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演習場の外の手洗い場でバシャバシャと水が跳ねる。落ちる水を受け止めるのは艶やかな黒。
今、コージャイサンはツナギが濡れないように袖を腰で巻き、インナー姿で前屈みになって髪についた砂埃を水で落としているところだ。
予想外の展開だったとは言え、あれだけの立ち回り。涼しげな顔をしているが彼もそれなりに熱が入った。
水滴は黒髪を滑り落ちながらも一層艶やかに見せるように溶け込み、鼻筋、顎を通ったその一粒すらも輝いているようだ。
普段なら真っ先に貴族女性に群がられているところだが、先ほどの出来事ですっかり遠巻きになっている。
一部の女性は白い顔で下を向いていて、それはまるで最後の審判を下された囚人のような、死神にその魂を刈り取られたかのような、声を掛けにくい雰囲気で。
頑なにコージャイサンからその視線を逸らして去る姿に、訓練が始まる前に持ち合わせた恋慕の熱が見えない。
それでも送られる視線は彼を目の保養と割り切っている人の視線だろう。
欲のない視線にコージャイサンは快も不快も感じていないようだ。
そこへパタパタと駆けてくる複数の足音。演習場前に現れたのはタイプが違う三人の女性たち。
「あ、コージャイサン様」
と、見惚れたように茶髪で妹系のサナが呟けば。
「手洗い場に居るってことは訓練終わっちゃったのかー!」
と、オレンジ髪が目印の元気っ子系ココが大袈裟なリアクションをし。
「食堂解放の当番だったとは言え、見たかったね」
と、青のロングヘアが靡くお姉さん系のロクシーが答えた。
彼女たちは防衛局内の食堂に勤める三人組の看板娘だ。
賑やかになった外野を気にもせず、コージャイサンが水を止めた。
起こされて露わになったその体。肌に沿った黒の半袖インナーが象る肉体美は芸術品と言いたくなる細マッチョ。
程よく筋肉のついた腕、艶やかな黒髪から垂れる雫を長くしなやかな指がかきあげて払う姿に、見つめていた女性たちが総じて鼻を押さえた。
「ヤバっ! なにあれヤバっ!」
「けしからん……あの張り付くインナーになりたい」
それは興奮の声。ココとロクシーが呟きながらもしっかりと目を開き網膜に焼き付けている間、今がチャンス! とコージャイサンの側に一人が走り寄った。
「コージャイサン様! お疲れ様です。よろしければタオル、使ってください」
サナだ。頬を染めながらパステルグリーンのタオルを差し出すその眼差しに浮かぶ期待と不安。差し出した手が少し震えているのも彼女の勇気を表してまた愛らしい。
だが、コージャイサンはチラリと視線を動かすだけで、彼女に向かって手を伸ばすことはしなかった。
「お気遣い感謝します。ですが、自分のものがあるので結構です」
「……そうですか」
あっさりと断られた事にサナはしょんぼりと視線を下げた。本当にダメなのか、と縋る思いを込めて見つめてみたが、彼とはついぞ視線が合わなかった。
そんな彼女に気付いているだろうに、コージャイサンは何を言うでもなく自分のタオルで顔を拭くと、傍に立てかけていた木剣を持ちそのまま立ち去ろうとするではないか。
焦りに駆られたサナが意を決して呼び止めようと声を上げた。
「あの!」
「コージャイサン、ちょっといいか?」
だが、どうにも間が悪い。割って入ってきたのはコージャイサンの先輩であるクロウ・エンドロスト。先程チックたちの前に軽い打ち合いをしていたのはこの人だ。
意気込みが抜けて残念そうにするサナに彼は空色の瞳を向けると、薄茶色の髪をガシガシと掻きながら割り込んだことを謝罪を口にする。
「悪いね、サナちゃん」
「……いえ、クロウ様もお疲れ様です」
先に言われてしまえば否は言えない。そんな思いを抱えながらもサナはクロウに愛想笑いを浮かべて会釈をした。
良くも悪くもわかりやすい。そんな彼女の表情にクロウが柔らかく目を細めた。それは妹を可愛がる兄のような心持ちで。
その顔にサナも面倒な子だと思われていないことを察しホッとしたが、コージャイサンの視線はすでにクロウの方へと向いている。
「なんですか?」
「首席からの急用。ちょっと来てくれ。サナちゃん、またね」
クロウが親指で別の場所を指しながら言うほどの内密な話でもあるのだろうか。続け様にサナに別れを告げるクロウに眉を下げた。
「はい。コージャイサン様も、また……」
「お疲れ様です、サナ嬢」
「っ……はいっ!」
思わず——大きな声が出てしまったサナだが、コージャイサンはそれ以上何も言わない。そのまま連れ立って去る背中、それを見つめるサナの元へロクシーとココが駆け寄ってきた。
サナの手に残されたタオルを見てロクシーの肩が落ちた。
「やっぱ受け取ってくれないか。相変わらず鉄壁だね」
「お嬢様たちの差し入れもいっつも断ってるもんね! 高そうなお菓子とかドリンクなのに勿体なーい! あたしが欲しいわ!」
美味しいと評判の店でも貴族価格では平民の彼女たちには中々手が出せない。だが、どんなに良いものを差し入れに持ってきていても彼は受け取らないのだから、ココはもったいないと素直な食欲と物欲を叫ぶ。
食べたい気持ちはわかる、と思いながらもそんな彼女を構わずにロクシーはサナの方へ話しかける。
「でも、まだチャンスあるよ! さっき名前呼んでもらえたじゃん!」
「そうそう! マジでレアだよ! サナ、頑張れ!」
ココもそれに倣い、笑顔とエールを送った。
「……うん」
二人の声援を受けたサナは顔をほころばせながら頷いた。
訓練を見ていない彼女たちは気付いていない。遠巻きにいた人たちからの向けられる同情的な視線に。
さて、彼女たちから離れたところでコージャイサンがクロウに用向きを訊ねた。
「首席からの用は何ですか?」
「いや、用はないよ。それにしても……今日は思い切ったな」
ニッと笑いながらも用はないと言うクロウにどうやらあの三人から引き離してくれたのだとコージャイサンは察した。
礼を言おうかと思ったが、ニヤニヤとした笑みを向けられ気持ちが萎える。代わりにため息をついて、答えるのは思い切りの理由。
「ちょうどいい機会だと判断しただけです。どうせ話すなら全員が理解できるように言った方が一度で済みます。遠征地に押しかけてきたり、休日を邪魔されたりと嫌気がさしていましたから」
冷めた物言いに現れるコージャイサンの静かな怒り。次々と湧いて出てくる羽虫を一網打尽にするにはもう一押ししたいところだが、貴族は噂好きだ。アレだけでも社交界では十分話題になることだろう。
コージャイサンの言い分にクロウはカラカラとした声を出した。
「ハハッ、違いない! さすがにアレの後じゃ差し入れの列も出来てないしな」
「いちいち断るのも煩わしいので楽でいいです」
「知ってはいたけど、お前どんだけ冷たいんだよ。好意がなきゃ差し入れなんてしないだろ」
差し入れを煩わしいと言い切る彼に女性たちへの同情を滲ませるクロウだが、その言い方はジュロと同じだ。
けれども、誰に言われようがコージャイサンは興味を示さない。それどころか彼から吐き出されたのはなんの熱もない言葉。
「そんな事言うなら先輩が受け取ったらいいじゃないですか。俺はいりません」
「いや、いい。それは遠慮しとく」
素早い切り返しでクロウが断りを入れた。あれだけ言っておいて自分も遠慮するとはどう言うことか。
「前に代わりに貰った差し入れにえげつないの入ってたし……アレはもう嫌だ」
クロウは空色の瞳を遠くに向けると、いつぞやの出来事を思い返す。
そう、実はクロウは代わりに受け取った事があるのだ。
せっかくの差し入れを一瞥もせずに断るコージャイサンに、女性たちもやり方を変えてきた。「コージャイサン様に渡していただけますか?」「良かったら皆様でどうぞ」といって魔導研究部員に渡すようになった。
若く可愛い女の子からの差し入れ。当然彼らは受け取った。
そして、研究棟の談話室に積まれることになったのだが、それでもコージャイサンは「いらない」と言う。
ならば、と受け取った彼らは『もったいない』の精神で一人一個ずつ持ち帰ったのだ。
クロウが引いた当たり、その一度目は平民の子が持ってきたとても美味しそうな手作りのホールケーキだった。
日々癖のある上司と同僚、さらに後輩に挟まれている彼は疲れていた。だから糖分を欲したのだ。
だが、恐怖は切り分けた瞬間に訪れた。
断面から出てきたのは髪の毛。それも一本ではない。誤って混入したとは言い難い量に、クロウはそっとケーキに蓋をしてゴミ箱に捨てた。その時に『もったいない』の精神も一緒に捨てた。
二度目はどこかの貴族のお嬢様が持ってきた高級店のお菓子。流石のクロウも前回を教訓に手作りは貰わなかった。
ところが、店のものだからと安心して食べたのが運の尽き。
体は火照り、喉は渇き、身を焦がす飢えに見舞われた。それが丸一日続き、無断欠勤を怪しんだ同僚が家を訪れたことで発覚。
あの時は同僚すらも襲いそうになったが、同僚が死に物狂いで解毒薬を調合してくれたことで事なきを得た。感謝である。
もちろん全ての差し入れがそうなわけではない。
けれど、頭では分かっていても警戒心が勝り受け取れないのだ。なにせ彼は確率的には低いはずのソレに連続で当たってしまったのだから。
そんな彼に向けられるのはなんの感情も映さない翡翠。
「じゃあ受け取れと言わないでください」
「悪かった。お前が警戒するのも当たり前だったよな。因みにいつからこんな状況なんだっけ?」
「学園に入ってすぐですね」
青い春の真っ盛り。既成事実を狙うガッツ溢れる令嬢が差し入れに一服盛ってくる……そんな日々を過ごせば差し入れへの警戒心が強まるのも無理はない。
安心して受け取れるものはなかったのだろうと思うと、コージャイサンへの同情ゲージがガンガン上がる。
ふと、クロウの脳裏に一つの考えが過った。
「まさかとは思うけど、婚約者からも受け取らないのか?」
「そもそもイザンバから貰ったことがないです」
「…………それは、なんて言うか。まぁ、頑張れ」
一瞬言葉に詰まるクロウだが彼は悪くない。まさかの答え、誰が予想できるのか。
——仲は良さそうに見えたが貴族ならそんなものなのか
——それとも彼の現状を理解していて、婚約者はあえて差し入れをしないのか
イザンバの性格をよく知らないクロウでは判断が出来ず、首を捻るが考えてもしょうがない、と頭を振った。
目的もなく歩いていたが二人の足が止まったのは修繕工房。
コージャイサンが持つ木剣はチックたちとの訓練でボロボロだ。修繕依頼として工房の人に渡し終わったところで、クロウが口を開く。
「ところでさ。お前、サナちゃんを名前で呼んでたの気づいてたか?」
「そうでしたか?」
「おう、さっきな。お前が女の子の名前を呼ぶなんて珍しいからさ。サナちゃんもビックリしてたぞ」
そう言われて、コージャイサンは口を押さえながら眉を寄せた。
「……馴染みのある呼び名に似ているから、つい口に出てしまったのかもしれません。気をつけます」
珍しくコージャイサンがやらかしたようだ。
彼にとって一番馴染みのある呼び名。親を呼ぶよりも、友を呼ぶよりも、その名を呼んできたのだろう。
苦々しい顔をする彼にクロウは労りを向ける。
「あー、まぁ気を付けろよ。お前の場合、目があっただけでも勘違いされてるワケだし。今日も災難だったな」
クロウからすればあんな風に因縁をつけられるのは災難としか言えない。
最終的にチックたちを納得させたから良かったものの、毎度ああでは身が持たないだろう。
クロウは先輩として真剣な顔でコージャイサンにアドバイスをした。
「お前があそこまで言うんだから今更オレが言わなくても分かってるだろうけど、普通の御令嬢がお前に合わせるって相当大変だと思うんだよ。あんだけ頑張ってくれてんだから、この先もちゃんと大事にしてやれよ」
外的要因からの気苦労は絶えないだろうに。
お淑やかな笑みを浮かべながらコージャイサンを支える彼女に、婚約者が優秀すぎるのも大変だなとクロウは気の毒がる。
そんな最中で飛び出した先ほどの宣言。
アレでコージャイサンが彼女を手放す気がないのは多くの人に伝わっただろうが、それはそれでまた大変そうだ。
「分かっています」
クロウの気遣いを察してか、それともイザンバの話題だったからか。
頷くコージャイサンの表情は穏やかで、それでいて芯の強い眼差しに、クロウは肩の力を抜いて応じた。
「おう」
そのまま工房の人に挨拶をして歩き始めたが、すぐにコージャイサンが足を止めた。
「どうした?」
クロウに返事もせずに彼はただ一点を見つめている。不思議に思いながらもその視線を追ってクロウは納得した。
——余計なお節介だったな。
ほころびを見せた顔が物語る。彼の関心のいく先を。
少し早足になったコージャイサンの後ろをクロウはゆっくりとついて行った。