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突き刺した木剣はそのままに、コージャイサンは動き出す。足を固定した土は氷に負け、その形を無様にも崩した。
彼が歩くたびパキリ、パキリ、と割れる氷。その音に恐怖を感じたのは誰だろうか。
ゆっくりと進められる歩みに、誰も、何も発せず、静かに沙汰を待つのみだ。
コージャイサンが閉じ込められた三人の前で足を止めた。彼らの表情はまさに鬼気迫るもので、今から渾身の一撃が振るわれようとしているのがよく分かる。
それに対して彼は勝ち誇るでもなく、見下すわけでもなく、平坦な瞳で彼らを一瞥すると、徐に掌を向けるではないか。「まさかトドメを⁉︎」と騒つく周囲をよそに、コージャイサンはスッと掌を横に凪いだ。
するとみるみるうちに三人の頭部の氷だけが溶けていく。じわじわと、ぽとぽとと。
表情の自由を得て、状況を把握した彼らの反応は様々。真っ先に驚きの声を上げたのはフーパだ。
「え⁉︎ なに、終わっちゃったの⁉︎」
「クソー! 今の絶対イケたと思ったのに!」
悔しさに顔を歪めるジュロの隣で、腹立たしさの中に清々しさを抱えるチック。
「本当なんなんだよ、お前は。あー、ムカつく!」
そうは言っても腐っても彼らは騎士。ここまで完膚なきまでに叩きのめされたのだから、言うべきことはただ一つ。
「悔しいが……彼女たちはおまえのもんだ!」
「いりません」
だが、コージャイサンはバッサリと斬り捨てた。その返答の速さにショックを受けた彼らだが、二の句が継げなかった。
彼らを包む氷は冷たい。しかし、それよりも冷えた無情な視線に射抜かれたから。
静かにコージャイサンが口を開く。
「いいですか、よく聞いてください。さもないとこのまま二度と使えないように砕きます」
「え⁉︎ 何を⁉︎」
「何って……」
問われて動くその視線。意味を察して竦み上がったのは……ああ、彼らだけではないようだ。「それはちょっと……」「ひえっ、こっちまで縮んだ」なんて言葉が聞こえるのだから、彼らがガタガタと震えているのも氷が冷たいせいだけではないだろう。
「分かった! ちゃんと聞く! ちゃんと聞くからそれだけはやめてくれ!」
叫ぶようなチックの返答、その両脇でジュロとフーパも同意を主張するためにブンブンと首を縦に振った。
返答を受け取るように、コージャイサンがゆっくりと瞬きをした。それはそれは至極落ち着いた表情で。
演習場にいる全ての人々の注目を一心に浴びて、さて、彼は何を発するのだろうか。
「俺が欲しいのはイザンバ・クタオ、ただ一人です」
冴え冴えとした演習場にコージャイサンの声が朗々と響く。
「例え先輩たちがどれだけ自分の恋人を最高だと褒め称えようとも、その方達はイザンバでないのだから論外です。ご理解いただけましたか?」
コージャイサンが人前でここまで明言した。
これには彼らだけでなく観客も、その中でも社交界での二人を知る貴族ですらも驚いた。なぜ突然このように言い切ってしまったのか、と。
二人の仲も周知されつつあるが、彼がこれほどの熱を持っているようには見えなかったから。
だが、今それを問える立ち位置にいる彼らはそれどころではない。
「は⁉︎ 巨乳美女も⁉︎」
と、チックが喚き。
「美脚美人もー⁉︎」
と、ジュロが叫び。
「合法ロリも⁉︎ 全部いらないの⁉︎」
と、フーパが声を張り上げる。自らの性癖を丸出しにしたその主張、けれどもコージャイサンの答えは変わらない。
「いりません」
きっぱりとした否定。あまりにも堂々とした物言いに彼らは呆気に取られた。
だが、何かを思い出したのかチックが徐々に顔に怒りを浮かべていく。
「そんなこと言ってるけど、舞踏会で踊ったんだろ!」
「貴族としての義務ですから一曲は付き合いますけど、それだけですよ。一夜に複数回踊るのもイザンバだけですし、もっと言えばイザンバを除いて俺から誘ったことはないです」
問われて答えるは己の義務。頼まれたら踊るが自分から誘わないのがこの男。そこになんの感情も持ち合わせていないとコージャイサンはサラリと返す。
だが、ジュロも黙っていない。
「でも応援要請の時に綺麗な女の子を助けただろ!」
「女性だから助けたわけではありません。いつ誰をなんて覚えてませんが助けた中には男性もいますし、そもそも防衛局に勤める者の仕事ですから」
捕縛の際に民間人がいたのであれば助けるのは当たり前だ、とこれまたサラリと返す。もちろん老若男女を問わず。
彼の答えはその地位、その所属なら当然のことであって。フーパは目を点にして確認するように訊ねた。
「え? まじで? 本当にそれだけ?」
「それだけです」
迷いなくコージャイサンは頷きを返す。むしろそれ以外に何があるんだ、と問う目にはまざまざと呆れが浮かんでいる。
それを察したのか、フーパが若干早口で捲し立てるように、取り繕うように主張する。
「でもさでもさ、魅力的な女性っていっぱいいるじゃん? そしたら男としてはやっぱ抗えないわけだしさ。婚約者と違った刺激が欲しくなったり、ちょっと羽伸ばして癒してもらったりするだろ?」
「いいえ。刺激も癒しもイザンバが与えてくれますし」
それは正に女性が喜ぶ回答そのもの。しかし、男性からしたら紳士ぶったいけ好かないその回答。
フーパは一瞬ポカンとすると、声を大にして問うた。
「お前……男としての欲、ちゃんと持ってる⁉︎ その気になればハーレムだって作れる癖に! 羨ましい!」
「人並みには持ってますけどハーレムはいりません。先輩はハーレム作りたいんですね。それで、今のハーレム要員は何人ですか?」
「痛ーい! 分かってて言うな! 木剣の一撃より痛いんだぞ!」
返された刃が鋭かったのだろう。コージャイサンからのグサリと刺さる物言いにフーパは涙目になりながらも一人騒ぐ。
チックはコージャイサンの言い分を聞き、呆然としたまま言葉を落とす。
「……マジかよ、どんだけいい女なんだ」
「いや、オレこの前ちらっと見たけど普通の子だったよ。お嬢様って感じではあったけど、そんなに特別感は無かったけどなー」
コージャイサンに連れられたイザンバを思い出し、素直な感想を述べるジュロに悪気はない。彼にとってイザンバは食指が動くほどではなかったということだ。
しかし、想像を裏切る言葉にチックは目を見開くと次第に肩を震わせ、そして喚いた。
「お前、そんな無難に走っていいのか⁉︎ 男なら難攻不落の女神を落としてこそだろうが!」
「そんなだからフラれるんですよ」
「ぐはっ!」
刺さったー! コージャイサンはまだ血の滲む失恋の傷を遠慮なく突き刺した。実に思い切りがよく、容赦がない。
打ちひしがれるチックにフーパが励ましの言葉を投げる。
「チック、しっかり! 傷は浅いぞ!」
「お前、情けって言葉知らねーの⁉︎」
ジュロからも非難の声が飛ぶがコージャイサンはどこ吹く風。彼らに構わず口を開いた。
「八年です」
その数字が何を意味するのか彼らには分からない。そろって首を傾げる彼らには向かってコージャイサンはこう言った。
「俺と婚約してから八年、イザンバは良くも悪くも注目されてきました。謎の自信を携えた嫌がらせも本人ですら数えるのをやめるくらいです」
「え⁉︎ 嫌がらせって実在するの⁉︎」
フーパのなんとも能天気な言葉にコージャイサンから向けられる冷淡な笑み。間近で見た彼らは一層身を縮こませた。
女の子はみんな可愛くて優しい。そんな心情の彼らには嫌がらせなど眉唾物だ。
「先輩の言う女神のような人も普通と言われるような人も嫌がらせはしますよ。他者の、特に異性の目につかないところでするんですから狡猾ですよね——反吐が出る」
コージャイサンから吐き出された言葉に滲み出る嫌悪。声にも表情にも温度はなく、いっそ酷薄とも言えるそれに人々は慄いた。貴族席の中には顔色をなくしたり、ガタガタと震えている女性がいるがどうかしたのだろうか。
しかし、それでもチックが口にしたの恋人を信じる言葉。
「そんな事……俺は信じんぞ! 女神は見た目も中身も女神なんだ!」
「そんなだからカモにされるんですよ」
「ぐえっ!」
二回目ー! 彼らの恋人とのやり取りに周囲が気付いた事実、しかしあえて口を閉ざした事実。コージャイサンはそれを無情にも突きつけた。
すっかり意気消沈するチックにフーパが必死に声をかける。
「わー! チック、気を強く待って!」
「お前、本当勘弁してやって⁉︎」
同じくカモにされたジュロからも滂沱の涙。しかしコージャイサンは特に言葉を発することもなく、冷めた目を彼らに向けている。
ジュロとてすでに身も心もズタボロだが、口でも負けてなるものか、と必死に噛み付いた。
「なんなんだよ! 女の子たちはそれだけ情熱的にお前の事が好きだって事だろ! 羨ましい!」
「醜い僻みをイザンバに向けるのが情熱的ですか。さっきも言いましたよね——反吐が出る、と。嫌がらせと言いましたけれど、実質は陰口、悪口の名誉毀損。学園時代でしたら持ち物の破損および盗難に実技を口実にした傷害。ああ、最近は誘拐に殺人未遂ですね」
「あれれー、それは犯罪っていうんだぞー」
並べ立てられたものはどれも騎士として取り締まるものばかり。可愛げのカケラもないそれは、果たして情熱を口実に許される行為なのだろうか。
コージャイサンがジュロに語りかけるように問う。
「先輩の大切な恋人がこう言ったことをされて傷付いた時、そんな事をする人を信用できますか? 許せますか?」
「無理だな!」
「ですよね。俺もです」
笑顔で即答するジュロに、彼も同意する。氷がなければハイタッチをしそうなほどに。
つまり二人の答えは『嫌がらせは許されない』行為であると言うことだ。
さらにコージャイサンの言葉は続く。
「嫌がらせから心を守るためにイザンバは分厚い鎧を纏いました。素知らぬ顔で立ち続ける代わりに身内の気遣いも、俺の言葉も、自分の心すらも遠くに置いてしまった。けれど……」
ここだけ聞けばイザンバに対してなんて健気で可哀想なんだとすら思うかもしれないが、その実三次元よりも二次元に関心を置き、「推しがてぇてぇ……」「オタ活ヤッフー!」な日々を送っていたのでそうでもない。
まぁ、これは多くの人が知る必要もない事実だから語りはしない。重要なのはそこから繋いだ今。
「築いた信頼関係を元にやっと思いが通じ合ったんです。それにイザンバほど俺を楽しませてくれる人も揺さぶる人もいない。決して無難なんて言葉で表せません」
コージャイサンの言葉にずんと空気が重くなった貴族席。次々と溢れるのは涙、ため息、焦り、そして納得。二人の間には情だけでなく確かに熱もあるのだ、と。
それらには気付かずに、フーパがしたり顔で言った。
「分かった! 真実の愛の相手ってやつだ!」
「へぇ、あの子がねー。とてもそうは見えないけど」
フーパは貴族女性たちの図太い神経さえも切り裂いたことに気付いているのだろうか。
イザンバの姿を知っているジュロは腑に落ちないように言うが、コージャイサンが気にした様子はない。
「それでいいです。ザナの魅力は俺だけが知っていればいい」
——あの才能も
——掲げてくれた覚悟も
——隠れた愛らしさも
——抱きしめた心地よさも
婚約者を思い柔らかくなる表情。一般席からはうっとりするような、夢心地のようなため息が溢れる。
なんとか気を持ち直したチックはここでやっと理解ができた。随分と時間がかかったが、彼が理解したコージャイサンの言葉を纏めるとこうだ。
「つまり、お前は婚約者一筋だから浮気相手も愛人もいらない、と言うことか」
「最初からそう言ってます」
そう、最初から。一貫して変わらずに。
一切ブレないその姿勢にチックは震えた。これを漢気と呼ばずしてなんと呼ぼうか、と。
「お前……良い男だな! 俺も惚れたぞ!」
「気持ち悪いことを言わないでください。大変不快です。撤回してください」
しかし、コージャイサンは不愉快さを隠しもせずに白い目でチックを見る。射抜く翡翠の冷たさに比例するように、心なしか氷の温度も下がったような。
けれども漢気を感じたのは彼一人だけではなかった。
「オレ、お前になら抱かれてもいいかも……」
「女の子たちが惚れちゃう気持ち、分かっちゃうよね」
空気を読まないジュロとフーパの言葉はコージャイサンの不快指数を跳ね上げた。
スッと空気が冷え込む中、彼は綺麗に微笑んだ。だからと言って人々が見惚れることはない。
なぜならその笑顔は言うなれば黒く、見る人の恐怖を駆り立てたから。
キン、と氷の冷たさが間違いなく増した。
「知ってますか? 例えば切断された腕はすぐに冷やしたなら治癒魔法でも治療できる可能性がありますが、氷漬けから粉々になったものはすぐに氷が解けてしまい治療できないんです」
冷え冷えとした彼の声に呼応して、辛うじて出ていた首から上へも冷気がその手を伸ばす。
ピキピキとせり上がる氷。焦りの声を出す三人をよそに、コージャイサンは静かに笑った。
「そんな考えが二度と起こせないように木っ端微塵にしましょう」
「……え、冗談だろ?」
ジュロの問いかけにニッコリと木剣をチラつかせながら笑うコージャイサン。
その仕草に、情けなくも彼らはイヤイヤと首を大きく振って騒ぎ始めた。
「ちょっと待って! 抱かれてもいいとか冗談だから! 全部砕かれたら流石に死ぬって! 本当ごめん!」
「大丈夫です。一瞬で済みますから安心してください」
コージャイサンの目にも言葉にも温度はなく、ただ形作られた笑顔が恐怖を煽る。
ブン、と振られた木剣すらもいつの間にか冷気を纏っているではないか。伸びた冷気がまるで鎌刃のようだ。
「安心要素がどこにあんだよ! すまん! 許せ! この通りだ!」
と。チックが大声で乞い。
「全部オレらが悪かった!」
と、ジュロが切実に詫び。
「馬鹿でごめーん!」
と、フーパが泣きながら謝った。かり立てられた恐怖が騎士の心さえも折ってしまうのか。
それでもコージャイサンの態度は変わらない。いや、微笑みのままなのが恐怖がより煽られる。
「二度とお前にそんなこと言わない! だからほんとに、頼むから……」
チックがなりふり構わずに懇願するが聞き入れられる様子もなく。
——侵食を続ける氷
——構えられる木剣
——踏み込まれた足
「う……うわぁぁぁぁ!」
叫びながら————身を襲った鈍痛。三人は壁に叩きつけられていた。
木剣を防ぐことも、受け身を取ることも出来ず、モロに一撃を喰らうことになったのは、コージャイサンが木剣を振ると同時に三人の氷を消したからだ。全く、器用な男である。
砕かれなかっただけマシと言えばそうだが、急な痛みに呼吸はついて来れず、唸りながらぐったりと体を横たえた。
そんな彼らにコージャイサンから向けられた視線は呆れと挑発。
「本当にするわけないでしょう。あなた方も防衛局の一員。当然国のためにこれからも身を粉にして働くんですよね?」
「……精進、します」
「頼りにしていますよ、先輩」
不敵に笑うその姿に「どっちが先輩か分かりゃしない」なんて声が聞こえたような。
コージャイサンは一人悠々と出口に向かう。途中、指を一つ鳴らすと残っていた氷はたちまち霧散していった。
始まりが突然ならば幕引きも突然だ。
熱量を持った戦いすらもなかったかのように去る勝者を、人々は様々な思いで見送った。