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確固たる決意は他人が侵していいものではない。
コージャイサンがお茶を飲み、イザンバがのんびりと本を読んでいると、着替えを済ませた二人が戻ってきた。
「失礼します。着替え終わりました」
「ほぁ⁉︎」
どんな風になっているかなぁ、とワクワクとした気持ちから一転。イザンバの声がひっくり返ってしまった。なぜなら戻ってきたジオーネの顔色が真っ青なのである。
「ど、どどど、どうしたんですか⁉︎」
「頑張って締めたらこうなりました」
「頑張って……え⁉︎」
やりきった、と言う顔のヴィーシャにイザンバは戸惑いを隠せない。ジオーネの真っ青な顔色を見ればやり過ぎであると誰が見ても明らかだからだ。
一方で慣れない締め付けにげっそりとするジオーネ。絞り出すように、覇気のない声が大丈夫と訴える。
「これしき、なんの、問題も……」
「大アリじゃないですか!」
青褪めて膝をつくジオーネにイザンバは大いに慌てた。読みかけの本を机の上に置いて駆け寄るが、彼女に何が出来るのか。
選択肢は三つ。
一つ、今ここで脱がせる。
二つ、別室へ運んでから脱がせる。
三つ、コージャイサンに任せる。
右往左往するその姿に、助け舟が出された。
「リアン。その一角に目隠しを作れ」
「はい!」
コージャイサンの要請にすぐさま反応したリアンは、示された場に向かって腕を振った。
大きめの服の下に隠された数種類の鋼線。贈り物を彩る細く柔らかいものから、刃や弾丸さえも弾く最硬度のものまでと様々だ。
リアンはそれらを巧みに操って対象を罠へと誘い拘束したり、かかった獲物の四肢の分断や絞殺など、まだ未成熟な体の非力さをカバーしながらも中々にえげつない事をやっている。
しかし、今必要とされたのは罠ではない。一本ピンと張られた硬いワイヤーにバサッと白い布を被せて簡易パーテーションを作った。
ファウストがパーテーションの向こう側にジオーネを放り込み、ヴィーシャがブラウスのボタンを外すと、露わになったコルセットの紐は下から上へギッチリと引き絞られている。それはもうギッチリと。
イザンバはあちゃーと顔を顰めると、ヴィーシャに問うた。
「一体どんな締め方したんですか?」
「足で背中を押さえつけながら全体重を持って締め上げました」
「成る程ね! 納得のギチギチ具合です!」
息が詰まる訳である。イザンバは固結びを解く為に膝を折ると、二人に注意を促した。
「コルセットの締め過ぎは酸欠で倒れたり、肋骨が歪んだり折れて内臓に刺さる危険性があります。コルセット自体も壊れやすくなりますし、やり過ぎはダメです」
「勉強になります」
息を詰めるジオーネの代わりにヴィーシャが返事をした。
イザンバも貴族令嬢だ。彼女自身はシャスティにいい感じに締めてもらっているのでそういった経験はないが、夜会の為に気合を入れてコルセットを締めてきた御令嬢たちが気を遠くしている場面を見たことがある。
「この、結び目……もう、ここがちょっとでも緩んでくれればっ!」
傷も汚れもない、綺麗な令嬢の指が紐を解こうと必死にもがく。それでも紐は緩む気配を見せない。
観察するように控えていたヴィーシャがぽつりと零した。
「まどろっこしいですね」
「んー! 本当に!」
健闘虚しく固結びに緩む気配はなく、紐と紐の間はおろか布地と紐の間に隙間すら生まれない。
固結びの頑固さに肩を落とすと、イザンバが一つの決断をした。
「よし、切っちゃいましょう」
「よろしいのですか?」
「紐は変えれば済む話です。コルセットでジオーネが命を落とすなんて嫌ですし」
「それなら……お嬢様、失礼します」
そう言うと、一滴ポトリ。ゆっくりと、他の部分につかないように丁寧に、結び目の上に液体を垂らした。
すると、見る見る内に固結びが緩んでいく。いや、緩むと言うより溶けると言った方がいいだろう。
「おお、すごい! ピンポイントで溶けてる!」
「使い方を間違えなければ有用な薬品です」
「へぇ。ヴィーシャだから出来ることですね」
笑顔ですごいと褒めるイザンバに、ヴィーシャは身の置き場のない思いがした。誤魔化すように溶けた部分を切り落とすと、力の限り引っ張られていた紐はたちどころに緩くなる。
「ッ……はぁぁぁぁぁぁぁ、楽になった」
「大丈夫ですか?」
大きく息を吸うジオーネにイザンバがホッと息をつきながら、使い物にならなくなった紐を外して更に体を楽にさせる。
「はい。見苦しいところをお見せして申し訳ありません。ヴィーシャ、礼を言う。ん? 礼を言っていいのか?」
「助けてもらったらお礼は基本でしょうが」
ヴィーシャが思いっきり締めたせいでこうなったのだが、固結びを溶かして解放したのもヴィーシャである。なんともややこしい。
「何か怒っているのか?」
「別に?」
にっこりと綺麗に微笑むヴィーシャに、ジオーネはただ疑問符を浮かべた。
そんな彼女たちのやり取りを見て、掌に残った紐を見て、イザンバは既視感を覚える。
それは、学園でよく見た光景。
それは、社交会でよく見る光景。
コージャイサンが手ずから作ったとも言える服一式。ヴィーシャが彼に心を寄せているのであれば、ジオーネに対してやきもちの一つも妬くというものだ。
どこにでもある変わらない光景にイザンバは呆れたように息を吐く。
だが、学園にいた女子生徒たちや社交会で会う令嬢たちとヴィーシャには違いがある。
それは彼女が望んでその位置に来たという事。だからこそ、彼女の毒はイザンバの身には届かない。
——触らぬ神に祟りなし。
これはイザンバが触れていいものではない。
話し合いは済んでいるというし、イザンバが信じるべき相手は変わらないのだから。
「ザナ、新しい紐を用意した。付け方を教えてやったらどうだ?」
そこへコージャイサンの声が割り入った。筒抜けの会話と布に写る影で、大体の状況は分かるのだろう。
イザンバはパーテーションから顔を出し、笑顔で礼を言った。
「そうします! コージー様、ありがとうございます!」
新しい紐を受け取り、またパーテーションの向こう側へ。そこではショートパンツにブラウスを羽織ったジオーネと、コルセットを持つヴィーシャが待っていた。
「ごめんなさい。紐の通し方をちゃんと伝えておけば良かったですね。誰かに締めてもらうなら、さっきみたいに下から上に一回で通してしまってもいいんですけれど、そうすると自力で外しにくくなるんですよ」
イザンバの言う通り、ジオーネは背後に手を回す余裕すらなかった。仮に届いたとしても結ばれた位置が肩甲骨の間という、力の入れにくい場所になるので固結びはご法度だ。
それではここで、一人で着脱可能な正しい紐の通し方をお教えしよう。
「まずは適当な長さを残して紐を片側の真ん中の穴に通します。そして、上から斜めにジグザグに進みます。上まで行ったら下に向かって斜めに。真ん中まで戻ったら同じ列の下へ。この時に長めに残して輪っかを作ります。そのまま斜め下に進んで、最終的に真ん中に戻ります」
ヴィーシャとジオーネが覗き込むように見守る中、イザンバが手際良く紐を通していく。
スルスル、スルスルと、編み上げが形作られた。
「この後、残していた紐の端と穴を通した紐の端を固結びします。そうすると、ほら、左右に輪っかが出来るでしょ? これをウエストループと言います。これを自分で調整しながら締めるんです」
紐の端をキュッと結び、真ん中に出来上がった輪っかを広げて見せると、二人は感嘆の吐息を漏らした。
さぁ、続けていこう。
「着用方法ですが、まずは紐を緩めてコルセットの幅を広めます。次に、体の中心とコルセットの中心を合わせます。そうしたら、ウエストループを引っ張って軽く締めましょう」
「こうですか?」
「うん、上手です。このコルセットはオーバーバストなので、この時に胸もきちんと入れてくださいね。背中に流れている分、お腹に流れている分もしっかり手で持ってきてあげましょう」
この言葉にヴィーシャが手袋をキュッと引っ張りながら申し出た。
「お任せください」
ジオーネの体を少しだけ前傾させると、まだ余裕のあるコルセットの隙間からズボっと腕を突っ込んだ。
そして、下から上へ、横から前へ、ぐいっと肉を持ってくる。
「うお!」
「はい、じっとしてる。ひ弱な御令嬢に耐えられて、アンタが無理とか……」
「言う訳ないだろう」
しっかり煽られている。こうしてさっきもギューッと締められたんだろうなぁ、とイザンバの笑みに悟りが混ざる。
きっちり肉を入れたら先へ進もう。
「それでは順番に締めていきますよ。左右の重なる紐を持って、まずは上から中心へ力を加えましょう。ゆっくりと紐を引っ張って……上半分が締まったら一旦しっかり締めます。いけましたか?」
「はい」
イザンバの指示に従い、ジオーネが少しずつ力を加えていく。
「今度は下から中心に向かいましょう。上半分と下半分で締め付けの強さを変えられるので、無理のないところで止めてくださいね。出来たらまたしっかり締めて、最後に紐を結んでおしまいです。着心地はどうですか?」
「おお! 苦しくない!」
カップの中に収まった胸、ギュッと締められたように見えるがコルセットが作り出す曲線は動きを妨げない。
「ジオーネの場合はダイエットではなく、ボタンが飛ばないように胸の動きを抑える事、腰や肩への負担を減らす事を目的としています。ですから、紐をギチギチに締める必要はありません」
「気をつけます」
イザンバの忠告にジオーネが真剣な顔で頷いた。コルセットは強く締めればいいと言うものではないし、何事も目的を履き違えてはいけないのだ。
改めてブラウスとスカートを着てエプロンを付ける。ボタンは余裕を持ってその場に留まり、ジオーネの背筋がピンと伸びた。
その姿に、ヴィーシャが目を見張った。
「へぇ、すごい。シルエットも綺麗になるもんですね」
「そんな事より腰が楽だ!」
ジオーネが感激している点については、ボーンつまり補強用の芯材が一役買っている。全体の形を整えるだけでなく、ボーンが支える事で付けた時に腰への負担を減らすのだ。
更にジオーネは体を捻ったり、揺らしてみせた。
「ヴィーシャ、見てくれ! 胸が揺れない!」
「あら、ほんまに。これなら走りも接近戦も十分イケそう」
傍若無人のお胸様をカップにしっかりと収めることで動きを最小限に留められるようになった。これは快挙である。
「喜んでもらえて良かったです。二人とも、これから頼りにしてますね」
「お任せください」
イザンバからの信用に報いるように、コージャイサンへの忠誠を示すように、二人は揃って頭を下げた。
さて、パーテーション越しにそのやり取りを聞いていたコージャイサンは満足そうだ。そして、タイミングを見計らい声をかけた。
「ザナ、うまく行ったか?」
「はい! それではご覧ください!」
イザンバが布を勢いよくバサッと引く音と、コンコンと来訪を告げる音がしたのは同時だった。
「失礼します。若様、婚約者様、お二人に話があると旦那様と奥様がお呼びです」
淡々と呼び出しを告げたベテランメイドが見たもの。
それはソファーに腰掛けるコージャイサン、壁際に控える見慣れぬメイドたち、そして……部屋の隅で一人布をはためかせるイザンバである。
肩を揺らして笑うコージャイサンに、見ていないフリをするメイドたちに、居た堪れなさからゆっくりとイザンバが布にくるまりその顔を隠した。
「何この裏切られた感。ひどくない? 私一人変な子じゃないですか」
「皆知ってるから大丈夫だ」
「フォローになってないです!」
ぶつぶつと文句を垂れるイザンバに近づくと、コージャイサンが布を捲った。すると、中から拗ねた顔が現れるではないか。
彼はそれにまた小さく吹き出すと、そっと手を差し出した。
「ほら、行くぞ」
「……はい。それにしても、なんの話でしょうね」
その手を取り、布を外して共に歩く。コージャイサンは布をソファーに掛けると、そのまま会話を続けた。
「結婚式の事じゃないのか?」
「あー、お義母様に任せちゃダメですか? 私はこだわりとかないので、聞かれても逆に困るんですよね」
困り顔のイザンバをエスコートしながら、コージャイサンは扉を閉める。その際に、密かに視線に意思を乗せて部屋の中へ投げかけた。
パタン——その音は顔合わせ終了の合図。それと同時に、彼らの仕事が始まる合図。
暫くの沈黙の後、主人のいなくなった部屋に集う五つの人影。誰かが首をコキリと鳴らした。
「ねぇ、ファウスト! まず何処から行く⁉︎」
「そうだな……市内の裏路地から行こう」
「了解! 沢山狩って褒めてもらわなきゃ!」
「それは当然だが、少し落ち着け」
張り切るリアンを宥めるようにファウストが行き先を決めた。幼さの残る彼の意欲が空回りしないように、ファウストが手綱を握る。
一方でヴィーシャとジオーネは別行動の段取りを組む。
「ジオーネは先にクタオ邸に行っててくれる? 屋敷周辺の警戒をお願い」
「任せろ。先にゴミを見つけたらどうする?」
「それは夜にでも片付けよか。うちはお嬢様に付いてるわ」
何という軽いノリで物騒な事が決まるのか。闇夜に乗じる辺りがやはり暗殺者である。
「そんじゃあ、始めるとするかぁ」
——誰よりも傲慢に。
——どこまでも不敵に。
新たな贄に狙いを定めて笑う。
そんなイルシーにつられるように全員の口角が上がった。
一陣の風が吹く。それは外からの変化の風か、中からの放出の風か。
想いは巡る。人を介し、形を変えて、その手が届く世界の中で。
望む未来を手繰り寄せるように、引き付けるように、強い想いが解き放たれた。
そよぐ風が布を揺らし、開きっぱなしの本のページをパラパラとめくった。
これにて『無自覚の誘惑』は了と相成ります。
読んでいただきありがとうございました!