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夜風の通り道を二つの影が走り抜ける。周囲を警戒しながらも静かに舞い降りた場所は見通しの悪い終着点。
二人の息に乱れた様子はなく、既に待っていたファウストと難なく合流した。
さて、姿形はダン・アードックのまま早速ネクタイを緩めるイルシーを横目にリアンはファウストに向かって愚痴をこぼす。
「ねぇ聞いてよ! もう最悪なんだけど!」
「戻って早々に……イルシー、何をしたんだ?」
「おい、なんで俺のせいになんだよ」
心外だ、と眉を顰めるイルシーにファウストは首を傾げる。
「またイルシーがリアンをからかったのかと思ったのだが……違うのか。リアン、なにか任務に支障があったのか?」
改めてファウストに問われてリアンは頬を膨らませた。
「あの部屋マジでタバコ臭いの! ちょっと離れてる間に部屋が煙で真っ白とかあり得ないんだけど! よくあんな所に平然といられるよねー。信じらんない……あ、僕にもにおい移っちゃってる!」
けれども飛び出したのはごくごく個人的な不満。
駄々をこねるようなリアンに、なんだそんなことかと大人二人が肩をすくめるのは仕方がない。
「それは消臭剤を使えばなんとでもなる。と言うか、血臭や腐敗臭が充満していてもそんなこと言わないだろう」
「それは慣れたら平気だし」
「同じ事ではないのか……基準が分からん」
けろりと返すリアンにさらに首を傾げる事になったファウストの隣で、イルシーがジャケットを脱ぎながら呆れ混じりの言葉を吐き出した。
「つか、最初と最後しか居なかったくせに文句たれんなよなぁ」
「邸内探ってくるのが僕の任務だったの!」
「あー、うるせー」
バサリ、とイルシーはジャケットを投げつける事でリアンの反論を封じた。
それは潜入中に着ていたジャケットで当然のようにタバコのにおいを纏っている。
「うわ、くさっ! 何する……ってあれ? このにおい……」
嫌悪感から一転。染み付いたにおいに混ざる不審点にリアンは顔を上げた。
「……麻薬?」
そう、それはタバコを咥えた瞬間にイルシーが感じ取った違和感の正体。
二人から確認するような視線を向けられるが、当の本人はニィっと口角を上げるとリアンの頭に手を伸ばすではないか。
ワシャワシャと髪をかき混ぜるような手つきは乱暴で、それでいて口調はいつも通り上から目線で。
「遅ぇが気付いたことは褒めてやるよ」
「ちょ、やめてよ! ウザいってば!」
「ハハッ! んだよ、思春期。照れてんのかぁ?」
「照れてない! マジでウザいんだけど! やめてって言ってんじゃん! 殺すよ⁉︎」
「いいぜぇ。今は気分がいいからノってやるよ、クソガキ」
二人から発せられるピリピリとした一触即発の空気。
またか、と頭を押さえたファウストは、けれども放置する訳にもいかず仲裁に入る。
「二人ともそこまでだ。イルシーはリアンで遊ぶな。リアンは本気になりすぎだ」
「僕なんも悪くないし!」
「喧嘩するくらいなら寄ってくれるな」
「イルシーが、勝手に、寄って来たんだよ!」
反論するリアンだが地団駄でも踏みそうな勢いだ。
イルシーへの腹立たしさ、そしてタバコに潜ませてあったとは言えその存在に気付かなかった悔しさ、絡まる心中とは別にポロリと溢す。
「……だからあそこに隠すように置いてあったんだ」
リアンの意識が自身のポケット、ハンカチに包まれた数本のタバコに向く。ギュッと握りしめた拳の中で彼はナニを握りつぶしたのだろうか。
リアンが大人しくなった事を確認するとファウストは視線をもう一人へと向けた。
様子をつぶさに観察する視線は鋭いが、受けるイルシーは飄々としたものだ。
とは言え、現在進行形で変装しているのだから顔色うんぬんを正しく見抜くのは難しい。
「さっき麻薬と言っていたが…… 体に異変は?」
「これくらいどうって事ねーよ。ま、リアンの方はどうかしらねーけどなぁ」
暗殺者である彼らはあらゆる毒や麻薬への耐性をつけている。
イルシーが直接吸い込んでいるにも関わらず「ちょっといい気分」で済んでいるのはその為だ。
さして変わらないイルシーの様子を認めると、今度はリアンへと視線を向ける。
「リアンはどうだ?」
「最低最悪!」
「それは『機嫌が』だな」
こちらも異常なしと判断したファウストだがポケットから取り出した二本の瓶。ヴィーシャ特製の中和剤をそれぞれへと投げ渡した。
「いくら耐性があるとはいえ、主のところにいく前に飲んでおけ。リアンも念のためだ。ちゃんと飲めるな? 溢すなよ」
「お前はおかんか」
「それと消臭剤だ。確かに二人ともタバコ臭い。主をご不快にさせるわけにはいかんからな」
「あっそ。別にあの方はこんくらい気にしないっての。なぁ?」
そう言ってイルシーはリアンに凭れかかる。ずっしりと頭を上から押さえつけられる感覚にリアンがまた苛立った。
「頭に肘を置くな! 主が気にしないからいいじゃないし! 主の為に気にするんだよ!」
「お、一丁前に言うじゃねーか」
「うるさい! いいから早く飲め、ばか!」
「へいへい」
主の為と言われれば仕方ない。イルシーもぐいっと中和剤を飲み干した。
先に飲み終わっているリアンはいそいそとタバコの臭いを消し始めた。対してイルシーはコキリ、と首を鳴らすだけので動こうとしないではないか。
「ねぇ、まさかその臭い服のまま主の所に行くつもりじゃないよね⁉︎」
「ハッ……服が、何だってぇ?」
リアンの言葉を鼻で笑い飛ばしたイルシーを風が包み込む。
その勢いが霧散したあとにはいつものフードスタイルに戻っており、染み付いたタバコのにおいすらも無くなった。
「こんくらい出来て当たり前だろぉ。あ、お前はまだ出来ないんだっけ? タバコも吸えねぇカワイイお子ちゃまだもんなぁ。悪い悪い」
鮮やかなまでの変わり身に「お見事!」と感心する前にぽんぽんと飛び出した煽り言葉。それはもう分かりやすくリアンの沸点を刺激した。
「はぁぁあ⁉︎」
「落ち着け、リアン。イルシーも煽るな」
「ハハッ、ほんとガキだよなぁ。扱いやすすぎて……ククッ、笑える」
鋼線を出し、縛り上げてやろうという勢いのリアンをファウストが羽交締めにし止めていると言うのに、まだ煽るかこの男は。
ぶちぶちとリアンの堪忍袋の緒が切れていく様にファウストは溜め息をこぼす。
「ファウスト離して! アイツ、マジで殺してやる!」
「離して欲しくばまずは鋼線をしまえ」
「なんで! ヤだよ!」
どれだけ足掻こうにもファウストの怪力を振り解く事は出来ず、体格差も相まってついにリアンは宙ぶらりんになっている。
その姿にイルシーが吹き出した。
「ハハハハハッ! 随分間抜けな格好だなぁ、リアン。今ならその腹、簡単に掻っ捌けるぜぇ」
「やれるもんならやってみろ! 先に僕がお前を絞め殺してやる!」
飛び交う売り言葉に買い言葉。ついにファウストまで声を荒げた。
「二人ともやめんか! 武器を出すな! しまえ!」
器用に指先だけで鋼線を操るリアンとナイフで応戦するイルシー。ファウストがいなければとうに殺し合いが始まっていそうだ。
まぁ現状はリアンがキレているだけでイルシーには殺し合う気は露ほどもない。ただひたすらに揶揄っているだけである。
——主よ、イルシーとリアンは一緒にしてはいけません。
なんてファウストの嘆願は果たしてコージャイサンに届くのだろうか。言い聞かせようした彼の努力は報われてほしいものだ。
クルクルとナイフを遊ばせながらイルシーがまた口を開く。
「つか、お前は感情を顔に出し過ぎだぜぇ。潜入中もタバコ臭いっつってしかめっ面したろ。その辺もう一回訓練させるべきだって言わねぇとなぁ」
「……頼むからお前は一度口を閉じてくれ」
「あぁ? 全部本当のことだろーが」
言い方は難だがイルシーの言い分はもっともで。ファウストにも思うところはあるが口に出せばまた場が荒れる。それが分かるからこそ彼は口を閉ざしたのだが。
流石にリアンも言われている意味は理解した。従者五人の中で一番未熟なのは間違いなくリアンだ。
だがなにせ指摘したのがイルシーなのだから彼も素直に「はい」なぞ言いたくない。
「ねーぇ! なんなのアイツ! ムカつくとかウザいとかですまないんだけど!」
「そうだな。その気持ちはよく分かる。今度雑魚どもを存分に甚振って発散するといい」
「絶対だよ! 僕が全部狩るからね!」
ファウストの返しにも心底の同意が混ざる。
宥める事に疲れ始めた彼は八つ当たり先まで提供した。どうせ敵は全て狩るのだからそこで発散すらばいい、と。
未熟とは言えそれは彼らの中だけの話。幼い頃から培われた暗殺術を以てすればリアンとて遅れは取らない。
なんとか落ち着いたとファウストが安堵したのも束の間……。
「おい、いつまで遊んでんだ。さっさと行くぞぉ」
「お前が言うな!」
イルシーの言葉にリアンがキャンキャンと噛み付いた。
どうしてコイツは台無しにしてくれるのか、とファウストは頭が痛み出した。年長者の苦労は絶えない。
「次の動きもあるんだ。早く報告しねーとなぁ」
シガレットケースを手にイルシーが嗤う。主に一連の報告をする為に彼が歩を進めると、二人は文句を飲み込んであとに続いた。