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追憶
くるり、と視界が反転した先。
そこは見慣れた自室。昼間だと言うのにベッドで横たわる幼いイザンバがいる。そして、傍らに年増の女性の姿。
——ああ、あの日か。
感情の篭らない目でイザンバはただ静かに眺めた。
それは婚約して半年を迎えようとした頃。
日常と化した嫌味と大量の宿題に追われてついにイザンバに変調が訪れた。
スルースキルが上がったと言えども、大人からぶつけられる高圧的な態度や言葉がストレスにならないはずがない。
丁度月に一度の交流の日に起き上がれなくなってしまったのだ。
オルディは横たわる娘に優しく告げた。
「毎日頑張っている疲れが出たんだね。公爵家には連絡しておくから安心しなさい」
「大丈夫よ。今日はゆっくり休みなさい。何か欲しいものはある?」
「あとで本を持ってきてあげるね。積読、溜まってるでしょ?」
フェリシダは頭を撫で。兄アーリスが気遣いをくれた。
家族の想いがズタボロの心に優しく沁みる。グスリ、と鼻を啜って涙を誤魔化しイザンバは眠りについた。
目が覚めたらもうお昼過ぎ。午後からは予定がある両親はギリギリまで案じてくれていた。
「ありがとうございます。寝てたら大丈夫だから行ってきてください」
ふにゃりと力のこもらない笑みになったが、それでもこれ以上心配をかけたくなかった。
「お土産を買ってくるからね」
「ずっとついていられなくてごめんね」
後ろ髪を引かれながらも両親は出掛けて行った。
さぁ、鬼の居ぬ間になんとやら。午後からは眠ってもいられないのだから手厳しい。
「体調管理もろくに出来ないのですか」
「交流の欠席など公爵家に対しての不敬ですわ」
「あなたのそれは怠け病というのです」
「私の姪ならこのような失態を犯しません」
「やはり平凡なあなたには荷が勝つのですわ」
今日も今日とて嫌味のオンパレードだ。
BGMにするには棘があり過ぎるが、今のイザンバには謝罪を口にする元気すらない。
ゆっくりと瞼を閉じる。
——心を遠くに置いて
「まぁ、話の途中で眠るだなんて失礼でしてよ」
「そんなだからあなたは品がないのです」
「淑女の風上にも置けませんわ」
ゆっくりと体の力を抜く。
——音を遠くに置いて
「……こんな子がどうやって公爵令息に取り入ったのかしら」
「クタオ伯爵家なんて全員が平凡なのに」
「やはり本命が別にいらっしゃるのだわ」
——もうわかったから……しずかに……して……。
願いも虚しくBGMは続く。
しばらくして気が済んだのか、眠っている相手に言っても意味がないと気付いたのか、家庭教師が退室した事でようやく眠りにつくことができた。
次に目が覚めた時には日が沈みかけていた。
喉が渇いたイザンバは起き上がって水を飲もうとしてベットサイドに飾られたあるモノに気が付いた。
「……花?」
眠る前にはなかったモノ。滑らかなフリルのようにヒラヒラと開いたか細いピンク色の花びらがふるりと風になびく姿はとても美しい。
イザンバは寝起きの頭をフル回転させて花の名前を引っ張り出した。
——この花はネリネ。別名ダイヤモンドリリー。花言葉は、確か……。
出掛けていた両親が買ってきてくれたのかな、と水を飲みながら考えている遠慮がちなノック音が響いた。
「どうぞ」
「ザナ、起きて大丈夫なの?」
入って来たのはアーリスだ。手には新しい水差しと果物が乗ったトレイを持っている。
「はい。寝たらだいぶスッキリしました」
「そっか、良かった。あのね、寝ている間にオンヘイ公爵令息様がお見舞いに来られたよ」
「え⁉︎」
寝起きだということがすっ飛ぶほどに驚いた。そんなイザンバにアーリスはクスクスと笑って話を続ける。
「その花、お見舞いにって持ってきてくださったんだ。体調が良くなってからでいいからお礼の手紙を……どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって」
アーリスの言葉にイザンバは呆然としていた。
——この花をコージャイサン様が持って来た?
ネリネの花言葉は『また逢う日を楽しみに』。
彼のことだ。花言葉だって調べてから来てくれたのだろう。お世辞でもなんでもイザンバと逢う日を楽しみにしてくれていると言うのか。
ただただ花を見つめるイザンバ。そんな妹の様子を見守るアーリスの瞳は穏やかだ。
「お父様たちが出掛けた後だったから僕が応対させていただいたんだけど、しっかりした方だね。とても四つ年下とは思えなかったよ」
「お兄様がふんわりしているからでしょ」
「そうかな? 僕は気が動転しちゃって何喋ったかあまり覚えていないんだよね。でも、同性なのに見惚れるくらい綺麗な人だったって言うのは覚えているよ」
「ふふ、あはははは! もう、お兄様ったら」
アーリスがうっすらと頬を染めて言うものだから、コージャイサンと対面した兄の様子を想像してイザンバは笑ってしまった。
「良かった……笑えてるね」
「え? なーに?」
あまりにも小声で聞き取れなかった。笑いを収めてイザンバが聞き返すもアーリスは微笑むだけ。
「何でもないよ。食事は摂れそう? 食欲があるならシェフに伝えてくるよ」
「じゃあ軽いものをお願いしてもいいですか?」
「分かった。食べられるならこれもお食べ。食事は部屋に運んでもらうから横になってたらいいよ」
「はい」
まるでいい子とでも言うようにイザンバの頭を一撫でして、その心地よさに甘えるように彼女は目を細める。
アーリスが部屋から出ようという時、イザンバは兄を呼び止めた。
「お兄様」
「ん? なーに?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
優しい微笑みを残してアーリスは扉を閉めた。
体調を崩し心配をかけてしまったが、家族の優しさに触れて荒んだ気持ちが落ち着いたようだ。
イザンバはトレイに置かれた果物をポイっと口にした。ストレスなんかに負けるか、と意気込んで。
「——僕たちはザナの味方だからね」
そして、扉の向こうで静かに決意を固めたアーリスはシェフの元へと足を進めるのだった。
さて、数日のちに家庭教師は解雇された。
勉強を再開した日、たまたま兄がイザンバを詰る家庭教師の様子を見て、たまたまその日は家に居た両親にすぐに報告した。つまり現行犯である。
言う必要はないと口を閉ざした判断が誤りであったとイザンバは大いに反省した。
なにせ両親が泣いて泣いて大変だったのだ。
「家庭教師として相応しくない振る舞い、確かに確認した。本日をもってあなたには職を辞してもらう。これは伯爵家当主としての決定だ。否は認めない」
と解雇を言い渡した時はキリリとしていた父も。
「淑女を育てるプロ……おかしいわね、さっきから淑女らしくない喚き声しか聞こえないのだけれど。……だってねぇ、品がないにも程があるでしょう。ああ、だからあなたは独りでいらっしゃるのね。誰かにそんな甲高い声を聞かせ続けると気を病ませてしまうから。お優しいわね」
と優雅に元家庭教師に嫌味を返していた母も。
事が済めば別人のようにイザンバを抱きしめ泣いたのだ。最終的には兄が引き剥がしてくれたが、アレはアレでしんどい。
自分の限界を正しく把握することは大事だと今回学んだ。
元家庭教師からは去り際に「どうせ捨てられるのがオチよ!」と言われたが、職を失った方に言われてもなー、とイザンバはスルーした。
その後の元家庭教師だが、なぜか新しい職場が見つからず。
不当解雇だとイザンバの不出来を吹聴するもなぜか誰にも相手にされず。
それでもめげずに言い続けていたら名誉毀損で逮捕されたらしい。
兄から「父上が裁判局に訴えてくれたそうだよ」と教えられたが、そうなんだ、とイザンバはこれまたスルーした。
元家庭教師のお陰で伸びたのはスルースキルだけではなかろうか。
以降一月は勉強に関しては休息期間を挟んだ。まずはイザンバの体力・気力の回復を優先したのである。
と言ってもそこはイザンバ。積読の消化がリフレッシュなのだからすでに気力は満タンだ。
加えてオタク度が進化しグッズを集め始めたのは、元家庭教師による押さえつけの反動ではない、とは言い切れない。
そして、迎えた交流の日。
オンヘイ邸のサロンで対面したコージャイサンへイザンバは開口一番に礼を伝えた。
「先日はお見舞いに来てくださりありがとうございました」
倒れた日以降もお見舞いの品と短いメッセージが届き、感動するよりも私なんかにと申し訳ない気持ちが勝ったのだからイザンバはつくづく自分は小心者だと自嘲する。
コージャイサンは顔色が良さそうなのを認めると気遣いの言葉を返した。
「お気になさらず。もう体は大丈夫なのですか?」
「はい。ご心配をおかけしました。少し疲れが出ただけですので」
「……少し?」
イザンバの回答に冷ややかになったコージャイサンの視線。
途端に下がる体感室温、冷えた翡翠に射抜かれたイザンバは小さく悲鳴を上げてしまった。そしてすぐに頭を下げた。
「ヒェッ……ごめんなさい。少しじゃなくてだいぶ疲れてました」
「そうですね。ご家族はもちろん私も両親も心配するので次は少しでも疲れたらちゃんと教えてください」
なんと釘まで刺される始末。
お見舞いの花も今の忠告も自分にはもったいないと思うが、それでも気にかけてくれたことが嬉しくてイザンバからふにゃりとした笑みが漏れた。
そんな間抜けな顔をコージャイサンにじっと見られている事に気がついて彼女はあわてて表情を引き締める。
「ありがとうございます。家族にも叱られましたので気をつけます」
元家庭教師の言い方は難であったが、要らぬ心配をかけない為にも確かに体調管理はしっかりしようとイザンバは拳を握った。
そんな彼女を見て、コージャイサンが口を開く。
「先日は兄君とお話をさせていただきましたがやはり似ていますね」
「ありがとうございます。私にとっては自慢の兄なのでそう言ってもらえて嬉しいです。あの、お見舞いに来ていただいた時兄が応対したと聞きました。なにぶんふんわりした人なので、その、本人はとても緊張していたらしく……失礼はなかったでしょうか?」
「……問題ありません。彼は兄として、伯爵令息としてきちんとしていました」
若干の沈黙はなんだったんだろう。
——お兄様、やっぱり何かやらかしたの⁉︎
帰ったら問い詰めよう、と言う決意は丸っと隠してイザンバは努めて明るい声を出す。
「そう言ってもらえると私も誇らしいです。でもコージャイサン様がとてもしっかりされていて年下に思えないと驚いたそうですよ」
「そうですか」
また会話が途切れた。沈黙が重い訳ではないがなぜかイザンバがソワソワとし始めた。
不審そうな目を向けてくるコージャイサンに彼女はいつになく覚悟を決めた顔をするではないか。
「コージャイサン様、これを受け取っていただけますか? その、お見舞いのお礼にと思いまして……」
イザンバが手渡したのはネリネを刺繍したハンカチ。出来栄えは普通だが、一針一針感謝の気持ちを込めた。
「ありがとうございます。ぜひ使わせていただきます」
突き返されることはないだろうが、しっかりと受け取ってもらえてホッとする。そして、もう一つ。
「それと兄からも手紙を預かって来ました」
手渡された手紙をすぐに読み始めた。急ぎ返事が必要な場合があればすぐにかかなければならないからだ。
顔を上げたコージャイサンの表情は穏やかであった。
「……兄君にもよろしくお伝えください」
「はい」
手紙にどんなことが書かれているのかイザンバは知らない。けれどもコージャイサンの表情が固くならなかったから、まぁ悪い内容でも失礼な内容でもないのだろうと笑みで了承を返した。
「兄妹とはいいものですね。私も兄君と親しくなれるでしょうか?」
「え⁉︎ あ、それは、はい! ぜひ、ぜひどうぞ!」
——リアル美形×平凡⁉︎ 萌える!
婚約者と兄で何を想像しているのか。やはり元家庭教師の抑圧の反動は否めない。
そして後日。公爵家に紹介された家庭教師からイザンバに合わせた勉強を、超一流淑女である公爵夫人セレスティアから直々に淑女教育を受け始めた。
どちらも厳しいが出来た箇所はしっかりと褒めてくれるので、イザンバも平凡なりに成長をしている。
二人の会話が少し増えたのもこの頃だ。
活動報告にアーリスの手紙、アップ予定です。