6
現在
姿を現した月が歩を進めた深夜。穏やかに眠っていたイザンバの様子が変わった。
魘され、呼吸のしづらさを意識できたと思ったら、まるで体にのしかかられたような重さを感じたのだ。
「……う…………んん、や……」
寝ぼけ眼が写したのは黒い影。ぼんやりとしたソレは人の形のようだが、纏う空気は重く澱みきっている。
顔が見えないのは逆光のせいか、寝起きのせいか。
じっと目を凝らしていると、だんだんと脳も覚醒してくる。ボソボソとこぼされていた音を言葉と認識した時、黒い影はイザンバの首へと手を伸ばした。
「恨メシイ……。忌々シイ……。ナンデオ前ガ!」
「きゃ……あ、ぐっ……」
——それはあまりにも異形で
——それはあまりにも醜悪で
言葉通りの恨めしさを全体から迸らせたまま首に圧をかけられ、封じられた叫びが呻きに変わる。
その異変に夜の守り番が気付いた。
「お嬢様⁉︎」
「なんや、あいつ。一体どこから入ったんや」
「賊がっ! お嬢様から離れろ!」
すぐさま銃を取り出したジオーネが発砲するが、なんと弾は黒い影を通り抜けた。
「なに⁉︎」
「有リ得ナイ有リ得ナイ有リ得ナイ有リ得ナイ有リ得ナイ!」
黒い影はジオーネには目もくれず、一心にイザンバに向かって怨恨の情を吐く。
吐かれた言葉はそれ自体が黒いモヤとなり、イザンバの首に巻きついてくるではないか。さらに圧が加えられたことにより漏れる苦しげな声。
それでもイザンバは必死に問う。
「なぜ……あな、た、が……」
「公爵家ノ弱ミヲ握ラナイ限リオ前ガ選バレル筈ガナイノニ!」
「……だ、から……?」
——だから、夢で過去を覗いたと言うの?
強い思い込みの果てがこの暴挙。
しかし、イザンバの過去を追体験しても、イザンバが無礼を働きこそすれ弱みなど一切握っていなかった。むしろ握られる側だ。
婚約が成ってから二人の重ねられていくやり取りも少しずつ距離を縮めていくもので、彼女からすればあまりにも信じられるものでは……いや、信じたくないものでしかなかった。
嫉妬、憤怒、憎悪。それらの激情に呑まれ、そして……夢のイザンバの前に現れた。
「ワタクシノ方ガ相応シイ! 本命ハオ前デハナイ! 叔母様モソウ言ッテイタノニ!」
さらに首に圧が加えられイザンバは呻くことしか出来ない。
その時、黒い影から飛び出た一羽の紺青の鳥がイザンバの鼻先に止まった。
この場には似つかわしくない鮮やかな美しい鳥。つぶらな瞳を向け、ねだるようにイザンバの額に頭をこすりつけて。
だが、間も無く鳥は焼かれた。黄緑色の火によって。
それを苦しさの中で見たイザンバも、警戒心を引き上げた護衛も驚く他ない。
黄緑色の火はイザンバがコージャイサンと共に作ったモノ——彼女の同意なしに思考や精神に干渉してきた者に対しての防御魔法《自業自得》。
それが発動した時点であの鳥が何をしようとしたのか、イザンバは察すると同時にその正体が鳥ではないことを理解した。
頭部を焼かれた鳥は甲高い鳴き声をあげて黒い影の方へと弱々しく飛ぶ。しかし、それを許す護衛ではない。
「逃すか!」
言うと同時にジオーネが的確にその体を撃ち抜いた。今度は見事命中した弾に、鳥が黒い影と違い実体のあるものだと護衛も気付く。
そのまま墜落する……と思われたが、なんと鳥は黒い影の中に吸い込まれるように消えてしまった。
「チッ!」
苛立たしげに舌を打つジオーネ。しかし、未だイザンバの首には黒い手が掛かっており窮地を脱した訳ではない。
イザンバを追い詰めている事に、護衛の物理攻撃が効かないことに、ニタリと嗤う黒い影。
実弾が効かない相手に、苦しみ喘ぐ彼女をどうやって救うべきか。
「いい気に……なんなや!」
だが、ついにその手を離すこととなった。
イザンバが集めた退魔グッズの一つ、十字架をヴィーシャが投げつけた事が功を奏したのだ。
けれども黒い影はなおも手を伸ばす。ゴホゴホと咳き込むイザンバだけを標的として。
「ドウシテオ前ガ選バレル! オ前ナンカ居ナケレバ!」
「お嬢様! 退魔の呪文を!」
ヴィーシャの声に反応するもイザンバは呪文を紡がない。
まさか喉を潰されたのか、と彼女を見ればすぐに違うと分かった。その目には迷いが浮かんでいたからだ。
——こんな得体の知れへんもんにも情けをかけるんかっ!
彼女の優しさが仇となる瞬間——それに気付いたヴィーシャは思わずギリリッと奥歯を噛んだ。
「アノ方ハワタクシノモノ! 邪魔者ハ消エロォォォォオ!」
容赦なく飛び掛かる黒い影に。
「お嬢様っ!!」
切羽詰まった二人の声に。
「……——サンバラサムハラ!」
「ギャッ! アア、腹立タシイ! 憎ラシイィィィ!!」
身を守るためにイザンバは動いた。迷いを断つように、清らかになるように、と願い唱えると、負のエネルギーを祓われ黒い影は途端にイザンバから距離を取らざるを得ない。
なんとか危機を脱した彼女はすぐに護衛の元へ走り寄る。
その無事に安堵したジオーネだが、次の瞬間にはサッと青褪めた。
「ご無事ですか⁉︎ ああ、首に跡がっ……! 申し訳ございません! あたしの失態です!」
イザンバの首にくっきりとついた手で絞められた跡。それはあまりにも痛々しくジオーネは己の失態を悔いるには十分で。
「ジオーネ落ち着いて! あなたのせいじゃない! ほら、私生きてるし大丈夫です! てか、今はそれどころじゃないから!」
「そや、詫びは後にしぃ。お嬢様、退魔グッズが効いたと言う事はアレは霊魂でしょうか」
宥めるイザンバに同調したヴィーシャは鋭く黒い影を見据えていた。蠢く黒い影は今なおイザンバを狙っているのだ。
イザンバもそちらに目を向けると、緊張から声を強ばらせた。
「はい。それも死霊ではなく、生き霊……ですね」
「知ってる顔でしたか?」
「…………はい」
ヴィーシャの確認にイザンバは誰とは言わないが、その苦渋の表情が真実であると告げている。
憎しみに駆られ自らの魂を飛ばしてまでイザンバを害しに来た。恋慕を募らせたにしても感心すべきか呆れるべきか。
いや、これはもうとても恋慕とは言えない。彼女のそれは——執着だ。
「あの人、もしかして……」
「いかがなさいましたか?」
「いえ。……何でもないです」
ジオーネの声かけにイザンバはそっと首を振った。
しかし、そこへゾクリと這い寄る嫌な気配。ジオーネはイザンバを背後に庇って銃を構え、ヴィーシャは退魔グッズを手に取る。
そこへ現れたのはまたもや黒い影。けれどもその大きさが先ほどとは違い、彼女たちの視線を下へと向ける。
「今度は蛇?」
シャーッと威嚇をしてくる黒い蛇に、ジオーネはとりあえず一発お見舞いした。だがやはりと言うべきか、先ほどの鳥には当たった弾は黒い蛇を通り抜けるではないか。
さてどうしようかと思案しているところへ声を張ったのはイザンバだ。
「それに触れないで! 呪いを受けます!」
「呪い⁉︎」
驚くジオーネに今度の黒い影はなんらかの呪詛が込められたものだとイザンバは言う。
頷くと同時にヴィーシャが持つ鞄からあるものを取り出した。
「二人ともこれを!」
「これは?」
「呪いを弾く護符です。この量に対してはどこまで保つか分かりませんが、効力が続く限り呪いを受ける事はありません……心配だからいくつか並べておこう」
そう言ってイザンバは自分たちの周りを囲むように退魔グッズを並べだした。
いつの間にか部屋に蔓延る様々な黒い動物や昆虫の形をした呪い。
しかし、護符のお陰か並べた退魔グッズのお陰か、無理に近づいてくる事はない。ひしめき合うような、押し寄せる波のようなそれはまさに千客万来状態。ジオーネがしみじみと呟いた。
「お嬢様、大人気ですね」
「それほどでも〜!……って、全っ然、嬉しくない! 今まで誘拐とか暗殺とか物理で攻めてきたくせに何で今日はこんな呪詛のオンパレードなの⁉︎」
「ご主人様が演習場でそう言った行為は許さないと仰ったからでは?」
「まさかのコージー様のせい⁉︎ だからってお気軽お手軽に呪いに手出してんじゃないですよ! 人を呪わば穴二つって言葉、知らないの⁉︎ 知らないんだろうなー、もう!」
ジオーネと交わされるやり取りでポンポンと飛び出した言葉たち。どうやらいつものイザンバの調子が出てきたようだ。
その中の耳慣れない言葉の意味をヴィーシャが聞き返す。
「どう言う意味ですか?」
「他人を呪って殺そうと墓穴を掘る者は、その報いで自分のための墓穴も掘らなければならなくなる。つまり他人を陥れれば、不幸を願えば、与えた害の分結局自分も同じように害を受けて自滅するってことです」
イザンバの解説を聞きヴィーシャが浮かべたのは場にそぐわない嫋やかな笑み。
「あら、ご主人様やお嬢様を狙った愚か者がうちらに屠られんのは正にそれですね」
「それで放った呪いを祓われたらどうなるのですか?」
ジオーネからは当然の疑問が湧く。
その問いに途端にイザンバの口は重くなり、解を伝えるその声はすっかりと沈んでしまった。
「本人に返るだけです。その呪いが強ければ強いほど、祓う力が強ければ強いほど——より重くなって本人に返ります」
だからか、とヴィーシャは得心した。
イザンバは黒い影が自身を呪い殺そうとした生き霊だとすぐに気付いたのだろう。
けれども生き霊にまでなるほどの呪いともなれば…… 祓えば願い主の魂に、体に何らかの傷を負うことは明らかだ。
それが分かっているからこそイザンバは迷い、祓わずに身を守るに留めたのだ。
——ほんまにこの人は……。
お人好し。と小さく溢れた呆れの言葉は柔らかな笑みに包まれて宙に溶けた。
さて、そんなお人好しと称された人物は沈んだ調子から一転、ぷりぷりとしている。
「な・の・に、この数! 絶対に願い主は一人や二人じゃないでしょ! 誰ですか、こんな物騒な事広めたの!」
こんなにも一気に呪いが集まってきたら誰かが手引きをしているとイザンバでも分かる。
特に生き霊になって呪殺だなんてどれほど重いことか知る彼女だからこそ、広めた犯人に、軽率に手を出した願い主に憤っているのだ。
「敵はお嬢様に退魔の才能があることを知らないようですね」
「なかったらさっきのでチーンしてましたよ! やだー! 殺意ビシバシで空気が澱んで重いー!」
あるがままの事実を口にするジオーネだが、イザンバは妖しい空気においおいと嘆く。
けれども彼女自身が対抗できるからこそ悲観的にならずにどこか楽観的な空気を纏うのだろう。
「呪いなんてそんなもんでしょう? ちなみにどんな呪いなんか分かりますか?」
ヴィーシャにそう聞かれてイザンバは呪いを注視する。じっと集中するとゆらゆらとその正体が視えてきた。
「えっと……《糸キノコが歯の間に挟まる呪い》。え? あれ? 呪い?」
言いながらもイザンバは首を傾げた。何かの間違いかと思ってもう一度集中してみるが、やはりその存在は変わらない。
正体を聞き、ボソリとヴィーシャが述べた感想はおそらく全員が抱いたもので。
「……しょうもな」
「言っちゃった!」
「でも確かに挟まったら苛つきます。お嬢様、アレはなんですか?」
ジオーネの言う通り、歯の間に挟まって中々取れない不快感は苛立ちを誘うものだ。それも無期限で毎回そうなるなら……想像しただけでうんざりする。
次いで指さされた方には黒い蝶。イザンバはまた集中するとその正体を告げる。
《舞踏会で必ず足を捻る呪い》
「これは……参加しなきゃ捻らないって事でおけ?」
「結婚式も控えてますのに参加せんわけにはいかんでしょ」
「えー、引きこもる理由になっていいじゃないですか」
目を輝かせるイザンバにヴィーシャからのすげない否。そこへジオーネがいいことを思いついたと口を開いた。
「ご主人様にずっと抱き上げていただいたらいいのでは?」
「恥を晒させる気ですね。却下です」
そうまでして舞踏会に参加する気はない。万が一その案で行ったとしても、踊ることも社交をすることも出来ない。何よりコージャイサンの負担にしかならないうえに、イザンバの精神面が大ダメージを負う。
さらに視線を巡らせると黒いハートを見つけた。
《一日一回ラッキースケベに遭う呪い》
「誰得ですか⁉︎ かける相手間違えてませんか⁉︎」
「いえ、これはダメです。この呪いを受ければ醜聞になりかねません」
ジオーネに言われ、そこまでか? とイザンバは不思議がった。
その様子に二人は思った。イルシーが言っていた危機感のなさはこういうところだな、と。
「相手がご主人様に固定されてるならまだしも、不特定多数やと流石にまずいと思いません? お嬢様も知らん人に体を触られんのは嫌でしょう?」
「それは嫌です」
即答! 諭すようなヴィーシャの言葉に考える間も無くイザンバも返す。
つい先日その点についてはコージャイサンと話したばかりだ。うっかりその時の状況を思い出して、場にそぐわないにも関わらず少し顔を赤らめた。
熱くなった顔を冷やすように頭を振って、気付いた。
「いや待って。コージー様相手でもよろしくないですよ」
「問題ありません。どんどん見せつけてやってください」
「問題しかないです!」
イザンバの否定にサムズアップで返すジオーネ。なんて事を言うんだ、とイザンバは改めてラッキースケベの呪いの恐ろしさを理解した。
この話題はお終い、とばかりに次に目を向けると丸いフォルムにチョロリと毛が生えたような黒い呪いがぴょこぴょこと跳ねているではないか。
興味を惹かれ暴いたその正体とは……。
《黒子から毛が一本生え続ける呪い》
「え? 笑い取りにきた?」
「そもそも対象が一個だけなのか全部なのか。人から見える位置なのかそうでないのかにもよりますね」
完全に気の抜けたイザンバにジオーネが冷静に返す。言われてみればその通りで、現実となれば一見ゆるい呪いによってじわじわと心を蝕まれていくのだろう。
「こわっ!! え、どれかランダムに一個じゃないの⁉︎」
「一個やなんて言うてませんよ。全身の黒子に一本ずつ毛生えてるとかなったらどないしはります?」
想像してみよう。黒子の数はもちろん人によるが、顔に、腕に、脚に、一体何個あるだろう。
その全てから一本ずつチョロチョロッと毛が生えているのだ。それも生え続けるということは、その一本を抜いたところで安堵は得られないということ。
「うわぁ……きつーい」
それが顔面であった場合、人前に出ることも憚れるだろう。
呪いと言えども身体的に傷を残すものばかりではない。こんな風に精神的に追い詰めてくるものの方が多いのだ。
無理解からの虚無感や周囲からの孤立は人を疲れさせる。その結果、自死を迎える人もいるだろう。
それを狙っているのであれば時間はかかるだろうがこれほどローリスクハイリターンなものはない。字面は完全にお笑いだが。
人の思いつく事のなんと残酷な一面であろうか。イザンバはブルリと体を震わせた。