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カタコトとは言え返事をしたイザンバにコージャイサンはひとまず笑顔の圧を解いた。いつも通りの表情になった彼にイザンバはホッと息をつくが、安心するのはまだ早い。
「アイツらを側に置いとけば大抵はなんとかなるだろうけど、誰に対してもザナ自身が警戒してくれないと守れない事もあるからな」
「そんなに……危ない状況なんですか?」
『警戒』と言う単語に少し神妙になったのはイルシーが囮をしていた経緯があるから。黒幕にまだ辿り着けていない、と彼が言っていたことをイザンバは覚えていたのだ。
しかしコージャイサンの言った警戒とイザンバの捉えた警戒の対象がズレていることに、さて気付いているのは誰だろう。
「ああ。また状況が変わった。まぁ他の男に関しては俺が嫌だからだけど」
「んぐっ!」
不意をつかれイザンバの喉にナニか詰まったようだ。イザンバが違う意味で捉えたことに気付きながらもしれっとクールな表情のまま素直に言うのだから油断も隙もない。
けれども二つの面で状況が変わったのは事実である。
イザンバが捉えた面はもちろんイルシーの忠告通りこれからは男も寄ってくる事をコージャイサンは確信している。
それは昨日出勤した時、彼自身も揶揄われるとともにイザンバの事を探られたからだ。
——防衛局長であるゴットフリートから受け継いだ天賦の才
——王妹であるセレスティアから受け継いだ血筋と美貌
——騎士団長・魔術師団長にも一目を置かれている実力
——先輩相手でも容赦ない絶対王者
コージャイサン・オンヘイを落とした女性として。
純粋な好奇心も、イザンバを利用したい害意も、思い出してはその全てが鬱陶しいと内心で舌を打つ。
当の本人の意識はそんなところにまで及んでいない。だから……コージャイサンが身を屈めた。
「ザナ」
耳元で囁かれた事でドクリ、とイザンバの胸に湧き立った甘い高鳴りが驚きを凌駕する。
「俺以外に触れさせないで」
これは懇望であって命令ではない。それでも……叶えられるのは彼女だけ。
静かに望む声がイザンバに深く突き刺さる。ギュッと胸を締め付けられて、涙が出そうだ。
——私の知らないところでまた何かが進んでいる。
それを悟り、しかしイザンバは問うではなく応える事を選んだ。
「当たり前です! 私だってコージー様以外に触れてほしいなんて思わないし! そもそもコージー様が嫌がるような事するわけないじゃないですか! でも……」
「でも……何?」
「お願いだから今は離れてください……なんかもう、色々キャパが……ドキドキしすぎて————……しんぞう、はきそう」
目を瞑り、手を握り締め、か細い声が紡ぐ願いはなんと愛ものだろう。
コージャイサンに自然と笑みが浮かび、想いのままに言葉を贈る。
「ザナ、好きだよ」
「——っ!」
吹き込む声に羞恥の限界値を超えたイザンバは本棚にしがみつくように身を捩った。
クスリ、と笑う気配を感じ、揶揄われたのだと思った彼女が視線を向けると……——そこには甘く滴る翡翠。
「触れていい?」
乞うようでいて、我を通す。返答を待たずに彼女の手をコージャイサンが掬い上げた。
イザンバはされるがままで、けれども何を乞われているか分からないほど無垢ではない。そして、断る理由も——ない。
恥ずかしさから視線を逸らした後、ゆっくりと頷いた。
了承を得て、コージャイサンがイザンバの指先へキスを送る。
次に掌。そこに触れたまま、彼女に視線をやると目を見開き固まっているではないか。
そして見せつけるように手首へキスを。その意地の悪い笑みに、ややあってイザンバはさらに顔を赤に染めながらぎこちなく動いた。
「なっ、触れ、それ!?」
「ちゃんと聞いただろ」
そう言ってコージャイサンは指を絡め本棚へと縫い付け、そこからさらに振るキスの雨。額へ、瞼へ、頬へ。
そして交わる視線。
——羞恥の後ろに隠れた恋慕が滲むヘーゼルに魅せられるように
——情が籠った翡翠に思考すらも染め上げられるように
視界を占領するほど近づくと、二人の唇がしっとりと重なった。
何度も、何度も啄むキスを繰り返す。慣らすように、馴染むように、少しずつ少しずつ触れ合う時間を長くして。
けれどもレベル1のイザンバは受け止めるだけで精一杯で。
呼吸する余裕を無くした頃、なんとか合間を見つけてコージャイサンの胸を叩いて訴える。
「まっ……待って……」
「ん?」
「これ以上は…………しんじゃう……」
もういっぱいいっぱいだ、といつもの無邪気さはすっかり鳴りを潜め、訴える様は拙く初々しい。
瞳は熱に潤かされ、羞恥を極めている頬。何度も重ねた唇は少し腫れぼったくなっており、漏れる吐息に無自覚に混ざる色。
グラッ。とコージャイサンの理性に比重を置いていた天秤が少し本能の方へと傾いた。
イザンバはひたすらに恥ずかしいのだろう。視線は斜め下を向いてしまいコージャイサンがその瞳を見つめる事は叶わなかったが、彼女の指先がそっと腫れぼったくなった自身の唇に触れる。
その仕草はまるで彼が離れたことを惜しむようで、また少し天秤の傾きを足すことになったのだが……。
『既成事実を作ってもよろしくてよ!』
『やめてくれー!』
ところがここでコージャイサンの脳内へ義両親の乱入だ。楽しそうな高笑いと縋るような懇願がドドドン! と落ちてきて、傾いた天秤を理性の方へと戻した。
コージャイサンは自身を落ち着けるようにふーっと息を吐き出すと、まるで何事もなかったかのようにイザンバに声をかける。
「サロンへ行こうか」
「え?」
「この本はどうする? まだ読むか?」
言いながら彼は視線をイザンバから外し、脇に置いてあった本へ向けた。どことなく見覚えがあるのは恐らく彼女が以前も読んでいたからだろう。
必要なら何巻かまとめて持っていかないとな、なんて局地的世話焼きが今まさに発動しようとしているのだが、イザンバはそれどころではない。
先ほどまでの熱がまるで嘘のように、あっさりと身を翻すコージャイサン。その態度があまりにもいつも通りなものだから、申し訳なさや情けなさ、そして寂しさがイザンバの心中をかすめる。
だから、つい——くいっ、とジャケットの裾を引っ張った。
「ザナ?」
「………………呆れちゃった?」
ぐらっと第二弾が仕掛けられた!
間をためて、潤む瞳で見上げながら胸中を吐露したイザンバの、さらに震える指先が勇気を振り絞っただろうことを伝え、その健気さを全面に押し出した。これは中々の一撃ではないだろうか。
グラグラと、振り幅の大きくなった天秤。今まさにその理性が試されている。
しかしここでも強いのは高笑いと懇願だった。コージャイサンの脳内を右へ左へ行ったり来たりとまさにフィーバー状態。いやはや、なんて忙しのない。
強制的に理性の腰が鎮座する方へ持っていかれたが、今ばかりは助かったとコージャイサンはまた深く、ゆっくりと呼吸をした。
するとそれを見たイザンバがしゅんとした様子で手を離すではないか。このまま離れれば誤解を招く事は間違いない。
「あー……そうじゃなくて」
少し困ったように眉を下げると、手を伸ばした。
そしてそのままコージャイサンの親指が触れたのはイザンバの唇。ふに、とした柔らかな弾力に先ほどまでの熱が蘇る。
「このままだと歯止めが効かなくなるから」
「ほぁ!?」
「ああ、でも、ザナもこの先どうするか知ってるんだもんな。なら……もっと——……それこそ最後まで、進んでみるか?」
「ふぇ!?」
アワアワとしているうちにクイッと顎を持ち上げられ、軽く親指に力が籠る事で少し開いたイザンバの唇。
そこに向けてまた彼の顔が近付いてくる。瞬時に纏った色香の濃さといったらない。
腰が引けズルズルとしゃがみ込んでしまったイザンバは自身の目を覆い隠すしか対抗手段を持たなかった。
「ごめんなさい! 色気しまってください!! お願いします!!!」
力一杯願い出るイザンバにコージャイサンは吹き出した。目線を合わせるように膝を折るとその頭を撫でる。
その手つきの優しさにイザンバの強張った体から力が抜け、恐る恐る手を外す彼女にコージャイサンは微笑み告げる。
「冗談だ。どのみち結婚式まではザナに合わせるつもりだし。まぁ、レベル上げはするけど」
「え?」
レベル1を脱したとはいえ、イルシーの読み通りこのままでは遅々として進まないだろう。
イザンバが無自覚に煽ってくるものだからコージャイサンとていつまで耐え切れるか……。少し、待つと言った自信が揺らいだ彼は早急に慣れてもらうことにしたようだ。
「遠慮しないって言っただろ? ちゃんと覚悟しとけよ」
「ヒェ……」
ニヤリと笑う姿に見惚れる間も無く、イザンバからは冷や汗がダラダラと止まらない。
覚悟を求められて慄く彼女をよそにボソリとコージャイサンが呟いた。
「……流石に今日はヤりづらいしな」
あれだけ脳内で邪魔をされてはどうしようもない。今日は何をしてもチラつくだろう高笑いと懇願にコージャイサンは白旗を振った。
けれどもイザンバには意味がわからず、ただただ首を傾げるばかり。
「なにがですか?」
「気にするな、こっちの話だ。さ、行こう。伯爵夫妻が写真を見ながら待っているだろうから」
「写真? 私は最近撮ってないけど……」
彼女はその場にいなかったが故にどうしても両親と写真が繋がらない。
それもそうか、と彼がした種明かし。
「アイツが撮っていた訓練公開日の写真だ」
「……それってもちろんコージー様のだけですよね?」
「伯爵夫妻に売るために持ってきたようだから、ザナが写っているものの方が多かったな」
結局、伯爵夫妻は何枚買い取ることにしたのだろうか。あの盛り上がりを思い返していたコージャイサンに対して、内容を聞いたイザンバの顔がサッと青ざめた。
「それはまずいのでは!? 何が写ってるか分からないじゃないですか! コージー様、急いでください! 買われる前に回収しないと!」
「もう手遅れだと思うが」
購入阻止を目指し慌ただしく部屋を飛び出したイザンバに果たしてコージャイサンの声は届いているのだろうか。かと思えば、彼女はひょっこりと戻ってきた。
「忘れてた! ぬいちゃん!」
パタパタとソファーまで走り、大事そうに抱えたシリウスのぬい。
「それ……」
「この前買ったやつですよ。可愛いから家の中でだけ持ち歩いているんです」
えへへ、とぬいを顔の前に持ってきて見せるイザンバにコージャイサンの深まった笑み。
彼はぬいを下げ、顔の前を開けるとそのまま素早く唇を重ねた。突然のことにもちろんイザンバが反応できるはずもなく、離れたところで見えた蕩けた笑みに一気に顔を赤らめた。
「なんでまた!?」
「ザナが可愛いことするから」
「どこが!?」
「それ」
コージャイサンがぬいを指差したので、イザンバはムッとする。
「……ぬいちゃん持ち歩いてて、子どもっぽいって言うんでしょ」
「違う。そのぬい、研究員バージョンだろ? なんで?」
「なんでって……」
イザンバが好きなのは忠臣の騎士シリウス。それなのにどうして騎士バージョンではなく研究員バージョンを持ち歩いているのか。
そう問われ、イザンバも考え始めた。
珍しいバージョンだから?
——それなら現代の騎士の軍服も魔術師のローブも珍しい。
ぬいの表情が違った?
——どれもキリリとして、それでいて可愛い。
じゃあ、どうして?
——それは……着てたから。
誰が?
——誰って……そんなの……。
じわじわと頬を染めていく様に、どうやら自分の無意識を自覚したようだ。
あの蕩けた笑みが先に気付いていたことを示すのならば、こんなに間抜けな事はない。
「なんでもいいじゃないですか!」
恥ずかしさを吹き飛ばすような強い口調。精一杯の虚勢で凄むが、すっかり茹で上がった顔で言われてもコージャイサンは愉快そうに喉を鳴らして笑うだけ。
「ほら、可愛い」
「〜〜〜もうっ! いいから早く行きましょう!」
照れ隠しなのかイザンバはぐいぐいと彼の背を押し始めた。これも悪くはないがどうせなら、とコージャイサンはその愛称を呼ぶ。
「ザナ、こっち」
「わっ……!」
ぐいっとその手を引いて横に並ばせた。いきなり引っ張らないで、と非難を込めた視線を向けるが、優しく微笑まれてはイザンバから毒気も抜ける。
そのまま手を繋いで、他愛もない話をしながらサロンへ向かったのだった。
しかし、邸内でそんな事をしているのだから使用人たちの目につくのは明らかだ。
仲睦まじい二人に「見てるこっちが爆発できる!」と大盛り上がりの宴会ネタを提供することになったとかなんとか。
さらに、サロンの扉を開ければ両親がその視線を写真よりも繋いだ二人の手に向け、途端に高笑いと号泣が押し寄せた。
おまけに、ニヤついた従者の生ぬるい視線にまで晒される始末。
外よりも先に身内に揶揄われまくる事になったのだから、イザンバがどうなったかは……お察しいただければ幸いだ。
これにて『ツボに入るか、沼にハマるか』は了と相成ります。
読んでいただきありがとうございました!