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追憶
ここはオルディの執務室。あれから三日後に婚約の打診がきたのだが、伯爵邸はまさに上へ下への大騒ぎだった。
伯爵家に広がるのは喜びよりも困惑。
特に両親にその色は強い。二人にとっては可愛い娘だが、まさか公爵令息の目に留まるとは思ってもみなかったのだ。
ソファーに身を沈め、現実として受け止める覚悟を決めてフェリシダが娘に問うた。
「ザナ、公爵令息様とはご挨拶しただけって言ってたわよね?」
「あー……。実はちょっとアクシデントがあって蛙を顔面キャッチさせちゃって……」
「何やってるのよ⁉︎ あれほど粗相がないように気をつけてねって言ったでしょう⁉︎」
「や、でも、あれは不可抗力で……自然って怖いですね」
「そうだけどそうじゃないのよ! 旦那様、本当に婚約なの⁉︎ 謝罪要求の間違いではなくて⁉︎」
娘の言葉にフェリシダは悲鳴をあげた。現実を受け止めるつもりでいたが、めでたさの欠片もない事実なのだから頭痛に見舞われるというもの。
そんな妻に問われたオルディは目を皿のようにして執務机の上に置いた手紙を何度も何度も読み返す。
「婚約って書いてあるけど……うん、何回見ても婚約……あれ、何故だ?」
「ねー、何ででしょうねー」
と揃って首を傾げる父娘に、フェリシダは一層頭が痛んだとか。真意は分からないにせよ公爵家からの申し出を断るほどの肝がオルディにはない。これ以上の無礼にならないようにと急ぎ返事を書いた。
また、くるり、と視界がまわった。
次の空間はオンヘイ家のサロン。婚約が整って初めてのお茶会だ。にこやかに出迎えてくれた麗しいオンヘイ公爵一家。しかし対面するクタオ伯爵家の面々からは隠しきれない緊張が迸る。
大人同士の挨拶の後は当人である。まず口を開いたのはコージャイサンだ。
「ようこそ、クタオ伯爵令嬢。婚約の承諾、感謝します。これからよろしくお願いします」
「はい。未熟者ではありますがよろしくお願いいたします」
とは言えイザンバの胸中は穏やかではない。
——絶対に逆らわない婚約者がほしかったのかな?
それならば納得できない事はない、と半ば強引に思考をまとめたが、けれども再会したコージャイサンは変わらず淡々とした様子。
怒りも蔑みも感じないが、まだ顔を合わせるのも二回目ということもあり、イザンバは彼の思惑を掴みきれない。
「イザンバ嬢とお呼びしても? 私の事もコージャイサンとお呼びください」
「はい」
何が正解なのかわからないまま、イザンバは流れに身を任せることにした。どうせ決定権は自分にはないのだから、と諦めたと言ってもいい。
一通り挨拶が終わると大人と子どもに分かれることになった。コージャイサンはイザンバを庭園へと誘い、歩きながら始めた会話は例の生き物について。
「あなたは蛙が好きなのですか?」
「いえ、特に好きと言うわけではありません」
「では、なぜあんなにも詳しかったのですか?」
彼が不思議に思うのも当然だ。普通のご令嬢はまず蛙を見て悲鳴を上げるだろうに、あろう事か素手で捕まえたのだから。
イザンバは少しだけ気恥ずかしそうにすると事情を説明し始めた。
「お母様と孤児院に行った時に、小さい子に『なんで? どうして?』と色々と質問されまして。答えようと一緒に本を読んで知ったのです」
「孤児院にそこまで詳しい本があったのですか?」
「それは従僕に買いに行ってもらいました。生態についてから神話まで手当たり次第買ってきてくれたんですけど、男の子と女の子で興味の持ち方が違ったのでとても面白かったですよ」
「そうですか」
男の子は体の大きさや毒の強さに、女の子は可愛いモチーフや縁起のいい意味合いに。
特に男の子たちが近くにいた蛙を捕まえては「見てみてー!」と持ってきて、しかもそのままあちこち触るのだからイザンバも考えざるを得なかった。
そこで『実戦に勝るものはなし』とばかりに自らも根性で蛙に触れ、毒性について子どもたちに説いたのである。要は蛙を触ったら手を洗え、と。まぁ蛙に限らずだが。
「小さな生き物が地域によっては神の遣いだったり悪魔の僕だったり。色々な考察があって、自分にはない視点を知れました。これだから本を読む事はやめられないです」
「そうですか」
「はい」
ここで会話終了。イザンバは気まずさから何か喋らなければと思うが、両親からも失礼のないようにと念を押されていたため口を噤む。
無言のまま歩いていると、コージャイサンの方が口を開いた。
「少し移動しても?」
「はい」
誘われるがままにイザンバは大人しく後に着いていく。果たしてどこに向かうのだろうか。
コージャイサンが向かったのはオンヘイ邸の一角。彼は扉を開くと、イザンバを中に招いた。
「うわー!」
思わず上がる感嘆の声。そこは右を見ても本、左を見ても本、前を見ても本、と言う具合の立派な図書室。
目を輝かせるイザンバにコージャイサンが淡々と声をかけた。
「本を読むのはお好きなのでしょう? どうぞ好きに使ってください」
「よろしいのですか?」
「はい」
「嬉しいです! コージャイサン様、ありがとうございます!」
満面の笑みでお礼を言ってしまうほどにイザンバは嬉しかったのだ。
ぐるりと室内を案内してもらうと最新の技術書や武術指南書、ひと昔もふた昔も前の娯楽本まである。その蔵書量に、また希少価値の高い本がある事に、彼女は感動しきりだ。
そしてそれぞれが本を手に取るとテーブルを挟んで向かい合わせに座り読み始めた。
本を読んでいると会話がなくても気にならない。しかもイザンバにとっては家にない珍しい本を読む事ができ、あっという間に過ぎてしまうほど充実した時間となったのだからなんと有り難いことか。
家を出た時と違い、ご機嫌な娘の様子に伯爵夫妻はホッと息を吐いたとか。
それ以降の月に一度の婚約者としての面会が、サロンでお茶を飲んだあと図書室で時間が来るまで本を読む、という流れが成立した瞬間である。
さて、婚約が成立したことでイザンバの生活は一変した。新たにマナーレッスンや勉強が始まったのだが、なんとやってきた家庭教師との馬がとにかく合わない。
「この程度も出来ないのですか」
「これでは優秀な公爵令息とは釣り合いませんわ」
「貴女の言動は一々品がない」
「うちの姪の方がよほど優秀ですわ」
「貴女は公爵令息に恥をかかせたいのですね」
といった言葉を家庭教師から投げかけられる事が増え、さらに本を読んでいればこう言われる。
「そんなことをしている暇があるなら刺繍の一つでもなさればいいのに」
「本を読んでいる割に詩は平凡ですのね」
「無駄な知識だけつけて。そんなだから可愛げがないのですわ」
イザンバは笑顔を貼り付け「申し訳ありません」「以後気をつけます」を繰り返し、出された大量の宿題をこなす日々。
きちんと出来なければお説教。出来ても嫌味。
疲れたと思ってもやらなければ身体的罰が加わるのだから神経を擦り減らす。
そんな中で始まった月に一度の交流。さすがに家庭教師は着いてこられる立場ではなく、しかも行き着く先は図書室。嫌味も飛んでこない癒し空間、素晴らしい。
婚約に乗り気ではないイザンバだが、交流の時間は彼女にとって苦痛ではなく、むしろ楽しみとなるほどだった。
そしてこの日も。二人はいつも通りの流れで図書室にいた。
「ふふ……ふふふふふ。…………ふはっ、ふふふふふふ」
「……そんなに面白いんですか?」
つい堪えきれずに漏れたイザンバの忍び笑いにコージャイサンから声がかかる。
指摘されたことでイザンバの眉が下がるが顔のニヤつきは抑えきれていない。
「すみません。うるさかったですよね。テンポのいい文章でつい……」
「そうですか」
特に不快感は与えていなさそうだと安心したところで目に入ったのは彼の小脇に抱えられた本。そこで今度はイザンバが尋ねた。
「コージャイサン様は何かお探しですか?」
「この伝記の続きを」
「それなら右側の二列目、手前から三番目の棚の上から三段目にありましたよ。波瀾万丈とはまさにこの方のことと言いますかよくこれで生き抜けましたよね。だってあんなに……っと、すみません。ネタバレ禁止ですね。どうぞごゆっくり」
口を押さえて危うくネタバレをかますところであったことを誤魔化すようにへらりと笑う。
「ありがとうございます」
律儀に礼を言って本棚に向かったコージャイサンをにこやかに見送ると、イザンバは視線を本に戻した。
次の月。図書室へと移動している最中のこと。
「今日は何を読まれるのですか?」
「そうですね……魔法の練度を上げたいので魔導書を読もうと思います」
「努力家なんですね」
イザンバの問いに返ってきたのは勉学に励む姿勢。公爵家の跡継ぎとして求められるレベルも高いのだろう。
イザンバの胸中で混ざり合う尊敬と同情。折り合いの悪い家庭教師や進みが悪くなった自分の勉強の事はひとまず脇に置いて、少しでも役に立てれば、と口を開いた。
「それなら攻撃系は中央一列目、前方一番目の棚の上一段目から、防御系は中央二列目、前方三番目の棚の下二段目から、治癒系は中央三列目、後方二番目の棚の上四段目からありましたよ」
「……ありがとうございます」
礼のあとコージャイサンにじっと見られてイザンバは首を傾げた。
——何かまずかったかな?
しかし特に悪いことを口にした覚えがない。うーん、と考えこんで閃いた。
「あ、もしかして今日は補助系の気分ですか? それとも召喚系でしたか?」
「いえ、大丈夫です」
違ったようだ。そんな会話をしていると丁度よく到着した図書室。コージャイサンが中央の本棚に向かったため、イザンバは絵画集の方へと足を向けた。
また次の月。今度は本棚の前で迷うそぶりを見せるコージャイサンにイザンバが声をかけた。
「何かお探しですか?」
「この論文の反証のものを」
「それなら……」
「待ってください」
「はい」
待てと言われたので素直に待つ。コージャイサンは考えを纏めるように沈黙したが、すぐにイザンバへと真っ直ぐな視線を向けた。
「もしかして……ここの蔵書を全て把握しているのですか?」
「いえ、とんでもない。最初に案内していただいた時にざっと見ただけです」
「たったそれだけで?」
怪訝な面持ちになるコージャイサンにイザンバは困ったような笑みになる。彼女としては何も特別なことはしていないのだ。
「分類分けがしっかりされていて見つけやすいからですよ。私が答えたのは該当ジャンルの棚だけですし。でも、ここの蔵書量は本当に素晴らしいですね! 絶版の本を見つけた時はブチアゲでした! 流石公爵家です!」
「ブチアゲ?」
聞き慣れない言葉にコージャイサンが首を傾げた。美少年のそんな仕草はとても可愛いのだが、なにせ彼女はそこに注目していない。ついテンションが上がってしまい、言葉遣いがマズかったと口を押さえた。
「すみません、品のない言葉を使いました」
「その言葉の意味は?」
「えっと……すごく嬉しかったってことです」
顔色を伺うように恐る恐る伝えるが彼に怒った様子はない。ホッと安堵の息を漏らす彼女にコージャイサンからは呆れたような声が出る。
「イザンバ嬢は司書にでもなるつもりですか?」
「そこまでは考えていませんけれど、本屋さんに住みたいとは常々思っています」
「本屋に住みたい」
これはイザンバの願望なのだが、コージャイサンからすればまさかだったのだろう。真顔で鸚鵡返しをされてしまった。
「でも司書も素敵ですね。将来の選択肢が増えるのはいいことですし資格が取れるように勉強してみます」
「将来の選択肢、ですか」
貴族令嬢が手に職をつける。それは行かず後家であったり、本人や実家に何らかの問題がある場合が多い。
既に何度か交流しているが、イザンバはこの婚約は期間限定のものだと思っている。
両親からは失礼のないようにだけしたらいい、と言われ。
家庭教師には日々そのようなことを言われ。
なんだか色々と疲れてきたのでもういいや、と思い始めたと言うこともある。
——司書の資格って何が必要なんだろう。あとで調べてみよう!
近い将来、婚約が解消された暁には自立できるように選択肢は増えるほどいい。
そう考えると憂鬱な勉強にももう少し身が入りそうだ。
それに有り難いことに最近では家庭教師の言を聞き流せるほどにスルースキルが上がってきた。この調子ならどんな理不尽な客のクレームも聞き流せそうだと、もはや訓練の領域だ。
そんなイザンバの思惑に気付いたのか気付いていないのか。コージャイサンは黙り込んでしまった。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……勉強、頑張ってください」
呼びかけに応じるもどこかぎこちない。それでも応援してもらえた事が嬉しくてイザンバにパッと咲く笑顔。
「はい。それで、その論文の反証ならあちらです。左側一列目、後方二番目の棚の上一段目にありましたよ。そういえばその著者様、反証を真摯に受け止めてまた研究結果を新たに発表されてましたよね。それに論文とは正反対のギャグテイストの娯楽小説も書かれていて。頭良くて、柔軟な発想もできて、まさに神は二物を与えたんでしょうね! そちらもオススメですよ! ちなみに娯楽小説は右側の四列目、後方から二番目の棚の中段にあります」
「ありがとうございます」
礼を述べ、左側の棚へと歩き出したコージャイサン。
イザンバはと言えば、自分で勧めた娯楽小説を読みたい欲に駆られて右側へと進む。
そしてそれぞれが本を手にテーブルへと戻ると向かい合わせに座り、ただ静かな時間が流れたのだった。
背景に溶け込んでいたイザンバはふと思った。
——私、本のことばかり話してない? あの頃はいっぱいいっぱいだった自覚はあるけどこれはないわー。
会話がないわけではないが、とても交流しているようには見えないうえにイザンバはまるで案内人のように立ち回っている。
この夢は彼女の過去。今更だがイザンバは当時の振る舞いを反省した。
活動報告に両親ズの会話劇、アップ予定です。