とある文豪の生家なですけど、なんとっ、からくり屋敷なんですってー! 面白そうじゃないですか?』
「それは面白そうだ」
誰も居ない場所で、会話をするように自然と返した。自分は一体誰と話しているのか、とコージャイサン自身も驚きを隠せない。
声の主を探してみるが、耳に届くのは甲高い声ばかりでそこにあの声音はない。
失意を抱く中、ネットリとした視線を感じた。その背中を見つめていたのは平均的な身長、ポッチャリとした体型の一人の男子生徒。さらにうんざりとしたコージャイサンはそのまま立ち去った。
さて、本日は休日。コージャイサンは婚約者と出掛けているところだ。
王都の貴族御用達の宝飾店で「以前約束したから」と言われてブローチを贈り、高級店でのランチ、そして話題の舞台を観る。
それはきっとどこにでもある婚約者同士の姿。けれどもコージャイサンはなにか物足りなさを感じて仕方がない。
「そこのお二人さん! 今日の記念に一つどうだい?」
劇場を出たところで露天商が声を掛けてきたようだ。売られていたのは今観た劇にかこつけた三センチほどの楕円の木に蛙のモチーフと古語の呪文を掘り込んだお守りだ。
ところが婚約者は不快感をあらわに顔を顰めると、露天商を冷たくあしらった。
「ああ、嫌だわ。庶民が気安く近づかないでくださらないこと。そんな古臭くて安っぽいもの、コージャイサン様には似合いませんわ。ねぇ、今日の記念を買うなら先ほどの宝飾店で揃いのアクセサリーを頼みましょう。その方が素敵だわ」
案の定、露天商もムッとしたような顔になる。コージャイサン自身もその言い方には嫌悪感を抱いた。
露天商の誘い文句は貴族相手に媚び諂うものではなく庶民相手では一般的なものだ。「今日の記念に」というのなら何も高級店のアクセサリーにこだわる必要はない。
貴族の常識と庶民の常識が同じではないように、露天商の言う記念とは価格とイコールではないのだ。
自分の価値観や意思は大事だが、相手の風習や状況に合わせられる方が円滑に事が済む……そこまで考えてふと思った。
——なぜ……俺は常識に違いがある事を知っている?
思考の海に沈みかけた時、またしてもコージャイサンの耳に届いた不思議な声。
『わぁ、素敵! まさに伝統工芸って感じでいいですね! ほら、これなんかすごく細かい!……可愛いからオマケしちゃう? ありがとうございます。そんなこと言われたら買わないと! これと、こっちもください。……はい、どうぞ。蛙と無事にカエルをかけたお守りです。縁起物ですよー……前にも聞いた? そうでしたっけ? まぁ、家に帰るまでが遠征ですから!」
つられて手を出したが掴んだのは空気のみ。
——アレを買ったのはここだったか? いや、違う。もっと別の、地方へ行った時の……地方へ? 俺はいつ……。
領地でもない場所に行った覚えはなかった。
それなのに、ぐるぐると目の前の景色とは違う景色がコージャイサンの頭の中を巡る。
誰かと一緒に歩いていたり
——それはのどかな街並みだった。
自分が見た物の感想を伝えたり
——昔ながらの細工が素晴らしかった。
新たな発見に驚いたり
——資材や魔法の使い方が斬新だった。
何もない掌をじっと見つめながら、知らぬ思い出に浸る。
「コージャイサン様?」
呼ばれてハッと我に帰った。婚約者が訝しんでいるのが声で分かったが視線を合わせる気にはなれず、コージャイサンは視線を掌からお守りへと変えた。
「お、なんだい。お兄さんは買ってくれるのかい?」
「では、これを一つ」
「はいよ、毎度あり! お兄さんに良い縁がカエりますように……なんてな!」
元気な露天商の声にコージャイサンは口角をあげて返す。
彼の手に収まった同じだけれど、同じではないお守り。
そっと胸ポケットに仕舞うと、なんだか体が軽くなったように感じた。