7
現在
ひとまず小康状態が続いているが、イザンバは見える範囲の呪いの効果を確認していった。
《家具の角で足の小指をぶつける呪い》
《洗顔時に鼻に水が入る呪い》
《魚の小骨が喉に刺さる呪い》
《片方だけアイメイクに失敗する呪い》
「やだー。内容はパッとしないのに受けたら地味に嫌な事ばっかり」
「どれもしょうもなぁて可哀想になってきますわ」
「あー、逆にね」
ヴィーシャの呪いを見る目が心底可哀想な子を見る目だ。
なにせ普段の生活でも起こりそうなちょっとしたこと。人によってはこれが呪いだなんて思わないだろう。
つまり、この呪いの願い主はこの程度ならバレないだろうと言う心理の小心者だ。
だが、派手さはなくても日々の生活の中で蓄積されていくストレスの元。年月を経れば相当なものになること間違いない。
他はなんだろう、と視線を巡らせたイザンバは直後に一人悶える羽目になった。
《眼帯で封じた邪眼が暴れ出す呪い》
《真の力が封印された右手が疼く呪い》
《曲がり角でぶつかった男性に恋する呪い》
《妄想が全て口に出てしまう呪い》
「くっ……! 拗れた厨二病と同志かもしれない気配を感じる。でも受けたら確実に黒歴史になることばっかりじゃないですか!」
「お嬢様、黒歴史とはなんですか」
「『触れるな危険!』です!」
ジオーネの問いを食い気味に打ち返したのは、深くツッコまれては自爆しかねないからだ。
黒歴史。それは胸の奥に留めておくべきものであって、白日の元に晒してはいけないもの。
それをこの呪いは堂々とやらかせと言ってくるのだから堪らない。絶対に受けてはなるものか、とイザンバは心に決めた。
なんだかどっと疲れてしまったが、呪いはまだある。げんなりとしながらも視線を巡らせた。
《姿が鼠になる呪い》
《声が出なくなる呪い》
《子どもが産めなくなる呪い》
《全身に醜い瘤が出る呪い》
「あ、こっちは普通だ……なんか安心しちゃいますね」
「それはないです」
どこか抜けたイザンバの発言に揃う二人の声。
だがイザンバにとって普通の呪いよりも黒歴史解放の呪いの方が恐ろしいのだから仕方がない。
ため息を吐きながら進言したのはヴィーシャだ。
「安心してんと全部サクッと祓てしもてください」
「でも、護符で防げてるし……」
「それやとなんの解決にもなりませんでしょ」
そう、護符は呪いや災禍を避けるだけで祓うことはできない。そのため呪いも願い主に返ることはなく、護符の効果がある限りいつまでも対象の周辺を漂っているのだ。
だがヴィーシャの言う通り、元を絶たない限り何の解決にもならない。
同意を示すように表情を厳しくしてジオーネも言う。
「呪いに手を出す連中に情けは無用です」
「もしも、この呪いがご家族の元に、ご主人様の元に行ったら……どないしはるんですか?」
その言葉にイザンバが息を呑んだ。
アメジストの瞳が自分だけが耐えればいいと思うな、と。
紅茶色の瞳が背負う辛さがあっても今が踏ん張り時だ、と。
二人が真剣な眼差しで訴えているから。
さぁ、選んで。
——恋に身を窶し堕ちた者か、自分の大切な人たちか
この呪いが一時の激情だとして、過ぎ去るのをじっと待つのも確かにいいだろう。けれども、いつまでも呪いが付与された様子がなければ標的を変更されるかもしれない。
もしそうなったら、「あの時祓っておけばよかった」と後悔するのは誰だろう。それは他の誰でもない——イザンバ自身だ。
——結局私は変われてない。
イザンバはなぁなぁに済まそうとしていた意気地のない自分に腹を立てた。
『胸を張って一緒に居たいから。だから待っていてください』
『ああ。待ってるよ』
そうコージャイサンに乞うたのは誰だ、とグッと握り拳を作り、鼓舞するは己が自身。
「……そうですね。わかりました、やります!」
ドッペルゲンガーの時とは違う緊張感がイザンバに走る。呪いや生き霊の向こうには願い主、つまり人がいるのだから。
けれど、もう口先だけで終わらせない。——今——イザンバは奮い立つ。
イザンバの決意に護衛の二人は見守る姿勢だ。これは彼女の戦い。手出しは最小限にするつもりである。
呪いと対峙するイザンバは胸の前で手を組み目を瞑る。
——祈るように、希うように、心を鎮めて
集中するにつれてイザンバから溢れ出す清廉な空気。ゆっくりと瞼を開けると、彼女はひたりと呪いを見据え。
その瞳に迷いは——ない。
「聖なる炎の呪文、いきます! I AM a Being of Silver Violet Fire. I AM the purity God desires. 以下……回数省略!」
掌から放たれた銀色混じりの紫の炎。回数を省略しているあたりまだ手心を加えている事が窺えるが、それでも聖なる浄化の炎だ。炎の通り道にあった五体の呪いは全て祓うことに成功した。
だが呪いは次から次へと湧いてくるのだからイザンバは考える。自分の魔力量でどうすれば効率的に全ての呪いを祓うことが出来るのか。
そして初めて浄化を目の当たりにしたジオーネは、その威力に、その神々しさに驚きを隠せないでいた。
「おお、これが聖なる炎。……美しいな」
「せやけどこれ全開やったらかなりえげつないねんで」
語るヴィーシャの目が遠い。コージャイサンの検証に付き合った時のことを思い出しているのだろうが、さてえげつない言われるほどの威力とはどれ程なのか。ジオーネに分かるのは、今の比ではないと言うことだけだ。
ふと、ヴィーシャが鞄を探った。
「そや。これ仕込んどき」
「これを?」
「念のためや。使い時は任したで」
ジオーネにたった一つ手渡されたもの。仕込みながら彼女は思う。使う必要がなければいいが、と。
さて、護衛二人がのんびり会話をしているが呪いも生き霊もまだまだいるのが現状だ。
「邪魔者ハ消エロォォォ!」
「公爵夫人ノ座ハワタクシノモノォォォ!」
「ズルイ! ズルイ! ズルイワァァァ!」
「オレモアノ冷タイ視線ニ射抜カレタイィィィ!」
「ワタシダッテ好キナノニィィィ!」
顔をはっきりと拝むことは出来ないが、キツく釣り上がった目元、怨嗟の念を散らす口元は歪で、最早人とは呼べないその姿。
生き霊たちに統率はなく、それぞれが好き勝手喚きながらイザンバに向かってくる。が、護符に阻まれその呪詛は成就しない。
「随分と自分勝手な主張ばかりだな」
「そらそやろ。他人に考慮できる人は呪いに手出さへんわ」
喚かれた言葉に対して出てきたジオーネの率直な感想をヴィーシャが一刀両断。中々鋭い切り口である。
「ねぇ、待って! 今気になる叫びが混ざってましたよね⁉︎」
「そこは気にしたらあきません。ほら、まずはアレから祓いましょ」
「え、ダメですか? お話聞きたい」
「あきません。ちゃちゃっと片付けてしもてください」
かと思えばイザンバは違う意味で目を輝かせているではないか。嗜めるヴィーシャは忙しい。いちいちそんなものに構っていたらいつまで経っても終わらないというのに。
気になる生き霊から離されて対峙するのは最初にイザンバの上にいたモノ。
正体すら分からなくなるほどに殺意を迸らせる姿は悍ましいが、イザンバは再び心を落ち着かせ気力を高める。
「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ……」
「ナンデオ前ナンカガ!」
「ハラソウギャテイ ボジソワカ!」
「オ前サエイナケレバ!」
真っ直ぐに放たれる浄化エネルギー。抗うように生き霊からも負のエネルギーが放たれるが、イザンバとて負けるわけにはいかない。丹田に力を込め、さらに気力を押し出した。
「なんでとか、どうしてとか……そんなのとっくに聞き飽きてます! あなたたちが私を認めなくてもいいです。私はもうそんな事で揺らぎません! コージー様が私を認めてくれたのなら、私は全力で尽くすだけです!」
「調子ニ乗ルナァァア!」
「くっ……!」
吐き出される負のエネルギーはイザンバに向けられる嫉妬と憤怒、憎悪の塊。その想いは時として正より強い。じりじりと、浄化エネルギーを退け始めた。
イザンバがあわや押し負けたその時————響いた銃声。
「それは貴様の方だ、粘着女」
一発だけあった銀の弾丸を撃ち放ったジオーネと。
「嫌やわ、性根のブスてあないに面に出んねんな。そらお嬢様の方がなんぼ可愛らしいことか。ご主人様の見る目は確かやな」
さらに追い打ちをかけるように聖水を浴びせるヴィーシャからの援護。煽る言葉はともかくその行動はなんと心強いことだろう。
「アア、憎イ……オ前ガ憎イィィィイ!!」
生き霊から吐き出される恨み言は止まらないが、退魔グッズによって体が欠けた事によりたちまち抵抗が弱くなった。
この隙に、イザンバが持ち直すように真っ直ぐに生き霊に目を向ける。
「二人とも……ありがとう。あなたの想いが強いことはよく分かりました。でも今は私だって……! 負けません!!」
「グゥッ……ギャァァァア!!」
眩い浄化エネルギーに包まれると、後に残るは妄執にとらわれた哀れな生き霊の断末魔。
ところが、同時にがくりとイザンバの膝からも力が抜けるではないか。
「お嬢様! 大丈夫ですか?」
「うわ、これしんどい……生き霊一体浄化するのにごっそり魔力持っていかれる。呪いの数も多いし……保たないかも」
膝をつく前に体はジオーネに支えられるも、漏れる言葉に不安が過る。
眉を下げるジオーネは心底申し訳なさそうだ。
「お助けしたいのは山々ですが、物理攻撃が効かないとなるとあたしたちは退魔グッズを投げての時間稼ぎくらいしか出来ません」
その退魔グッズも有限であり、そもそも呪いの数に対しては心許ない。
せめて銀の弾丸をもっと用意しておけばよかった、とイザンバが悔いているところへヴィーシャがにこやかに告げた。
「魔力に関してはご安心ください。回復薬ならこれだけあります」
言われて部屋の一角を見れば個人が持つには不相応な数の魔力回復薬。その数四百本余りがシャンパンタワーならぬポーションタワーとなって聳え立つ。
「わーお、脳死周回イベすぎてワロタ。もしかして……昨日ファウストとリアンが運んだ荷物ってこれですか? 上手に積みましたねー」
「ご主人様がお嬢様のためにご用意してくださったそうです。ここまで崩さずに運ぶのは難儀しました」
エヘン、と胸を張るジオーネにイザンバは心底感心した声を出す。
「でしょうねー。いつ運んだんですか?」
「こちらへはお嬢様が眠られてすぐに。さぁ、これで何の心配もなくあの聖なる炎を打ち込み放題です! 一匹残らず祓ってしまいましょう!」
どこかウキウキとしているジオーネは聖なる炎が気に入ったようでイザンバは苦笑する。
しかしこの魔力回復薬の量はすごい。それこそえげつないと言ってもいいだろう。
ふと、彼との会話を思い出した。
『そんなに……危ない状況なんですか?』
『ああ。また状況が変わった』
「——コージー様が言ってたの……この事だったんですね」
事前に知っていたからこそ用意できたのだろうが、一晩では到底使いきれない量にイザンバはただただ呆然とする。まるで一切容赦をするなと言われているようだ。
ポーションタワーを見つめるイザンバのある変化にヴィーシャが気が付いた。
「あら……跡が消えてますね」
言われてイザンバはゆっくりと首を撫でる。
「呪いで受けたものですからね。願い主に返ったんですよ。あちらは多分……一生残るでしょうね」
なにせ殺す気だったのだから。
された事は到底許せるものではないが、しっかりと手の形だとわかる跡を隠しながら社交をするのは難しいだろう、と少しだけ……彼女の今後に同情してしまう。
「良かったです! あんな跡、粘着女にこそお似合いだ!」
「ほんまに。お嬢様が気に病む事ちゃいますわ」
ところが二人は清々しいまでのいい笑顔。あからさまにイザンバの無事を喜ぶものだから肩の力が抜けた。
「……そうですね」
返せた笑みは弱々しくなってしまったが、それでも二人は頷いてくれたのだから、イザンバも頑張った甲斐があるというもの。
「ほな、お嬢様」
しかし、ここでさらにヴィーシャがにっこりと綺麗に笑うではないか。
「はい、回復薬飲んで。はい、前向いて。はい、祓てください」
ササッと回復薬を手渡されて、ゴクッと飲み干し、クルッと体の向きを変えられて。
そう、まだ力を抜くには些か早すぎる。目の前でウヨウヨとしている呪いにげっそりとしてしまうが、ここでやらねば女が廃る!
「ええい、気合いだー! お祓い王に私はなる! I AM a Being of Silver Violet Fire. I AM the purity God desires. 以下さらに省略! Silver Violet Fire! Silver Violet Fire!」
気魄一閃! 省略されても先ほどと同じ勢いで次々と放たれる紫銀の炎。
随分と部屋の中は明るくなったが、イザンバたちが熱に苦しむ様子も家具が燃えている様子もない。紫銀の炎は呪いのみを燃やし尽くすからだ。
「お嬢様、流石です! シビれます! あたしにもぜひその炎を浴びせてください!」
「なんでやねん。お嬢様、アホはほっといてその調子でどんどん祓ってください。あ、おかわりは早めに言うてくださいね。蓋開けときますし」
拍手をして応援するジオーネと回復薬を用意して待つヴィーシャ。全く至れり尽くせりだ。
回復薬を飲み干せばたちまち魔力は復活するのだ。さぁ、この脳死周回イベを乗り切ろうではないか!
「小癪ナァァァア!」
「ワタシモ愛サレタイィィィ!」
「オレハ踏マレタイィィィ!」
「ソノ場ヲ譲レェェェ!」
わらわらと向かってくる生き霊たち。せっかく気合を入れたイザンバだが、辛そうな、悩ましそうな声を上げた。
「くっ……——やっぱアレ気になる! ねぇ、アレだけ残しちゃダメですか⁉︎」
「ダメです」
イザンバの嘆願も虚しく、二人に声を揃えて却下された。答えは分かりきってはいたが、つれない護衛たちである。
「ですよねー……。もう! なんで生き霊なんかで来ちゃうんですか! 直に来てくれたらお話しできたのに!」
「お嬢様、それもご主人様に報告しますよ」
「ごめんなさい! 撤回します! さっさと祓うぞー!」
ヴィーシャのチクリとした一言は効果抜群だ。
以前向けられた寒々しさを思い出し、イザンバはぶるりと身を震わせた。すぐさま撤回するあたり余程なのだろう。
さぁ、持ち直していこう。
「悪霊退散! 生き霊も呪いもゴーホーム! 願い主のところにお返りやがれくださいませー!」
生き霊を祓って、呪いを祓って、回復薬を飲んで。そこからのイザンバは無心で祓い続けた。
部屋の空気がすっかり清浄なものになった頃には空が白み始めていた。けれどもイザンバが感じたのは達成感ではなく、途轍もない疲労感。彼女はぐったりとベッドに横たわる。
「もう……無理……動けない」
「お疲れ様です。本日のご予定はいかがなさいますか?」
ヴィーシャの問いかけにイザンバは目線だけを動かした。お茶会に参加する予定であったがこの状態では儘ならない。と言うよりも深夜に起きてからずっと緊張状態が続いたのだから疲労困憊だ。
「たいちょうふりょうで……おわびを……」
おそらく予想通りの答えだったのだろう。頭を下げるヴィーシャの表情は心得たもので。
「かしこまりました」
「よくぞお務めになられました」
ジオーネの労わるような声音に少しだけ誇らしくなる。
——気になることはあるけど、もう頭がうまく回らない。体が重くてしょうがない。
身動ぎ一つ出来ないイザンバを引き込むように誘う眠気。それでも必死に口を動かした。
「こーじーさまに……」
——伝えなきゃ。あの鳥と夢を介した呪いの存在を。
今イザンバが分かる範囲のことを彼の部下たちに報告してもらわなければ。そう思うのに……言葉が続かない。
「ご安心を。すぐに報告いたします」
見たままの事実を主に。ジオーネは安心させるように力強く言い切った。
「今はどうぞお休みなさいませ」
ヴィーシャの優しい声音が睡魔の背を押す。何も心配する事はない、と。
——どうか、無事でいて。
重くなった瞼を上げる力も最早ない。
部屋に差し込んだ日差しが陽だまりを作る中、案じる想いを彼へと馳せる。
護衛たちに見守られ、イザンバはそのまま気絶するように眠りについた。
これが月が昇るのも遅くなったある夜の、彼女に起こった出来事。
これにて『影と踊る更待月』は了と相成ります。
読んでいただきありがとうございました!