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目の前で繰り広げられる二人のやり取り。
——その仕草から
——その表情から
声が一切聞こえなくても、くどいほどに伝わる二人の仲。
コージャイサンが口づけをしようとした時、沸き立った興奮と冷やかしは相当なものだった。「見せつけてくれるねぇ」「彼女だけでいいと言うのは本当だな」なんて声がそこかしこから聞こえ、訓練を見ていなかった人にもその実情を指し伝える。
聞きたくない——そう望む者にも無遠慮に。
ニヤニヤと見ている人が多い中、俯くサナをロクシーが促した。
「サナ、行こう?」
「…………うん」
彼女たちが進むたび、ぽとりぽとりと雫が跡を残す。
人波に紛れたそれは下を見なければ気付かない。けれども、確かに存在する想いの痕跡。
立ち去る一行を紅茶色の瞳がじっと見送ると、もう一箇所へ意識を向ける。集中して探るとそこから走り去るあの忌々しい気配。
——憂いは減った。
狙い通りだとほくそ笑むジオーネだが、どうにも腑に落ちない部分もある。
——お嬢様と会う前からご主人様への視線が明らかに少ない。一体なぜ?
二人が邂逅を果たした時、コージャイサンが女性に囲まれている様子がなかった。
それどころか二人が揃っても、遠巻きにしているだけで近づこうともしない。
お二人の仲にひれ伏せ! と思っていたジオーネだが、あまりにも手応えがないと感じている。
そもそも彼女は何を憂慮したのか。
彼女たちが取り除きたかったのはコージャイサンが鬱陶しいと言う羽虫。その中でも貴族ではない者たち。
防衛局内で働く者は貴族ばかりではない。試験や面談、身辺調査をクリアした者は平民であろうとも働くことができるのだ。
これは国として雇用の創出、また才能の発掘を促すためである。
才あるものは防衛局内の相応しい場所へ。
動くことが苦手であったり突出した才がなくとも、意欲がある者は裏方に。
そんな風に人が入り混じる中、防衛局で出会った貴族と平民が結婚した、と言うパターンが全くないわけではない。
ただし、その場合は家を継がない者であったり、最初から婚約者がいなかったり、貴族とは名ばかりで生活がさして平民と変わらなかったりと理由がある。
さて、ジオーネたちの憂慮はそれらを交えてここに起因する。
『公爵子息は国のためならば婚約者を囮にすることも厭わない魔王である』
この評判は婚約者を囮に使えるほど大事にしていない、と捉えられかねない。
貴族ならば社交界で二人の仲を目にすることできる。例え囮と言われようとも、コージャイサンの態度に、イザンバの表情に、なるほど愛情あってこその献身かと伝わるもの。
だが、身分差ゆえの隔たりが存在する。
貴族の話を鵜呑みにする誰かがいるように、それを話半分で聞いている者もいる。
これをヴィーシャと共に案じ、訓練公開日に差し入れを持って行くことを提案したのだ。
ヴィーシャの口振りからも、今のコージャイサンなら人前だろうがイザンバに対して頗る甘くなる、と彼女たちは予測した。
それは仕事中に見せる顔とはあまりにも違いすぎる為、否が応でも気付かされてしまうだろう。
『婚約者が一方的にコージャイサンを慕っているわけではない。二人は相思相愛なのだ』と。
だからこそ、イザンバ本人が行かなければならなかった。イルシー相手では、コージャイサンはここまで甘くはならないから。
仕事の邪魔をしたくないと言うイザンバの謙虚な姿勢はもちろんいい。
だが、それは側に仕える彼女たちだからこそ知れるイザンバの思いやり。同時にイザンバを知らない他者からは見えにくい。
その見えにくさが同じ場所で働いているだけの者を勘違いさせ、増長させる。あの受付嬢のように。
二人の仲を見せつけることで強制的に恋慕に区切りをつけさせよう。それを狙い、動いたわけだ。
しかし、思い描いた反応が少ない。物足りなさを感じながらもジオーネは視線を二人へと戻した。
他者に対してよりも表情を和らげるコージャイサン。
頬を染めながらもくるくると表情を変えるイザンバ。
変化した関係性でも、いつも通りの気安いテンポが交わされているだろう様子にジオーネは安堵する。
そこへ一人の貴族男性が近づいてきた。茶髪で細身のどこにでもいるような男性はジオーネの隣に立つと、帽子を浮かせにこやかに声をかけてきた。
「失礼。少しよろしいですか?」
警戒しながらジオーネがそちらを見ると、彼は右目だけを二拍一拍二拍で閉じる。それは同郷のものが知る合図。
——イルシーか。
警戒心を引き下げると、ジオーネはお澄ましメイドモードで対応し始めた。周りの者が聞き耳を立てている、そんな状況で。
「なにか御用ですか?」
「お嬢さんはイザンバ・クタオ伯爵令嬢のお付きの方で?」
「そうです」
「成る程。彼が宣言した通りだったんですね。このように美しい方が側仕えであったとしても彼の関心はイザンバ嬢のみに向いている」
白々しい、とジオーネが思ってしまうのは正体を知っているからだろう。鼻で笑ってやりたいところだが、今の彼女は出来るメイド。表情は微笑むに止めた。
それに気になる言葉もあった。
「宣言とはなんでしょうか?」
「おや。ご存じないですか? 演習場を覆う氷の冷たさとは反対のとても熱い告白でした。イザンバ嬢しか欲しくない、とあそこまで言い切れる人も珍しい。幾人もの令嬢が涙を流していましたよ」
女性たちが遠巻きな理由はそれか、とジオーネは納得した。
イルシーも口調は丁寧だが目から伝わるのは「おもしれー見せ物だったぜぇ」と言わんばかりの感情。それは痛快だ、とジオーネの口角も上がる。
「それにどうやら以前舞踏会でお見かけした時よりも仲が深まっていらっしゃるようだ」
「ええ、お察しの通りです」
「やはりそうですか。しかし、開けた場所でこうも見せつけられるとは……蚊帳の外の独り身には思わぬ流れ弾、涙した令嬢たちにはこの上なくきつい毒だ。そう思いませんか?」
それは誰への問いかけか。「ほんとそれ」と聞き耳を立てていた数人が頷いている。
イルシーの本心としては「やるなら二人きりの時にやれ」だろうか。邸から同行したジオーネと違い、コージャイサンの周辺を警戒、情報収集をしていたイルシーは砂糖を口に突っ込まれる準備をしていなかったのだろう。
今度こそ、ジオーネは鼻で笑った。
「いらぬ手を出さなければ弾にも毒にもなりませんでしょう」
「これは手厳しい。……おや」
イルシーの言葉に釣られたように視線を動かすと、いつのまにかイザンバが自分たちの方へ注目していた。
彼女はコージャイサンに何かを言うと、主人がしたのは指を鳴らす仕草。それにより防音魔法を解かれた事がジオーネにも分かった。
立ち上がるイザンバに張り付いた淑女の仮面。彼女はジオーネの前に立つと微笑んだ。
対してイルシーは帽子をとり、素知らぬ顔で丁寧に挨拶をした。
「これはこれはイザンバ嬢、ご機嫌麗しゅうございます」
「ご機嫌よう。うちのメイドに何か御用でしょうか?」
「お二人があまりにも仲睦まじいので少しお話を」
本当か、とイザンバの瞳に厳しさが宿る。それは家のものを守る女主人の顔だ。
イザンバは男性がイルシーだと気付いていない。だからこそ、ジオーネが見知らぬ貴族男性に絡まれているのではないかと心配し動いたのだ。
そんな彼女に頼もしさを感じつつもコージャイサンがそっと耳打ちをする。
「安心しろ。イルシーだ」
その言葉にイザンバはハッと息を飲んだ。内心は大絶叫だが、おくびにも出さない仮面には恐れ入る。
淑女らしく、それでいて素早く。コージャイサンの方へと視線を向けて真偽を問うと彼が返すは肯定の眼差し。イザンバが肩の力を抜くと、そのまま穏やかな空気が流れ出した。
——警戒心緩めんの早すぎんだろぉ。
やれやれと肩をすくめたのはイザンバに対してか二人の空気に対してか。
「どうやらお邪魔をしてしまいましたね。長居できる空気ではないようですし今日のところはこれで。オンヘイ卿、イザンバ嬢、失礼します」
あっさりと、けれども貴族らしい立ち振る舞いでイルシーは立ち去った。
あまりにも完璧なそれにイザンバは感心しながらも、口に手を当てると小声で漏らす。
「ビックリした……まさか、こんな風に会うなんて。ジオーネも気付いてたんですね」
「はい。ですがそんな事よりも、お嬢様」
「なんですか?」
お嬢様、と妙に力を入れてジオーネが改まる。なんだろうと首を傾げたイザンバに、彼女は至極真面目にこう言った。
「婚約者様といらっしゃる時のお姿は聞いていた通りの、いえ、それ以上の可愛らしさでした。婚約者様の宣言によりこれからますますその愛らしさが増すと思えば、今からでも宴会用の酒を買いに行きたい次第です」
「…………それはいらないです」
居た堪れない、そんな気持ちでイザンバは顔を覆った。果たして彼女はジオーネの言葉の意味を正しく理解したのだろうか。
そんな彼女越しにコージャイサンと目が合うと、彼はジオーネに向けて静かに口元に弧を描いた。
——この方は命運さえも引き寄せる。
彼の宣言と彼女の訪問。それはまるでパズルのピースが綺麗にハマるように、あるべきモノがあるべき場所に収まるように、表された二人の在り方。なんとタイミングのいい事だろうか。
——全ては我が主の意のままに。
ジオーネの目礼に対してコージャイサンは鷹揚に頷くと、彼は視線をイザンバへと向けてその愛称を呼ぶ。
「ザナ」
「はい?」
「売店には行ったか? 忠臣の騎士の限定盤ぬいが売られていたはずなんだが」
「み——……っ!」
イザンバから変な声が出た。ジオーネが不思議そうに首を傾げるが、それもそうだろう。
コージャイサンと話しているとどうにも仮面が外れやすい。いつものテンションで返しそうになったが、それでもイザンバは防音魔法が解かれている事を思い出し踏ん張った。
飛び出しそうな言葉を必死で連れ戻し、飲み込み、押し込めて、何事もないように。
「是非見てみたいです」
上品に微笑む。外れてなるものか、と踏ん張った仮面もよくやった。
因みに言い掛けた言葉はこうだ。
『見に行きましょう! 今すぐに!』
気持ちだけはすでに売店に向かっているであろう彼女にコージャイサンは軽く吹き出した。
肩を揺らす彼にイザンバから突き刺さる視線。それは笑っている事を責めているのではなく、早く行こうとねだるもの。
「悪い悪い。それじゃあ……イザンバ・クタオ伯爵令嬢、お手をどうぞ」
そう言って手のひらを上に向けて差し出した。エスコートをしようと言うのだが、例え着ているものがツナギであっても様になるのがこの男。
「はい」
改まったその姿にイザンバはクスリと笑うと、にこやかに、躊躇う事なく、その手を重ねた。
ふわり、ほろり、と花は咲く。
はらり、ひらり、と花は散る。
人前で盛大に
人知れずひっそりと
咲いた花に罪はなく、散る花に否はない。
愛でられる花はただ一輪。
さぁ、他の花を枯らす噂を蒔こう。
曰く『公爵令息と伯爵令嬢は防衛局の上層部にも認知される仲である』
曰く『どちらに粉をかけても公爵令息に氷漬けにされる』
曰く『二人は相思相愛で付け入る隙がない』
甘すぎる水は淡い期待も過ぎた夢も全てを枯らす。
美しく花開いた一輪の影でどれだけの花が色を失ったのか。
——その誉れを知るからこそ
——その苦味を知るからこそ
選んだ人に恥じないよう、一輪は強くしなやかに咲き誇るだろう。
とはいえ、一輪が宣言の内容を知り、姿を見せまいと扉を固く閉ざしたのは——また別の話。
これにて『手折られた花のその名前』は了と相成ります!
読んでいただきありがとうございました!
活動報告にクロウとマゼラン、チックとジュロとフーパ、サナとロクシーとココの会話劇アップ予定です。