6
合唱
一人俯き耐えるイザンバをビルダは心配そうに伺った。
「イザンバ様、どうかなさいましたか?」
「んん!…………いいえ、何も」
咳払いをし、なんとかごまかそうとするイザンバに貼り付く愛想笑い。
大丈夫、悪いことが起こっているわけではない。ちょっと腹筋がきついだけ。
それが言えたらどれほど楽だろうか。
言えないその言葉を、しかし鋭い観察眼を待って大丈夫だと言うところを察したビルダは声を和らげて話しかけた。
「少しお元気になられたようですね」
「え?」
「本屋では随分と堪えていらっしゃったようですから」
イザンバは目を見張った。それはビルダが先ほどのやり取りを知っているということ。
明らかにされた事実に、もはや苦笑いを浮かべるしかない。
「まさかビルダ様に見られていたなんて……お恥ずかしい限りです」
「いいえ、イザンバ様はご立派でしたわ。それに、恥ずかしいのは場を弁えず金切声を上げ、あまつさえ手を上げた相手の御令嬢の方でしょう」
ルイーザを軽蔑するような声色なのは、ビルダがそう言った手合いが嫌いだからだろう。
軽く愛想笑いを返すにとどまったイザンバだが、無意識に掌を守るように握りしめた。
「それ程までに、辛いことを言われたのですか?」
その手を見つめるビルダの視線に気付き慌てて力を緩めると、彼女は手を擦り合わせ自嘲する。
「いいえ、そのようなことは。ただ、いつもなら聞き流しているんですけれど」
「聞き流せなくなってしまった。だから揺らいでしまっているのですね」
躊躇いもなく核心をつかれてイザンバがほとほと困った顔になる。そんな彼女にビルダは真摯に伝え始めた。
「イザンバ様、覚えていてください。お二人を見守り、応援している者がいるという事を」
まるで子を見守る母のように優しげな眼差しで。
「ナチトーノ様しかり私しかり。お二人が時間をかけて培ってきた絆や思いやりは見ているだけで伝わってきます。お二人で幸せになって欲しい、そう思っております」
まるで子を送り出す父のように力強く。
「お二人の過ごした年月は伊達ではありませんでしょう。『俺たちと違ってあの二人はお互いのことを分かっていた』と我が弟も申しておりました。あなたがコージャイサン様を尊重されているように、いつだってコージャイサン様もあなたを想って動かれています」
途方に暮れる子に手を差し伸べる友のように。
「揺らいだとしても、どうか見失いませんように。例えあなたがどのようなお人であったとしても、他の誰でもないコージャイサン様があなたを求められています。あなたが日常的に受け取っているものこそが既に特別なのですよ」
ビルダは心からの言葉を贈る。
「イザンバ様。あなただからこそコージャイサン様の婚約者、未来の妻足り得るのです」
それはイザンバにとって衝撃だった。
婚約してから向けられてきた感情の多くが『否定』だった。
妬み、嫉み、僻み、嫌味にお世辞。それらに煩わされないために彼女は全ての人への関心の度合いを低くして距離を取ってきた。
しかし今、未来への覚悟を持ったが故に囚われた。目に映る嘲りに、耳に残る愚弄に、肌を刺す悪意に。
ビルダが示したのは彼女が見落としてきた『肯定』。
——思い出せ。
『俺はザナとの婚約を解消する気はないし、愛人も探していません』
——思い出せ。
『ああ、そうかよ。それなら上等だぁ』
『行く行くは妻となるのです。堂々としていなさい』
『そんな事ないから! 貴方たちなら大丈夫だから!』
『本当に仲睦まじいですね。お二人を見ていると安心できます』
『ここにご主人様の唯一無二がいるからだ』
『それだけで十分にお守りする価値がある』
『なるほどオンヘイ卿との仲も伝わると言うものだよ』
——思い出せ。さぁ、彼は何と言った?
『社交界でも戦場でも瞬く星は確かに美しいが、俺はこの月が輝き続けているならそれでいい』
悪意ごと目を逸らしていたそれらを拾い上げ、その胸の内にゆっくりと流し込む。
冷えた体を温めるように、蝕まれた箇所を埋めるように、じんわりと染み渡る数々の思いやり。
温もりの行き渡った所から溢れた感情が頬を伝った。
けれどもビルダが慌てることはない。柔和な笑みを湛え見守る姿を聖母と言わずなんと言おうか。
はらはらと、静かに落ちる涙をジオーネがそっと拭う。その時初めてイザンバは自分が涙を流していることに気が付いた。
「え? あれ?」
自覚した途端に溢れる量は増し、ビルダの姿を見ることも難しくなった。それでも、彼女は懸命に言葉を紡ぐ。
「ありがとう……ありがとう、ございます」
ハンカチで目頭を抑えながら伝えるイザンバ。またその後ろで敬意を持ってジオーネが頭を下げた。
聖母の腕が優しく迷い子を包み込む。ああ、なんと心洗われる光景か。
そこへ古代ムスクル語の掛け合いをしていた男性二人が寄ってきた。
「ザナ? どうした?」
「レディ・イザンバ、泣いているのかい⁉︎ まさかビルダが何か失礼を⁉︎」
コージャイサンの案ずる声に、オリヴァーの慌てる声に、イザンバはかぶりを振る。
「いいえ、いいえ。むしろその逆です」
融けていく。
——モヤのように広がった不安が。
溶けていく。
——固く強張った感情が。
「頼もしくも優しい心遣いをいただいたところです」
涙を流しながらも嬉しそうに笑むその表情は晴れやかで、男性二人はホッと息をついた。
彼女に必要だったのは『認め』。それも身内ではなく第三者からの力強い一押しだ。
未だ涙を流す彼女をビルダから託されると、コージャイサンは躊躇いもなくその涙を掬う。優しい指先に、穏やかな微笑みに、イザンバは委ねるようにそっと目を閉じた。
その向かいで、オリヴァーが一人唸る。
「確かにビルダは騎士であるから頼もしい一面もあるが……」
「まぁ! オリヴァー様がそのように仰るなんて珍しい! はぁ、明日は雪かしら?」
「うるさいよ! そんなわけないだろ!」
何気ないそのやりとりを聞き、クスクスと笑い声を漏らすイザンバ。すると、今度はオリヴァーが彼女の手を取ると優しげな声を出した。
「ああ、やっぱりレディには笑顔が似合うね。どうだろう? 今あちらの迷路は冬光でとても幻想的でね。そこで冬紅を纏った美しい僕を見てご覧。苛立ちも不安も昇華されてもっといい笑顔になれるよ」
キラキラエフェクト付きスマイルが炸裂した。さてはて、見せたいのは花か自分か。
イザンバが呆気に取られている間にエスコートを始めるオリヴァーから彼女を引き離したのはコージャイサンだ。その表情が心なしかいつもよりも冷たい。
「おー、怖い。仕方ないから譲ってあげるよ。レディの一番の表情を引き出すのは君だろうからね」
「あなた、何様のつもりですか」
流石にコージャイサンもイラッとしたのだろう。いつもよりも低くなった声に驚きイザンバの涙は完全に引っ込んだ。
ピリリとした空気にすかさずビルダが口を挟む。
「コージャイサン様、お気になさらないでください。オリヴァー様はただのナルシストですわ」
「ちょっと、聞き捨てならないね! 美しい僕を美しいと言うのは自然の摂理だよ!」
「それならばわたくしの筋肉こそが! さぁ、ご覧あそばせ! この上腕三頭筋の膨らみを!」
体を横に向け、上腕三頭筋を正面へ。反対の腕を背から回してもう一方に添えて、正面側の足は膝つま先と真っ直ぐに伸ばすと、さぁ、美しいサイド・トライセプス!
コージャイサンとイザンバは揃って歓声と拍手を送った。
「君は馬鹿か! 腕はともかく人前で脚を出すのはやめたまえ!」
ところが、ロングスカートのスリットから足の太さを見せ付けるビルダをオリヴァーが叱りつけたのだ。
意外なところから飛び出した言葉に、女性二人は顔を見合わせると吹き出した。
ひとしきり笑うとイザンバが口を開いた。
「ビルダ様のお心遣い、本当に嬉しかったです。騎士としても女性としても、ビルダ様だからこそ到達できた境地。私には到底無理な事で、羨ましく思うと同時にとても憧れます。それに……」
誠意を込めてビルダに思いを伝える。感謝を、羨望を、尊敬を、言葉に認めて。
「オリヴァー様すらも抱え包み込める美しくもしなやかな筋肉の抜群の抱擁感、バブみを感じてオギャるんですけど! オリヴァー様なんでリアコしないんですか⁉︎」
サムズアップ! 勢いよく上がった親指がまるでコイントスをするように淑女の仮面を弾き飛ばした。だが、もういいだろう。仮面は今日、十分頑張った。
「バブみ? リアコ?」
「分かりにくいでしょうが、褒め言葉です」
聞きなれない言葉に首を傾げるビルダだが、コージャイサンのフォローに笑みを返す。
「ありがとうございます。イザンバ様も快活に笑う方だと弟から聞きました。その明るさ、朗らかさがコージャイサン様の癒しとなっていることでしょう」
その言葉をイザンバは今度こそお世辞だと流さずきちんと受け止めた。照れくさそうなのはご愛嬌だ。
反対に納得していないのはこの人だ。
「僕を差し置いてビルダに憧れるなんてレディは物好きだね。筋肉好きかい? それならキノウンなんかお勧め……」
ああ、なんと言うことでしょう。
ここは氷河期かと間違えるほどに冷えた空気がオリヴァーを襲う。震える彼が見つけた発信源。もちろんコージャイサンだ。
「してられないね! レディにはオンヘイ卿がいるからね! ダメだったね!」
「オリヴァー様。貴方という方は、本当に……」
寒々とした空気の中で伝う冷や汗でさらに冷えたのだろう。一層震えるオリヴァーにビルダは呆れるばかりだ。
このままでは全く貴公子らしくない。「この話題はおしまい!」とばかりに声を張ってオリヴァーは無理やり話題を変えにいく。
「ところでオンヘイ卿! さっきの言葉はいったいどういう意味なのかな⁉︎」
「ああ。それは『帽子に鳥のフンがついていますよ』という意味です」
「え?」
コージャイサンの返答にオリヴァーはピシリと動きを止めた。その拍子に帽子は彼の頭を離れ地面へ向かう。
地面に落ちた美しき帽子。本日の装いに合わせてデザインされた帽子に、ああ、なんと言うことだろう。本当に鳥の糞がついているではないか。
美しい帽子が汚れたこと、コージャイサンの視線と言葉の意味、なによりも今の今まで気付かずに被っていたことにオリヴァーは衝撃を受けた。
あまりのことにショックを受けてよろめき震え、そして……
「うわあぁぁん!」
泣きながら走り去った。一連の流れにイザンバは撃沈。粗相をしたのはオリヴァーではなく通りすがりの鳥だった。
ビルダは汚れを確認すると、術式で水を出してサッと洗い流し、さらに温風を出してパッと乾かした。お見事!
そして、その帽子を被りながら二人に告げる。
「成る程。イザンバ様が何か耐えられている様子はありましたがコレだったのですね。流石コージャイサン様です。婚約者を元気付ける方法を良くご存知ですわ。オリヴァー様もイザンバ様の笑顔の為に一役買えたこと、泣いて喜んでいることでしょう」
泣いてはいたが含まれる感情が違うだろうに。
ビルダがそんなことを言うものだから、イザンバはさらに小刻みに震える。
「ですが、申し訳ありません。あの方を追わねばなりませんのでここで失礼致します」
「ええ、お気をつけて。シスト卿の体を張った笑いの提供、誠に感謝します」
いい笑顔のコージャイサンだが、それも違うだろうに。
隣で小刻みに震える婚約者の背を宥めているが、本当に止めてやる気はあるのだろうか。
自力で笑いを収め、なんとか取り繕ってイザンバも挨拶をする。
「ビルダ様、お会いできて嬉しかったです。オリヴァー様にも、んふっ! あの、お礼を。うふふふふ、いえ、すみません。えっと……お二人にまたお会いできるのを楽しみにしています!」
所々で笑いが漏れているが、また会いたいというのは本心だ。そこがしっかりと伝わるように、ビルダの目を見て笑顔を渡す。
「私もです、イザンバ様。そうそう、知らぬフリをするのも、物分かりのいいフリをするのも令嬢らしいと言うのであれば、これもそうですわ」
最後に思い出したようにアドバイスを一つ。
なんだろう、と首を傾げるイザンバにビルダはウインクを投げかけながらこう言った。
「時には可愛く甘えてごらんなさいまし。物でも行動でも、あなたにおねだりされたのならコージャイサン様はきっとすぐに叶えてくださいますわ。それくらいの甲斐性はお持ちでしょうから」
「へ?」
「それでは、またお会いしましょう」
それだけを言うと呆気に取られる二人に淑女の礼を。二人の返礼後すぐに体勢を整え、弾丸の如く駆けて行った。