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「と、言うわけで。本日はお部屋に籠城されております」
昨日の書庫でのやり取りを簡潔に纏めてヴィーシャが告げたのはイザンバの現状。
コージャイサンに対面して腰掛けるフェリシダが申し訳なさそうにそれに続いた。
「せっかく来てくれたのにごめんなさいね。あまりにも見事な掌返しに笑いすぎちゃったせいかしら」
訓練公開日から二日後、つまりイザンバが母から噂話を聞かされた翌日。
イルシーとファウスト、リアンを連れてコージャイサンがクタオ邸を訪ねてきた。
着いて早々からファウストとリアンは荷物を運んでいるため今も別行動だが、コージャイサンはいつも通りサロンに案内された。
ところが肝心のイザンバが現れず、代わりに対面したのはシャスティとケイトを連れた彼女の両親。どうしたのかと尋ねたところ、この返事である。
人伝とは言えイザンバが彼の言を聞いての行動なのだから、コージャイサンに責める気持ちはない。
「いえ、夫人のせいではありません。こうなるだろうとは思っていましたから」
「あら、そうなの?」
そんな回答にクスクスと笑うフェリシダは実に楽しそうだ。
コージャイサンはチラリと視線をその隣へ動かすと、それで、と続けた。
「伯爵はどうなさったのですか?」
そこにはまるできのこ栽培が出来そうなほどジメジメとした空気を纏うオルディ・クタオ伯爵の姿が。
フェリシダもその肩を軽く叩き喝を入れるが、オルディの纏う空気は変わらない。
フェリシダは短く息を吐くと、眉を下げた。
「お茶会で聞いたことを話してから公爵家への畏れ多さと、社交界で話題の中心になって胃が痛いのと、娘が巣立つ寂しさが綯交ぜになってずっとああなのよ。気にしないで」
「そうですか」
それは周りにはどうしようもない男親の心というもので。オルディは周りを憚らずにしくしくと涙を流した。
「『嫁は二次元に限る!』って……『オタ活で忙しいから社交はしない』って言ってたあの子が! とんでもないスパダリ捕まえてラブラブになっちゃって! 結婚目前でお父様一安心だよ! でも息子はちっとも顔を見せないし娘まで出て行っちゃったらお父様寂しい!」
「あらら、舅が面倒臭い人で本当にごめんなさいね」
コージャイサンに向けてそう言うが、涙をそっとハンカチで拭ってやる表情は慈愛に満ちている。
いい夫婦だな、と二人の絆の深さに感服した。
「いえ。伯爵がどれだけザナを大切にしているか分かり、身が引き締まる思いです」
「まぁ! なんて素敵なのかしら! それに比べて……旦那様、そんなに情緒不安定なら離れてください。鬱陶しいわ」
おっと、手厳しい。先程までの思いやりは少しの間に席を外したようだ。
あしらわれたオルディはそのショックを面前に出し、ヨロヨロと部屋の隅へ行くときのこ栽培を始めた。
あーあ、とコージャイサンの背後から聞こえたが、フェリシダはそちらにニコリと笑みを浮かべるとコージャイサンへと向き直った。
「ザナは多少、いえ、そこそこ…………だいぶ変わった子に育っちゃったからあなたと上手くやっていけるのか心配してたのよ。婚約にも無関心で無頓着で、ずっと他人事だったから」
婚約から今日までを思い返す遠い目。婚約話が持ち上がったとき、伯爵邸が上へ下への大騒ぎとなったことが今は懐かしい。
けれども肝心の本人は「蛙を顔面キャッチさせちゃったのになんでだろう」と首を傾げ、釣り合うように努力し始めたと思ったらいつの間にかオタク街道をひた走るばかりで婚約者に対して熱を持たなかった。
「でも……あの子は変わったわ」
面倒だと言いながらも礼儀作法を身につけて、淑女の仮面を仕上げ社交をこなしていた娘。
——流すばかりだった嫌味を受け止めて、消化できるようになったのは
——一瞬で燃え上がるのではなく、じんわりと温まり続ける想いを育んだのは
彼が時間をかけて向き合い続けてくれたからこそだろう。
そしてフェリシダは彼の従者にも目を向けた。
最初は暗殺者の里から来たと聞いて、いくら公爵家からの申し出でも受け入れていいものか戸惑ったものだ。
けれども彼らは日々しっかりと仕事をこなしてくれている。そのお陰で娘の命も、貞操も守られているのだから感謝は尽きない。
「ありがとう。あの子を大切にしてくれて」
「当たり前の事をしただけです」
気負うことない態度で返すコージャイサンにフェリシダは嬉しそうな、安堵したような、優しさと温かみのある笑みを溢した。
——親子だな。
イザンバを彷彿とさせるその笑顔に、彼女が歳を重ねたらきっとこんな風になるのだろうな、と。
ついそんな事を考えて、コージャイサンも笑みを溢す。
ニコニコと微笑みあったのも束の間。
「うふふふふふふ、旦那様お聞きにくなりました? これはもう確定よ! 安泰よ! 毒にも薬にもならない政略結婚だと言われた我が家の、いえ、娘の勝利よ! おーっほっほっほっほ!」
彼をよそに響く高笑い。その落差にコージャイサンからカクリと力が抜けた。
シャスティとケイトも喜びを分かち合うようにキャッキャッと手を取り合っているところが目に入り、彼女が両親にも使用人にも大切にされている事が窺い知れる。
義理の息子から微笑ましいものを見る目を向けられていることに気付いたフェリシダはおほほと取り繕ったが……今更である。
「……って、あら? 旦那様?」
ここでフェリシダは返事のないオルディを呼んだ。
するとどうだろう。部屋の隅でイルシーと肩を寄せ合ってあるではないか。
コージャイサンとフェリシダは顔を見合わせて首を傾げると、もう一度隅の二人へと視線を向ける。
「よし、イルシー君。ザナが写っている写真は全て買い取ろう!」
「毎度ありー」
「だからこれからもザナの様子を撮ってきてくれないか?」
「そいつは別料金だぜぇ?」
「もちろん払うとも!」
なんと闇取引よろしく金銭のやり取りをしているではないか。取引内容は愛娘の写真であるが。
定期的に金が入る取引が成立した事でイルシーはホクホク顔だ。
そんな二人にスッと表情をなくしたフェリシダがゆっくりと近づいた。
「旦那様。何をなさっているのかしら?」
背後から聞こえる威圧感のある物言いに大袈裟に跳ねたオルディの肩。
彼が慌てる傍ら、イルシーは何食わぬ顔でコージャイサンの背後へと戻るではないか。その際にコージャイサンとヴィーシャからは白い目を向けられたが、彼はご機嫌にニッと歯を見せる。
「フェリ……いや、これは別にやましい事じゃないから、な?」
「それなら堂々と頼みなさいな! しかも、一人で写真を見て楽しむなんてずるいわ! 私も一緒に見せてちょうだい!」
「あ、そっち?」
ずるいと言うかその理由は可愛らしい。咎められずにホッと息を吐くオルディ。
一方のイルシーは増えたお金のにおいにさらにご機嫌だ。
「ほい、夫人もどうぞ。この前の訓練公開日のやつでさぁ、伯爵には気に入ったもんがあったら一枚十ゴアで売るって話してたとこなんだよなぁ」
乱雑にテーブルに置かれた写真は中々の量。これは見応えがありそうだと、二人はワクワクとした顔で再び椅子に腰掛けた。
「カジオン、すぐにお金を用意してちょうだい! 千……じゃダメね! 一万ゴアあれば足りるかしら⁉︎」
「奥様、落ち着いてください。まずはご覧になって精査するべきかと」
「それもそうね!」
淡々と告げるカジオンにフェリシダはあっさりと引き下がるとその関心は写真へと向かう。
一体いくらになることやら、とため息をつく執事は同情の視線を向けるヴィーシャにこっそりと肩をすくめてみせた。
夫妻が写真に注目する中、スッとイルシーが一枚の写真を指差した。それは氷柱に囲まれたコージャイサンの写真だ。
「ちなみに今話題になってる宣言が飛び出したのはこの時だぜぇ」
「まぁ、そうなの⁉︎ 凛々しくてとても素敵よ!」
「ありがとうございます」
フェリシダの褒め言葉をコージャイサンは謙遜もせずにそのまま受け取った。
実際に凛々しく写っているその姿に従者たちですら当然だと我が事のように肯定している。
ふとフェリシダの一枚の写真を手に取った。
それはイザンバが手にタオルを持ってコージャイサンの髪の毛を拭こうとしているところだ。
「あの子も……こんな顔をするようになったのね」
コージャイサンに対して柔らかく、それでいて慈しむような笑みを向けるイザンバの姿に、しみじみとフェリシダの口からこぼれた言葉は娘の成長を感じたもの。そこからは殊更ゆっくりと見ていく。
「ザナが……推し以外にこんな……普通の、娘のように……笑って……くぅぅっ!」
「もう、旦那様ってば……」
何やら感極まっているオルディはだばだばと涙を流しながらも写真を見続ける。
写っている姿全てが娘としてではなく、一人の女性としての立ち振る舞いで。
いつの間にかこんなに素敵なレディになったんだなと、親心を刺激されたのだ。
しょうがない人、とフェリシダは夫を見つめるとパッと表情を明るく変えて手を叩いた。
「あら、いけない。どうにもこちらに集中してしまうわね。ヴィーちゃん。彼をザナの部屋までご案内してさしあげて」
これにはヴィーシャも虚をつかれた。婚約者とは言え未婚の娘の部屋に異性を連れて行ってもいいのか、と。
「よろしいのですか?」
「ええ。親よりも好いた人に言われた方が素直に出てくるんじゃないかしら? 私たちはまだしばらく写真を見ているわ」
「かしこまりました。ご主人様、ご案内いたします」
ヴィーシャの声にコージャイサンが立ち上がる。扉をくぐろうとしたところで声を掛けられた。
「コージャイサン・オンヘイ公爵子息様」
改まった声に振り返ると夫妻が揃って立ち上がりコージャイサンを見ていた。
涙を拭い、表情を引き締めたオルディは折り目正しく礼を、フェリシダは一つ一つの動作に心のこもった淑女の礼を。
それは二人からコージャイサンへ最大限の敬意を表したもので、使用人たちもそれに倣った。
「どうぞ私たちの娘をよろしくお願いいたします」
託す側の親心を理解するにはコージャイサンは若く、察しきれないところもあるだろう。それでも……。
「心得ました」
敬意には敬意を。コージャイサンも真摯に礼を返す。
託されたからには自身の持てる全てを使って彼女を守ろう、と決意を新たに。
お互いが顔を上げたところでフェリシダがいい笑顔になった。
「ついでにさっくりがっつり既成事実を作ってきてもよろしくてよ! その方が安心でしょ?」
「どこに安心要素があるって言うんだ⁉︎ それはダメだろう⁉︎」
真面目な空気が保たないのもクタオ家の血ゆえか。伯爵夫妻以外の面々がすんとなったのも仕方がない。
サムズアップすらも煌めかせるフェリシダの爆弾発言にオルディが必死に待ったをかける。さて、何人が彼に同意したのだろうか。
けれども肝心の妻はさらりとそれを流してしまう。
「大丈夫よー。結婚式まで三ヶ月だもの。今妊娠してもお腹は目立たないわ」
「そう言う問題じゃないからな! もし悪阻が酷かったらどうするんだ⁉︎ 式を台無しにしたらオンヘイ家に申し訳が立たないだろう!」
「それもそうね! じゃあ、避妊はしっかりすると言う事でよろしいわね?」
「よろしくない! よろしくないからな! 分かっているな、コージー!」
妻では話にならない、とオルディは直接コージャイサンへ釘を刺す。目がマジである。
コージャイサンとしては「はい」とも「いいえ」とも言いにくいこの話題。しかも相手はイザンバの親なのだから尚更だ。
「…………善処します」
それ以外なんと言えようか。去り際に爆破魔法を放つのはやめていただきたい、と彼は切に願う。
「いや、善処じゃなくてせめて今は、今はやめてくれ! イルシー君、ヴィーシャ君、彼をしっかり見張っておくれよ!」
それでもオルディは必死の形相で食い下がった。従者たちに見張りを頼んだが、彼の頭からはある重要な事実が抜け落ちている。
「見張るのはいいけどさぁ」
頭の後ろで腕を組むイルシーも。
「うちらの主はご主人様ですから」
困ったように眉を下げるヴィーシャも。
すっかりクタオ家に馴染んでいる二人に返された言葉は「もしそうなっても止めない」と言うオルディの意に反する意味合い。
それもそうだろう。彼らは主至上主義だ。
頼みの綱からの返答はオルディを撃沈させるには十分な威力であった。
「あぁぁ、そうだったー!」
「おーっほっほっほっほ! 若いっていいわね〜! さ、旦那様。写真の精査を続けましょう」
響く高笑いと懇願のハーモニー。
どーすんのこの空気、と立ちすくむ若者たちであったが、ベテラン執事に背を押されその場を後にした。