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重唱
爽やかな風が通り抜ける部屋の中、応接室のクッション性の効いたソファーで微睡むイザンバがいる。
しかし、その眉間には皺が刻まれ安らかさとは程遠い。
さて、応接室と言うからには人待ちをしている最中ということだ。だと言うのに体はひたすらに休息を求めている。
「約束があるんだから起きなさい!」という理性と「何言ってんだよ! 睡眠大事!」という睡眠欲が格闘していると、そっと目の下を撫でられた。それはとても優しい撫で方で。
次いで心地よい香りに包まれ、イザンバにどっと安堵が押し寄せるとそのまま睡眠欲を勝利へと導いた。
体が沈んでいく。
思考が沈んでいく。
深く、深く。黒い人影も見ないほどに——。
暫くするとイザンバの意識は浮き上がり浅瀬を漂った。
ソファーの軋み、パラリと紙を捲る音が彼女に届く。そして感じる人の気配に重い瞼を押し上げると、イザンバの瞳がぼんやりと隣にいる人物を捉えた。
「コージーさま?」
「悪い、起こしたか?」
まだ覚醒しきれていないのだろう。イザンバはぼーっとコージャイサンを見つめるとポツリと零した。
「スチルみたい」
「スチル?」
首を傾げたコージャイサンだが、聞き返したところでイザンバの反応は鈍いまま。
「まだ眠そうだな」
耳に馴染んだ声の温度は温かい。イザンバはそれに安心したようにまた瞼を下ろした。
「そのままだと首が痛くなるぞ。ほら、横になれ」
肩を引く力に逆らわず、イザンバは彼の膝の上に横たわる。その姿はまるで幼な子のようで。
うつらうつらとしている姿を見てコージャイサンから笑みが溢れた。
「寒くないか?」
問いながらも返事を待たずにコージャイサンはフワリと彼女に上着をかけ直すと、視線をイザンバから外し先ほどまで読んでいた本へと戻した。
一方、されるがままのイザンバは自身を包む香りに頬を緩めると、その体から一層力を抜いた。
——ああ、コージー様の匂いだ
黒い影は遠く彼方、心を満たすは安心感、それはなんと心強い香りなのか。
彼女は上着に顔を埋めて再度思った。コージャイサンがここにいる、と。
しかし、脳が改めてそれを認識するやいなやがばりと起き上がった。
「コージー様⁉︎ いついらしたんですか⁉︎」
「ん? 30分くらい前だったか?」
それはイザンバが青褪めるには十分な言葉だ。
「そんなに⁉︎ 私、お迎えもしないで」
「俺が起こさなくていいと言ったんだ。気にするな」
コージャイサンはそういうが、今日はあの舞踏会から二十日以上経ってやっと得られた休日だ。
もちろん控えるメイドたちによってもてなしはされているが、当の本人が居眠りとはいただけない。
イザンバはただしょんぼりと顔を下げたまま口を開いた。
「本当にすみません。それと……おかえりなさい。大きなお怪我もないようで良かったです」
そんな彼女の頭をコージャイサンが軽く撫でる。
微笑み合う二人の姿に控えているメイドたちはホッと胸を撫で下ろした。
イザンバは自らの頭を撫でるコージャイサンの手を取り労るように撫でると、柔らかい口調で気遣いの言葉を続けた。
「あちこちに応援で呼ばれていると聞いてます。お体や心労の方は大丈夫ですか?」
「問題ない。仕事よりも飛び回る羽虫が鬱陶しかったな」
「それは、まぁ……。なんと言いますか」
コージャイサンが皆まで言わずとも察せられる羽虫の意味。思い出しただけで溢れるため息にイザンバは苦笑いになる。
「防衛局が総出で動いているんだ。大人しくしていればいいものを、旅行だ観光だと言う連中に騎士団の人たちも相当腹を立てていたしな」
「それはそうでしょうね」
これにはイザンバも同意する。
しかし、旅行や観光が悪いわけではない。要はタイミングが悪いのだ。
「駐屯地にまで押しかけて俺たちの世話をすると言い出した連中もいたんだが、アレには騎士も魔術士も歓喜よりも絶望を表したのが面白かった」
「それは逆に気を遣って休めないやつですね」
情けも過ぐれば仇となる、とはこの事か。
家事をした事のない令嬢が来たところでただのお荷物。だからといって使用人をぞろぞろと連れてこられても邪魔になる。
騎士は自分の世話くらい出来るのだから。
「あとはひたすら鬱陶しかった。俺が仕事をしていても、食事をしていても、休憩中にザナに借りた本を読んでいても。俺の将来を心配して言っているそうなんだが、俺の意志はどこに反映されているんだ? って言うくらいに自分本位の主張だったな。本当に鬱陶しかった」
「あー、ね。お疲れ様です」
げんなりと言葉を吐き出すコージャイサン。そんな彼にお疲れ様の意を込めてイザンバはその肩を軽く叩いた。
少しだけ重くなった空気を変えるように、コージャイサンは読んでいた本に視線を落とす。
「借りてた本、面白かった」
「でしょー⁉︎ 謎解きあり、冒険ありの探偵vs怪盗の冒険活劇! 伏線はきっちりと回収されますし、細かい人物設定で濃厚な心理描写は深い余韻が残りますよね!」
「ああ。やってみたいトリックがいくつかあって非常に興味をそそられた」
「コージー様はそっちですよねー」
イザンバの解説に同意をみせながらも、着眼点は別のところ。そうだと思ったとイザンバは笑う。
「ザナは違うのか?」
「内容がいいのは言わずもがな……これ! 顔がいい!!」
コージャイサンの手から本を取るとイザンバは見開きのページを見せつけた。
「ほら、この探偵と怪盗がどっちが先に秘宝を見つけるかいざ勝負というところ! この顔を突き合わせて笑いあうシーンとかもう仕事しすぎじゃないですか⁉︎ 無理しんどい! この世の全てがここに詰まっている! こんなに素晴らしいものが拝めるなんて本当生きていてよかった!!」
「ああ、確かにザナが好きそうな絵だな」
一人盛り上がるイザンバとは対照的にコージャイサンの声は平坦だった。表情筋を緩めたままページを捲るイザンバは一人で楽しそうだ。そんな彼女にコージャイサンが声をかける。
「これの続きは?」
「ちょっと前に出てるんですけど、まだ買ってなくて」
珍しい、とコージャイサンが目を見張った。いつものイザンバなら新刊はその日の内に手に入れている。それがまだ買っていないというのだから、イルシーの報告以上に引きこもっているのだろう。
「なら買いに行くか」
「え⁉︎ なんでですか⁉︎」
「別に今日することも決めてなかったし。遠出は出来ないが、本屋ならすぐそこだ。俺も読みたいし」
「でも……」
イザンバの目には迷いがある。本は欲しいが、それでも今日はコージャイサンの貴重な休日。ゆっくり休んで欲しいとも思う。
それを察しながらもコージャイサンはイザンバの顔を覗き込んだ。
「それとも今日は本を買いに行く気分じゃないか? 新刊はいらないか?」
「いいえ、行きたいです! 行きましょう! すぐに行きましょう! 新刊ゲットだぜー!」
見事に釣られた彼女は元気いっぱいに返事をして立ち上がった。悲しいかな、新刊という魅力的な誘いには抗えないのだ。
「じゃあ、すぐ準備してきます! ちょっとだけ待っててください!」
「ああ。俺はこれを読みながら待ってるから急がなくていいぞ」
「新刊が待ってるんだからそうはいきません! シャスティ! ケイト! ちょっぱやで準備しますよ!」
この場で一番位の高い人物からの許可を得て、イザンバは駆け出した。
それに続くシャスティも久しぶりのお出掛けにとてもいい笑顔だ。
「お任せください!」
「了解で〜す。でも廊下は走っちゃダメですよ〜」
パタパタと去る二人に対してのんびり歩くケイト。
その背中を見送ると部屋に残ったのはコージャイサンとその部下二人。本に視線を落としていた彼が脈絡もなく部下に問うた。
「ザナはあまり眠れていないのか?」
「芯からお眠りになられている日は少ないかと思われます」
答えたのはヴィーシャだ。
「ネズミの処理は?」
「恙無く」
護衛任務に対しての問いにはジオーネが答えた。
二人は一度目こそ叫び声や爆発音を轟かせたが、それ以降は粛々と任務に当たっている。家人たちの安眠を守りながら後処理もばっちりだ。
それでも、イザンバは眠れていない。舞踏会以降は寝付きが悪く、浅い眠りを繰り返していることを見守る彼女たちはよく知っている。
「念のため防音魔法を張って、あとは何か眠りに効くものを……」
コージャイサンがイザンバの眠りのためにと対策を考え始めるが、その様子に部下は互いに目配せをすると口を開いた。
「僭越ながらご主人様」
ヴィーシャの呼びかけにコージャイサンがついと視線を向けた。
「お嬢様を甘やかすのはお待ちくださいませ」
どういうことだ、とその目が射抜く。臆することなくヴィーシャは理由を述べた。
「眠れへんのは可哀想やけど、ここは自分で乗り切ってもらわなこの先やっていけません」
「お嬢様はご結婚を機に取り巻く環境が変わります。舞踏会で《自業自得》が発動したことも含めて、今までのままではいられない事も身にしみたはず。どうか今は見守りの姿勢を」
続くジオーネも今は手を出すなと告げる。
眠れぬことに苦しんでいるが、それも公爵夫人になるための試練と二人は考えた。もちろん暗殺者の彼女たちからすれば大変甘く、ぬるい試練なのだが。
「それをザナが望んでいるのか?」
「お覚悟召されたのですから耐えるのは当たり前です」
即座にジオーネが返した。やると決めたからにはトコトンやれと言わんばかりだ。
「お前たちはザナに厳しいな。覚悟を持ったとしても我慢と忍耐は別物だぞ」
「この程度で弱音を吐くならそれはご覚悟が足らんと言うことちゃいますか? そんなんで万が一、人死に遭うたとき耐えられますか?」
無理ですよね、とヴィーシャは微笑む。
コージャイサンとてその事態を想定していないわけではない。だが、ないに越したことはないし、万が一あったとしてもそれを回避する為に彼女らがいるのだ。
「うちらは体を守ってやることは出来ますけど、心は自分でどうにかしてもらわんと。いざ言うとき、うちらに指示を出すのはお嬢様です。脳内お花畑のお嬢さんにも、弱々しく守ってもらうだけのお嬢さんにも、それは務まりませんでしょう」
彼女たちの言い分にコージャイサンは嘆息するしかない。
二人は何も意地悪で言っているわけではない。コージャイサンの隣にいてもらう為にはイザンバ自身の成長が必要なのだと訴える。
「ご主人様は人の上に立つお方です。時には冷酷な判断を下されることも、御身が前線で剣を振われることも増えていきます。お嬢様がそれらを間近でご覧になることもあるでしょう。耐性は必要です」
「そしてお嬢様はご主人様を支えるお方。《自業自得》を作った際にお心を決められたんやから今踏ん張らんでいつやりますの? それに……」
一度言葉を切るとヴィーシャはにっこりと微笑んだ。
「ご主人様の実技訓練より優しいと自負しておりますわ」
「そうか」
これは何を言っても無駄だな、とコージャイサンは二人の意見に了承を見せる。
——もちろんイザンバが乗り越えられると信じて。
——そして、彼女らが最後は必ず手を差し伸べると理解して。
「だが近づくネズミは必ず処理しろ。抜かるなよ」
「お任せください」
コージャイサンの言葉に二人は恭しく頭を垂れる。それを認め、本へと視線を戻そうとしたその時。
「恐れながらもう一点」
ヴィーシャが再び声をかける。どうやらまだ何かあるようだ。さて、今度は何だとコージャイサンが視線で問う。
「結婚式までに閨事も指南しときましょか?」
「いらない」
間髪入れずにお断り! 安定の四文字終了だ。
コージャイサンの視線が冷ややかさを帯びているが、そんなものはさらりと流してヴィーシャはコロコロと笑う。
「あら。やっぱりご主人様はご自分で調教したい派ですか」
「無垢な相手を自分色に染める……男のロマンだな」
納得したように頷くジオーネだが、主人は一言もそんなことは言ってない。
溢れんばかりのお節介という名の気遣いにコージャイサンはため息をついた。
「余計なことはするなよ」
「かしこまりました」
釘を刺す主人に対して頷いているのにその返事はどこか白々しい。
けれども、そんなお節介をする程にはイザンバと護衛がうまく関係を築けていると言うことだろう。喜ばしいことなのにどうしてこんなにも頭が痛むのか。
コージャイサンは再度重く肺に溜まった空気を外へと吐き出した。