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ごめんなさいは覚悟の後に。
着替えを済ませたイザンバはヴィーシャに連れられてコージャイサンが待つ部屋へと向かっている。しかし、彼女はあと数歩という所で、俯き立ち止まってしまった。
不審に思い、ヴィーシャが訊ねる。
「どうかなさいましたか?」
「謝罪の言葉を考えられてない! 戻りましょう!」
そう真剣な顔で訴えた。イザンバが覚えている限り、コージャイサンに酔っている様子はなかった。彼のことだから何食わぬ顔はしているのだろうが、親しき仲にも礼儀ありという。
「あれは絶対に失礼でダメなヤツだった。どうしよう。ねぇヴィーシャ、どうしよう」
「ここまで来て何を仰っているんですか。さぁ、どうぞ」
「ああ、待ってー!」
無情にも扉は開かれた。部屋の中にはソファーで書類のチェックをするコージャイサン、そして壁際に控える四人の人影。
ヴィーシャはイザンバを中へ導いてそっと扉を閉める。そして、イザンバのお茶を用意するために動いた。
二人の入室を認め、書類から目を上げたコージャイサンはいつもと変わらない様子で声をかけた。
「おはよう、ザナ」
「コ、ココココ、コージー様、おは、おはようございます」
一人になったイザンバがカクカクとした動きでソファーに腰掛けるコージャイサンと対峙する。
「どうしたんだ? いつにも増して言動がおかしいが」
イザンバの妙な態度に、サインをした書類をイルシーに渡しながらコージャイサンが問うた。
それでも、イザンバは直立不動である。しかし、意を決すとガバリと頭を下げた。
「ごめんなさい! 昨夜はとんだ粗相を! コージー様も疲れているのに、私、本当になんて事を!」
「ああ、あれな」
昨夜の様子を思い返すコージャイサンに対して、イザンバは頭を上げると瞳をギュッと閉じる。そして、思い詰めたように吐き出した。
「だって、あんな……コージー様の匂いを嗅ぎまくるなんて、ただの変態じゃないですか!」
「ぶはっ!」
イザンバの懺悔に耐え切れず盛大に吹き出すイルシー。しかし、彼女は構わず言葉を続ける。
「私、匂いフェチだったみたいです。自分の性癖にびっくりしてます」
「そうだな。俺もびっくりした」
びっくりしただけで済ますのか。二人の会話にイルシーは笑い沈んだ。
「気を遣っていただいたにも関わらずウザ絡みをして、挙げ句寝落ちをしてベッドに運んでもらうなんて! 寝ている人間って脱力し切ってるから重いんですよ! 体重が全く分散されないんですよ! お疲れの上、お酒まで入っているのに運ばせるとか鬼畜な所業じゃないですか! もう……本当にごめんなさい!」
「気にするな。ただ外で飲む時は気を付けた方がいいな」
「いえ、飲みませんよ。自分がお酒に弱いって分かりましたから」
反省を踏まえて、そう宣言する。お酒の失敗は繰り返さない! それがイザンバの新たな決意だ。
些細を聞き、イルシーは腹を抱える。
ファウストとリアンの哀れみやイザンバの行動。それらがコージャイサンにどんな試練を与えたのかは想像に容易い。
しかし、イザンバ本人がそこには重点を置いていない事もイルシーにとっては笑いを誘う。
「クククク、イザンバ様、そりゃ鬼畜の所業だわ! ハハハハハ!」
「分かってます! もうお酒飲まない!」
「それは無理なんじゃね? 公爵夫人として酒の付き合いもあるんじゃねーの?」
そう言われてイザンバの顔色が悪くなる。自身が引き起こすかもしれない惨事、その展開が脳裏を過ぎる。
「酔っ払ってあらゆる人の匂いを嗅ぎまくったらどうしよう……」
「くっ、ハハハハハハ! それ絶対にヤベェから! マジで気を付けろよぉ!」
青褪めた頬を手で押さえながら真剣に悩むイザンバにイルシーは大笑いした。
イルシーの敬意のない態度に、イザンバのぶっ飛んだ発言に、それらを許容しているコージャイサンに、四人は目を丸くするばかり。
その様子を横目で確認しながらも、コージャイサンはイザンバに向けて言葉を紡ぐ。
「とりあえず家で俺と一緒に飲んで、少しずつ慣れたらいいんじゃないか?」
「それも慣れですか。はぁ、社交界は試練が多いですね」
香水もお酒も普段から嗜んでいれば慣れてくるものだ。しかし、どちらも苦手なイザンバにとっては中々に辛い。彼女から重い溜め息が漏れる。
「出来る範囲でいいさ。そんな事より座らないのか?」
「……はい、失礼します」
気落ちしたまま、イザンバはコージャイサンの向かい側のソファーに腰を下ろす。
着席してすぐにカップが置かれた。ヴィーシャだ。彼女はまた一つ役目を終えると、壁際に並ぶ仲間の末席へと移動した。
さて、気を取り直して本題に入ろう。
まずはイザンバの紹介からだ。
「今日はコイツらと会わせたくてな。お前たち、俺の婚約者のイザンバだ」
「イザンバ・クタオです」
背筋を伸ばし、ふざけた表情や言動をなくせばたちまち貴族の令嬢となる。入って早々にパンチの効いたところを見せているが、それはそれ。挨拶はしっかりとしよう。
イザンバに対して新参の四人は礼を返した。
「イルシー以外にも居たんですね」
「まぁな。左からファウスト、リアン、ジオーネ。今一緒に来たのがヴィーシャだ」
確かどの人物も何やら癖があったはず、とイザンバは引っ張り出した記憶の糸を太くする。
イルシーだけでも濃いのだが、彼を含めて五人も追ってきた。それも、殺す為ではなく、その技を捧げる為に。
あの邂逅で随分と惚れ込まれたんだなぁ、とイザンバは感心する。
「左の二人は市場調査に出るが護衛に入ることもある。顔と名前は覚えておいてくれ」
そう言われて左側の二人に目を向ける。
イザンバと目が合うと、使用人の服を着た厳ついスキンヘッドの男性が頭を下げた。
「ファウストと申します」
「僕はリアンです。宜しくお願いしまーす!」
それに大きめの服を着た薄緑の可愛らしい少年が続いた。リアンは元気良く挨拶をすると、可愛らしくイザンバにお願いを口にする。
「あのね、イザンバ様。ファウストは顔が怖いけどそんなに悪い奴じゃないから怖がらないでやってね!」
「おい、リアン」
ファウストが止めに入るが、リアンはそれを無視する。ただイザンバに向けて、元気に、可愛く、現実を告げる。
「本当大丈夫だよ! カタギじゃないオーラすごく出てるけど、ちょっと人より力が強いんだけなんだ! 人間の頭をグチャッて握り潰すだけd……」
その口をファウストが後ろから羽交い締めにするように手で塞いだ。勿論手加減はしている。彼はリアンごとイザンバに向かって頭を下げた。
「失礼致しました」
イザンバは返事をするでもなくポカンと口を開くだけ。リアンは拘束から抜け出すと、ファウストに向かって噛み付いた。
「何で止めんの⁉︎ 知っといた方がいいじゃん! 護衛してる時に目の前で人間の頭が潰れてみなよ! 発狂されたら護衛どころじゃないんだよ⁉︎」
「だとしても順序があるだろう。まずは自分たちに慣れてもらわねば話にならん」
「はぁ⁉︎ 僕らに慣れても現場に慣れてなきゃ意味ないでしょって言ってんの!」
「それは自分たちが案ずることではない」
「お嬢様に気遣いすぎて何も出来ないとかだったらどうするのさ!」
宥めようとする年長者ファウストにヒートアップする最年少リアン。それを止めたのはこの人。
「そこまでだ」
コージャイサンだ。パチン、と指を鳴らすと、次の瞬間には絨毯が形を変える。リアンの足元から目の下までをぐるぐると巻き付いたのだ。
不意に足を一纏めにされた事でバランスを崩し、リアンは床に倒れ込んだ。それを見て、コージャイサンが頬杖をつきながら零す。
「やっぱりまだ早かったか」
「実力はあんだからそう言ってやんなよぉ。なぁ、リアン?」
そう言いながらイルシーが芋虫のように転がるリアンを踏み付ける。
イルシーに足蹴にされた事に苛立ったのだろう。リアンは下からきつく睨み付けるが、イルシーは面白がって更に足で突き回した。
そんな二人は放って、ファウストはコージャイサンに向かって膝をつく。
「主、お手を煩わせ申し訳ありません」
「気にするな」
「イザンバ様、リアンが失礼を致しました。自分は極力近づかないように致しますので、どうかご安心いただければと」
コージャイサンから赦しを貰い、イザンバへ。
しかし、イザンバは何も言わない。ただ口に手を当てて震えている。
やはり怖かったのか、とファウストが気落ちする中、コージャイサンがイザンバに声を掛けた。
「どうした?」
「挨拶だけじゃなくてこんな風に気を使ったり話してくれるなんて! イルシーなんて捕まえて会話するまでにどれだけ苦労したか……!」
怖がった訳ではなく感動で打ち震えていただけだった。当のイルシーはリアンの上に座り込んでケラケラと笑う。
「そんなこともあったなぁ。ま、状況が違うんだから仕方ないよなぁ」
「イルシー、お前……」
「済んだ話だ、気にすんなぁ。そのお陰でイザンバ様は金払いがいいって分かったしな」
ジト目になったのはファウストだけではない。イルシーの気ままさに、同郷の四人が溜め息を吐いた。
ほぼ赤の他人への配慮よりもまずは謝罪優先。
彼らに対してストレートパンチで先制です。