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斉唱
さて、この状況の始まり。
店内に充満している紙とインクの匂い。人の出入りで埃は立ち、ともすれば閉塞感に見舞われるそこはイザンバにとっては楽園だ。
彼女は本棚の間を気の向くままに移動して、新刊や続刊を手に取っていく。その量の増えること増えること。
探偵vs怪盗の新刊はもちろん忠臣の騎士シリーズ、日常系に話題のロマンス小説、伝記から兵法書、神話などなど。
あまりにも滑らかに増えていくものだから、ジオーネですら抱えきれなくなってきた。
「お嬢様、台車を借りてきますので少し離れるご許可を」
「分かりました。私はこの列に居ますから」
ジオーネの申し出にすまなそうに眉を下げるイザンバだが、本を返す気はさらさらない。
ジオーネを見送ると彼女の視線はまた本棚へと戻る。
右へ、左へ。
上へ、下へ。
真剣に背表紙を追う目。気に入ったものを見つけた瞬間に綻ぶ口元。本を取る手は軽やかで、ジオーネが戻った時にはまた一つ、二つと段を重ねた。
「あら、もしかしてイザンバ様ではありませんか?」
ところが至福とも言える時間に水を差された。イザンバを呼ぶこの声の持ち主は誰だろうか。
憂鬱な気持ちを抱えながらイザンバは殊更ゆっくりと振り向いた。
「……ご機嫌よう、ルイーザ様」
現れたのはイザンバと同じく伯爵令嬢のルイーザ。彼女を目にした瞬間、イザンバの顔にピタリと淑女の仮面が張り付いた。
「ご機嫌よう、イザンバ様。このような場所でお会いするとは思いませんでしたわ」
「ええ、本当に」
この本屋にいる誰よりも貴族と会いたくなかった、そんな本音を上手に隠してイザンバは微笑んだ。
ふと、ルイーザの視線がイザンバの選んだ本に向く。そのうちの一冊を指差し、見せる笑みは優位を含む。
「その本、わたくしも読みましたわ。遠征中のコージャイサン様のお世話をさせていただいているおりに、面白いからとお薦めいただきましたの」
「そうですか」
さっき聞いた話と違うなー、なんてそんなこと思っていてもイザンバの表情はしっかりと微笑みのまま。淑女の仮面はやはり優秀だ。
「ふふ、同じ本をお求めになるなんて……イザンバ様はコージャイサン様のことがお好きですのね」
可愛らしく笑っているのにどこか滲む悪意。
空気がピリリと張り詰める中、ルイーザは広げた扇子で口元を隠すと悲しそうな、憐れみを帯びた声を出す。
「でも、いくらお好きだからと言ってもあの噂はどうかと思いますわ。コージャイサン様も望まぬ噂に辟易されていらっしゃいましたのよ」
「何のことでしょうか?」
「あら、惚けなくてもよろしいのに……。いいえ、イザンバ様はコージャイサン様を繋ぎ止めようと必死になっていらっしゃるのですものね」
分かっているのよ、と笑いかける顔に圧を滲ませるルイーザにイザンバはますます首を傾げた。
その様子にルイーザは分かりやすく苛立ち、言葉に少しばかり棘を纏う。
「よろしいのですよ。可愛らしく何も知らないフリをするのも令嬢の務め。イザンバ様は実にらしくいらっしゃるわ」
扇子を畳むとピシャリと言い放つ。それはまるであなたの為を思って厳しいことを言っているのよ、とでも言いたげに。
「ですがコージャイサン様は危険な任務についておいでですの。それなのにその身を案じもせず、安全な場所でぬくぬくと過ごされているのはいかがなものかしら」
「危険な任務だからこそ。戦い慣れぬものが側にいる事は枷にしかなりません。私がここで待つ事はあの方の安心につながり、憂いなくその力を発揮されていることでしょう。それに……」
ここで一旦視線を下げたイザンバだがその口元に添えられているのは微笑み。彼女はルイーザへ改めて視線を向けると堂々と言い切った。
「どれほどの強敵と相見えようとも、コージー様は必ずお戻りになりますから」
その言葉に絶対の信頼を込めて。
イザンバとしては『人外レベルで強いコージャイサンが怪我もなく元気に戻ってくる』と言いたいのだが——わざと省いた。
そしてその狙い通り『何があってもコージャイサンは自分の元に戻ってくる』と言いたいのだと令嬢は勘違いした。
「そのような事……! 取ってつけたように言って!」
ギリギリと扇子を握り締めるルイーザに対してイザンバは動じるそぶりを見せずに返す。
「遠征中は私の婚約者がお世話になったようでありがとうございます。そのせいでしょうか? お加減が優れないようですしまた改めてお礼をさせていただきますね」
慣れぬお世話にお疲れのようですしまた今度、とでも言うようにその場を離れようとするイザンバ。もちろん大人しく解放してもらえるはずもなく。
「お待ちなさい!」
呼び止めたルイーザは一つ息を吐くと弱々しく嘆いてみせた。それは観衆を巻き込む為に。
「ああ、イザンバ様がこのような女性とは存じませんでしたわ。ご自分は噂を流し外堀を埋めようとしておきながら、コージャイサン様のお側にいたわたくしに対して使用人のような扱いをなさるなんて」
「まさか。そのような……」
「ああ、なんてひどいこと! 戦地に立たれているコージャイサン様のお役に立たないばかりか公爵夫人になりたいが為にそんな風に周囲を欺いて! わたくしはこんなにもコージャイサン様を想って動いておりますのに、イザンバ様は本当に……。ああ、やはりわたくしの進言は正しかったのですわ」
イザンバの否定には無視を決め込んで、涙を拭う仕草をする。さらに、店内の客に聞かせるようにルイーザはどんどんと声を大きく張り上げていく。
「わたくし、コージャイサン様に何度も申し上げましたの。『無理にイザンバ様との婚約を続ける必要はない』と。その度にコージャイサン様は『ご心配は結構です』と仰いますわ。お分かりですか? イザンバ様に気を遣われて本心すら言えなくなっておられるのですよ! コージャイサン様に望まれていないとなぜお気付きになりませんの⁉︎」
ルイーザの数々の言葉にジオーネは腹を立てていた。
イザンバならばうまく躱すだろうが、それにしても妄言甚だしい、と。
そして、直接言葉を受け止めている彼女に慮る視線を向けて気が付いた。
体の前で重ねられた彼女の両手。
まるで左手で覆い隠すように包まれたその右手が、固く握り込まれて血色を失っていることに。
「今日だってそうです。危険な任務の束の間の休日だと言うのにこんな埃っぽい所に連れ回すなんて! わたくしだったら邸でゆっくりとお休みいただきますのに……。そんな自分のことしか考えていない女性との結婚が迫っていることにコージャイサン様がお辛さを感じるのは当然ですわ!」
ざわめきが二人の令嬢を取り囲む。
彼らにとっては他人事、突如始まったエンターテイメント。
——その責任を伴わず
——その暴力性に気付かぬフリをして
観衆はその場面だけを切り取って、憶測と便乗の陰口と小さな擁護が飛び交った。
「イザンバ様も知っての通り、コージャイサン様はお優しい方ですわ。だからこそあなたに申し上げられないのです。けれどもイザンバ様も貴族の端くれ、わたくしがここまで言って差し上げたのですからお分かりになりますでしょう? これ以上あの方にもオンヘイ家の方々にも、ご負担をかけるのはおやめなさいな。それにあなたの評判ももっと落ちてしまいますわ。だから、ね?」
あなたの為を想って言っているのだと。
これはコージャイサンの本意であり、自分は代理で伝えているのだと。
ルイーザはあたかもそれが真実であるように切々と訴えた。
ざわめく観衆もつられたように厳しい視線をイザンバへと送ったことで、彼女の口角はひとりでに上がる。
見せ物となっているこの状況に、二人の心を決めつけるルイーザに、もう我慢ならんとジオーネが隠し持った銃に手を伸ばそうとしたその時——イザンバが口を開いた。
「そうですか」
と凪いだ声でただ一言。その言葉にルイーザの面前に喜色が浮かぶ。
しかし、それに構わず「けれども」とイザンバは続けた。
「残念ながら私の婚約者は大切な事を他人任せにするような不誠実な方ではありません。もしも本当に婚約解消をお望みなら直接伝えられる事でしょう。あの殿下の従兄弟なのですから」
先の婚約破棄騒動を持ち出し『本人から直接言われていないから応じない』とイザンバは言う。
「それにそのように声を荒げられても、ルイーザ様のお言葉からは何一つご本人の意思を感じられません。むしろ大衆の面前でその名を連呼して品位を落としているように見受けられますが」
いかがでしょうか、と笑って見せた。
——嘆くでもなく、怒るわけでもない。
——あくまでも冷静に、どこまでも余裕を持って。
真っ向から喧嘩を売ってくる相手を返り討ちにするその姿に集まった人々は感心し、くるり、くるり、と手のひらが返されていく。
そんな中で、ルイーザは体をワナワナと震わせた。
「あなたは……あなたは大人しく婚約を解消すると言えばいいのよ!」
ただ感情のままに、ただ望みのままに、その手に握る扇子を振りかぶるルイーザ。真っ直ぐにイザンバへと向かう扇子に誰もが息を飲んだ。
多くの観衆が見守る中で響いた乾いた音——だが、扇子はイザンバに届いていない。
「ご歓談中恐れ入ります。クタオ伯爵令嬢様、お連れ様がお呼びです」
二人の間に割って入った店員の持つ分厚い辞典がルイーザの扇子を受け止めたのだ。ホッと息を吐いたのは誰だろうか。
「分かりました。盾がわりにされたその辞典、私が買い取ります」
「お心遣いありがとう存じます。ですがこちらは処分品ですのでご安心を。さぁ、お連れ様の方へ」
ジオーネが銃を抜くよりも先に店員に扮したイルシーが止めに入ったのだ。その背にイザンバを庇い、安心させるように笑みを向けると『コージャイサンの元へ行け』と目を動かす。
イザンバは答えるように庇ってくれた店員に、そして騒がせてしまった詫びにと周囲へ淑女の礼を。それはとても綺麗でサマになったものだった。
「そちらのお嬢様もお戯れはそこまでに。ここは本屋でございます。他のお客様のご迷惑になりますのでどうぞ穏便に」
「店員風情がわたくしに意見しますの⁉︎」
邪魔をされ空気が変わったことにルイーザは心底腹を立てて店員に噛み付いた。
「確かに自分はしがない店員ですが、あちらのお客様がどう思われるでしょうか」
「あっ」
「本日はどうぞお引き取りを。これ以上は醜聞となり……」
「退きなさい! コージャイサン様! お聞き、くだ、さ、ぃ」
店員を押し退け、コージャイサンの元へと行こうとしたルイーザだが、言葉は尻すぼみとなり、がくりと倒れ込んだ——恋願った人に、姿を見てもらうことすら叶わずに。
突然失神した令嬢を受け止めた店員はおやおやと彼女を見下ろすと、その後ろに控えていた従者へと向き直る。
「こちらのお嬢様のお連れ様ですね。お嬢様はお疲れのようですので、お邸でゆっくりなさることをお勧めしますがいかがでしょうか?」
向けられた貼り付いた笑み。何食わぬ顔をしているがこの店員が放った殺気にあてられ令嬢は気を失ったのだ。
それを目の当たりにした従者の顔色は非常に悪い。ルイーザを抱え、恐怖に強ばる足を無理やり動かし店を出て行った。
一方、イザンバはコージャイサンの元へと辿り着いた。
「ザナ、一人にさせてすまない」
「大丈夫ですよ」
「そうでもないだろう? ほら」
イザンバの固く握り込んだ拳。手を開かせると血が滲んでいるではないか。それを見て彼女は驚いたように目を開く。
「気付いていなかったのか?」
コージャイサンの指摘に困ったように笑うイザンバの掌にすぐに治癒魔法がかけられる。彼は傷のなくなった掌を撫でるとゆっくりと持ち上げて——唇を落とした。
「なっ……にをするんですか⁉︎」
彼の突然の行動に途端に上がる黄色い悲鳴。それを背景にイザンバは手を引き離して抗議した。
「自分を大事にしろ」
「これ以上ないくらいに大事にしてますのでどうぞご安心くださいませデスわ!」
「はいはい。ほら、淑女の仮面が外れかかってるぞ」
そう言われてイザンバは必死に言葉を飲み込んだ。恨めしそうにコージャイサンを見るが、仮面の隙間から覗く赤い頬にコージャイサンは笑みを返すだけ。
二人のやり取りに「なんだ、仲良いじゃん」と呟いたのは誰だろう。観衆の手のひらが完全に返った瞬間である。
イザンバは口付けられた箇所を拭うべきか否かと一人葛藤するが、いや、問題はそこじゃない! としっかりと深呼吸をして落ち着いた顔を取り戻した。
彼女の準備が整ったところでコージャイサンが声をかける。
「本、それだけでいいのか?」
「はい。買いたいものは持ってきました」
「じゃあ行こうか」
「コージー様はいいんですか?」
ジオーネの押すカートにずっしりと山を築いたイザンバとは反対にコージャイサンは手ぶらだ。
「ああ。古代ムスクル語の本はここにはないそうだ」
「それはどちらかと言えば骨董品ですね。次は骨董品屋に行きますか?」
「そうだな。また今度な」
二人は揃って会計へと進む。微笑みを交わす二人に人々は道を開け、その様子に付き従うジオーネは誇らしげだ。
「全てクタオ邸に届けてくれ」
「承りました。オンヘイ公爵子息様、クタオ伯爵令嬢様、またのお越しをお待ちしております」
眼鏡の店員が恭しく頭を下げて二人を見送った。