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書庫の中腹、イザンバは一人掛けのソファーに腰を落ち着けると本を顔に近づけ深く息を吸った。
「はぁぁぁ、紙とインクの匂い……我が癒し〜」
コージャイサンが来ているのだから出迎えなければいけないのは分かっている。分かっているが、どうにも心に余裕がない。
その原因は人伝いに聞いた彼の宣言。その後の自分達の行動がどう見られ、どう噂されているのか。
「あぁぁぁぁぁぁあ! 知らなかったとはいえやっちまった感ハンパない!」
ガツン! と肘置きに頭を叩きつけるほどの衝動——イザンバは入り乱れる感情を持て余し、その落とし所を見つけられないでいた。
しばらく痛みと羞恥に唸りながら身悶えていたが、ふと逃亡のお供に持ち出したシリウスのぬいが目に入った。
「ねぇ、ぬいちゃん。なんでコージー様はあんなこと言っちゃったんだろうね」
ツンツンと叩くが当然ぬいから返事があるわけでもなく。ポージングもままならないぬいはころりと転がった。
同じようにイザンバもころりと肘置きに頭を預けて……勢いよく顔を上げた。
「よし、気分転換しよう!」
そう言ってからふらり、ふらりと本棚の合間を縫い始めた。
目に入った一冊を手に取り、どんな話だっけ、とパラパラとページを捲り。
そうそう、こんな話だったとそのまま文字を追う。
知っている展開の懐かしさ、それでいてワクワクと踊る胸、忙しなく動く眼球とは反対にその表情は実に楽しそうだ。
ふと気になる単語を見つけ、またふらりと足を動かした。
書庫の奥、辞典が並ぶ一列まで来ると小説を一旦脇に置き、上段から目的のものを手に取った。項目を探し当て意味がわかったのか浮かび上がるのはスッキリとした表情だ。
イザンバはご機嫌で辞典を元の位置に戻すと、先ほどまで読んでいた小説の続きに思いを馳せる。
こんな風にうっかりと集中してしまうものだから、彼女は扉が開いた事にも、人が側に寄ってきた事にも気づいていなかった。
「ザナ」
「うひゃあっ!」
突然、声をかけられて体が跳ねた。
「コージー様⁉︎ どうしてここに⁉︎」
驚きすぎて本棚に肩をぶつけながら振り向いたイザンバだが、コージャイサンは声をかけるよりも速く、あっと言う間に距離を詰めてくる。
少し険しいその表情に逃げ回った自覚がある彼女は叱られるとでも思ったのかギュッと目を瞑った。
けれども、その身に降りかかったのは怒気ではなく包み込むような温もり。
「——あっぶな……。大丈夫か?」
恐る恐る目を開けたイザンバに落ち掛けた辞典を右手で押さえながらかけられたコージャイサンの案ずる声。
先程表情が険しくなったのは彼女の肩がぶつかった拍子に本棚が揺れ、隙間の空いた上段の本がぐらりと傾いた事。さらにその落下地点にイザンバがいる事に彼が気付いたから。
なにせここは辞典ばかりの一列。つまり落ちてくる一冊が分厚く、とても重い。間一髪である。
「はい……ありがとうございます」
「ん。気を付けろよ」
イザンバからは呆けた声が出たが、コージャイサンは無事を認め安堵の息をもらした。
辞典が落ちてきそうだった事に今更ながらに気付いたイザンバは、そのまま元の位置に戻した彼の右手の動きを視線で追う。
すると、ゆっくりと降ろされた右手はイザンバの左腕の横で手をつくように動きを止めるではないか。
その状態に「あれ?」と思いイザンバは視線を巡らせ、あることに気付いた。
目の前にコージャイサンの体。いつの間にか彼の左手も本棚につかれており、さらに背後は本棚。
人はそれを四面楚歌と言う。
人はそれを八方塞がりと言う。
人はそれを背水の陣と言う。
いや、もっと簡単に言おう。つまりは、そう——壁ドン!
どうしてだかイザンバの心音が落ち着きなくリズムを刻み出した。ダンスの時でもこうやって近くにいるのに、心拍はその時の比ではない。
生じた焦りにイザンバはなんとか口を開こうとした。
「そんなに嫌だったか?」
ところが被せるようにコージャイサンが問うてくる。なにが? と聞き返すよりも先に言葉が口をついた。
「この状況ですか⁉︎ それはもちろん落ち着かないからやめてほしいです!」
「分かった。で、話を続けるけど」
「続けるの⁉︎」
「演習場で俺が欲しいのはザナだけだと言ったこと、聞いたんだろう? 逃げるほど嫌だったか?」
そう言われてピタリと騒ぐのをやめた。どう言おうかと視線を彷徨わせるがそうするとまた囲まれていることを意識してしまう。
逃げ道すら見つけられず、ええいままよと意を決して顔を上げた。
するとどうだろう。飛び込んできた少し眉の下がった表情。途端にイザンバの胸が罪悪感で痛んだ。
「……ごめんなさい。でも、あの、嫌って言うよりも…………羞恥で爆発しそうだったんです!」
「そうくるか」
「だって昨日の時点でお母様のにやけ顔ハンパなかったんですよ! それをこれから色んな人に向けられるんだと思うと…… どうするんですか⁉︎」
公言してしまえば無かったことには出来ない。
言い募るイザンバに、さてどう言ったものかとコージャイサンは思考を巡らせた。
しかし、世の中には誤魔化しても仕方のないこともある。告げる内容を決めると彼女に向かってキラキラエフェクト付きスマイルを炸裂させた。
「大丈夫。俺はすでに先輩たちから向けられてる」
「いい笑顔で……! それは自業自得っていうんです! 私は完全に貰い事故なんですが⁉︎」
イザンバとしてはいつも通り過ごしていたところに不意打ち、それも回避不可能な一撃を喰らった気分だ。
実際その威力は大したもので防衛局にも社交界にも衝撃をもたらしたのだから。
「何かと注目度の高い公爵家の話題なんだから皆さんがすぐに忘れてくれるはずもないですし……もうダメ! せっかく寿命延びたのに人生終わった! 私は霞になりたい!」
「せめて実体は持ってくれないか」
恥ずかしがったり、怒ったり、嘆いたり。
いつにも増して入れ替わりが激しい感情をわーっと一気に吐露するイザンバだが、彼女が憂いているのは周りに揶揄われる事だと分かりコージャイサンの肩から力が抜けた。
まだうだうだとしながらイザンバは受け入れがたい現状の説明を求めた。
「もぉ〜……なんで演習場でそんなこと言っちゃったんですか⁉︎」
「俺が好きなのはザナだから。自称真実の愛の相手も愛人志願者もいらないんだと全員に分かるように言い切った」
「おっふ……初手からつよい」
ところが返されたのはストレートな言葉。自分一人の感情すらままならないイザンバに堂々と好意を伝えるコージャイサンによって追加のダメージが与えられた。
なんでこの人は顔色一つ変えずに言えるんだ、といちいち狼狽するイザンバにとってはなんとも羨ましいような、悔しいような、メンタルの鋼仕様だ。
「それにああやって言ってしまえば絡んでくるヤツも減るだろう。実際あの日も誰も寄って来なかったし、面倒がなくていいじゃないか」
「まぁ……そうですけど」
実際、お花畑の相手をせずに済むのはイザンバとしても、またクタオ家の面々にしても有り難い話である。
だからと言って「私愛されてるんです。おほほほほ〜」とはイザンバの性格上ならない。いや、淑女の仮面を持ってしてもなれない。
コージャイサンはイザンバの様子を観察しながら言葉を紡ぐ。不服そうな彼女を宥めるように、慰めるように。
「戦場でも社交界でも情報に疎い奴は生き残れない。知らずに突っかかってくるやつは勝手に爪弾きにされるから安心しろ」
「やだー。社交界こわいー」
形成された派閥とそこから生じる同調圧力。影響力のある者が発する大きな流れ、急激に変わる流れを見逃しては恥をかくだけで済まないだろう——例えばそれが敵対派閥でも。
「恥ずかしいなら社交は最低限でいいし」
「いいんですか⁉︎」
「ああ。その代わり俺がザナを独り占めしたくて囲い込んでいると思われるだろうから、もっと噂は広まるだろうけど」
「それはそれで……はあぁぁぁ」
イザンバがまるで肺にある空気を全て吐き出すかのように長い溜め息を吐く。
社交をしても、引きこもっても、巡る噂は変わらない。
それならばいっそフェリシダのように快適さに身を任せればいいのだが、今までと違い生温くなるであろう視線と言葉をうまくいなせるか……彼女には自信がない。
「コージー様、どうしましょう……。お酒でやらかすよりも先に危機がやってきました! こんなパターン二次元以外で見た事ない! どうしよう、ほんとに上手く立ち回れる気が全然しないんです! だって平凡なオタクで、その上、二次元に脳みその容量を半分……じゃ足りない! 十分の九は確実に使っている私ですよ⁉︎」
「ほぼ全部だな。でも何回も言うけどザナは平凡じゃないからな」
「なんと⁉︎」
それを言語化し理解を求めるイザンバだが、即座に否定されて驚愕の表情を浮かべている。
さて、彼女がいかに自称平凡なのか。コージャイサンは静かに諭し始めた。
「マナーや教養を十分の一の容量で覚えきれるわけないだろう」
「圧縮したらイケますよ! だって脳内メモリは出来る限り推しに使いたいじゃないですか!」
推しのためならばその他はギュギュギューッ! とコンパクトに効率よく収めてしまう。
コージャイサン自身もその辺りで苦労した覚えのない身だが、従者たちがここに居れば「そんな簡単に出来たら苦労しねーよ!」と大ブーイングが巻き起こっていた事だろう。
「そういうところだ。それに平凡なご令嬢は特別招待券を三枚も貰わない」
「それはイルシーのせいですよ! あの人一体何したんですか⁉︎」
「アレはザナを真似ただけだ。元からザナ自身が評価されてたんだよ」
「納得いかなーい!」
お義理をしたらSSR確定演出だったのだ。それも三枚。イザンバとしてはなんだか変なところで運を使った気分だ。
しかも要らぬ注目を浴びた結果となり、けれども各団長から直接貰ったのだから行く事は決定事項だ。……まぁ目の前の人のおかげで大変行きにくい状況になったのだけれども。
不貞腐れたイザンバの唇がツンと尖る。そこに目が移ってしまい、コージャイサンはついでとばかりもう一つ付け足した。
「あと、ザナは十分魅力的だから他の男と一緒にいる時に気を抜くなよ」
「……はい?」
「女一人押さえ込む事は難しくない。もしザナが他の男に押し倒されたら……」
「いやいや、何言ってんですか⁉︎ ないない! そんな物好きな人、居ないですよ!」
——それはイルシーが言った通りの反応で
——それはあまりにも危機感がないもので
彼女は自分が欲の対象にならないと本気で思っている。
改めてそれが分かり、若干の苛立ちがコージャイサンに沸き起こる。
さてどうしてくれようか、と考える。イザンバが「ない」と言ったことがもし起こったら自分はどうするのか……。
余裕を見せて諭すのか、危機感を持ってくれと泣き落とすのか。どれも自分らしくないな、ともう思いついたままに口を開いた。
「相手は社会的抹殺だけでは済まさない」
「急に不穏!」
「なんなら生まれてきた事を後悔させるレベルで……制裁る」
「物騒極めてる! 待って、キャラ変しすぎじゃないですか⁉︎ 天地がひっくり返ってもそんな事ないですから! 大丈夫ですから!」
まるで従者がコージャイサンの敵に対してそうするように、飛び出した過激で容赦のない発言にイザンバの戸惑いは大きい。
けれどもコージャイサンは思うのだ。キャラ変も何も問答無用が一番自分らしい、と。
未だそんな事はないからと根拠なく言い張る彼女に、あのな、と声をかけた。
「惚れた女に手を出されて黙ってる男はいない」
「あうち……」
どうやらこれは良い意味でイザンバに効いたようだ。顔を手で覆ったイザンバだが隠れていない耳は赤い。
「物好きは俺一人で十分だ」
「え、待って、そういう意味で言ったんじゃなくて……あの、私そんな風に男の人に近づかないから……だから、その、そうならないって言いたかったっていうか…………ごめんなさい。気を悪くさせました」
さらに続いたコージャイサンの言葉にイザンバは慌てた。好意を寄せてくれている彼のことを物好きと称したつもりはないが、あの言い方はまずかったと遅ればせながらに気づいたのだ。
慌てて弁明する彼女の様子をじっと見た後、コージャイサンが重ねた言葉は彼女の自己意識を変えてほしいと願うもの。
「自分を卑下するな。現に今逃げられないだろ? 平凡だなんて言わないでちゃんと警戒しろ」
「や、これはコージー様が退いてくれたらいいだけの話で……」
「ん?」
耳に届く声音は優し気で、向けられているのは笑顔。それなのにどうしてか有無を言わせぬ迫力がある。
ジリジリと追い詰めてくる様はまるで言って聞かないのなら躙り寄る圧を体に覚え込ませるとでも言っているようだ。
徐々に隙間を無くす二人の空間、慣れない圧に屈した彼女はこう答えるしかない。
「キヲツケマス」
言葉も動作もカクカクとしてしまったイザンバだが間抜けというなかれ。美形の圧はそれ程なのだ。逆らわぬが吉である。