7
夢舞台、裏
時は少し遡る。
イザンバとダンスを踊った後、足早に人波を抜ける男性——ダン・アードッグは会場を出たところで誰かとぶつかった。相手は茶髪で細身の気弱そうな男だった。思わず舌を打つが、無視するわけにもいかない。
茶髪の男はダンと目を合わせると申し訳なさそうに謝罪をした。
「すみません、大丈夫ですか?」
「ええ。そちらは?」
「私の方も大丈夫です。あの、顔色が悪いみたいですが」
気を使うその男にダンは見覚えがなかった。高位貴族の顔と名前は把握している。ならば、この茶髪の男は自分より下だな、とアタリをつけるとぞんざいに言い放った。
「大事ないなら結構。急いでいるのでこれで失礼……」
言い終わる前にグッと右手首を掴まれた。男はそのまま手首を返す。ダンが隠していた掌の火傷が外気に晒された。
「これは……」
突然何をする、と訝しむダンに驚愕の眼が向けられる。
「これはいけません! 早くこちらへ!」
「おい⁉︎」
問答無用とグイグイとダンの手を引っ張り、馬車留めへと向かう。この男、細身の癖に中々力が強い。
「おい、待て! どう言うことだ!」
「あなた、イザンバ・クタオ伯爵令嬢に手を出しましたね」
早足で歩きながらも放たれた核心をつく言葉にギクリとした。
「これは彼女の守護が働いた印です。この火傷は彼女の思考に手を出した者に刻まれるのです。そして、これを目印に追っ手がかかります。あなたを始末するために」
「なぜ、そんなことが……あの程度の女に?」
「それ程までに護られているということです」
馬車の扉を開け、ダンを押し込むと男は捲し立てた。
「お逃げください! もう守護の者は気付いている! さぁ、この馬車でお早く!」
「くっ! 感謝する」
男の勢いに呑まれ焦りが生じたダンはそのまま感謝を伝えると扉を閉めた。走り出した馬車の中、座席で右手を隠すように背を丸めてジッと息を潜める。
暫くしてから外の景色を覗き見、無事に王宮から脱出出来たことにダンは安堵の息を漏らした。丸めていた体を伸ばし壁に頭を預けると、この先のことを考える。
——間一髪というところか。あの男に会わなければ危なかったかもしれない。守護などとはふざけている。自分にそれ程の価値があるとでも思っているのか? たかが女一人の思考を読んだだけで始末される謂れはない。
平凡、平均、十人並。それがイザンバの評価である。そのはずなのに……。まさかの反撃に痛みと汗が滲む。
グルグルと回る思考の中、ダンは一つの疑問に行き着いた。
「……なぜ知っていた?」
ポツリと零れ落ちた疑問はその波紋を広げていく。幾重にも、幾重にも。
ダンは己の掌を見つめる。特別な文様が浮き出ているとか、ずっと光っているだとかそんな事はない。何の変哲もない、ただの火傷だ。
「あの男は何故、守護のことを知っていたんだ?」
疑問を追求しようとしたその時。ガタン! と大きな音と共に車体が揺れた。体勢を崩し床に座り込んたが、ダンは守護者の追跡を警戒してそのまま姿勢を低くした。
しかし、馬の嘶きも御者の声も、外からの音は何も聞こえない。警戒しながらも恐る恐る窓から様子を伺った。
「ここは、何処だ?」
外は暗く、明かりが一つもない。街中ではない、という事だけはわかった。警戒心と共に心拍も跳ね上がる。そして、右手の痛みも。——たらりと汗が頬を伝う。
「よぉ。気分はどうだ?」
唐突に、先程の男が扉を開けて入ってきた。
「さっきの! どういうことだ⁉︎ 何故止まったんだ!」
混乱そのものの言葉に男はただ嗤う。王宮で会った時の気弱さは鳴りを潜め、ニヤニヤと嗤うその姿はダンに吉報をもたらすのだろうか。
「まぁ、座れよ」
先程よりもトーンの下がった声で、ダンの手首を強引に引っ張り着席を促した。
「アードッグ伯爵家の次男坊、ダン・アードッグ。学生時代からその要領の良さで一部からの評価は上々。家督を継ぐことができない分、頑張らなきゃだもんなぁ。アンタが仲良くしてた貴族が言ってたぜ。『私の心の内を理解して動いてくれる素晴らしい人だったわ』って。……思考、読めるんだろ?」
鋭く投げかけられた最後の一言にダンはヒュッと息を呑んだ。そんなダンの様子を知ってか知らずか、尚も男の言葉は続く。
「ハハッ、狭いテリトリー内ならそれでお上手に立ち回れただろうけど、ツメが甘いよなぁ」
ふと、男に掴まれている手首が目に入った。
——まさか、とダンに戦慄が走る。勢いよく男の手を振り払うと声を張り上げた。
「貴様、何のつもりだ!」
男は振り払われた手をプラプラと揺らしていたかと思えば、狭い馬車の中でズイっと間合いを詰めた。驚くダンの右手に爪を立てると、面白そうに言う。
「その手、痛むんだろう? いい具合に焼かれたじゃねーか」
「なっ……!」
「イザンバ様は平凡だが、バカじゃないんだぜ」
ダンは慌てて右手を庇う。火傷によって弱った部分に爪を立てられ、痛みが増した。
「貴様が守護者か」
今までの発言から彼がイザンバの関係者であると十分に察せられる。睨みつけるダンに茶髪の男——イルシーは人好きのする笑みを浮かべた。
「さて、アンタには聞きたいことがある」
その笑みと言葉にダンの警戒心が一層強くなる。眼光を鋭くするダンに対して、イルシーはゆったりとした余裕を見せつけた。
「『防衛局の機密情報を持ってくれば、官僚として取り立ててやろう』」
ビクリ、とダンの体が揺れた。勿論イルシーがそれを見逃すはずもなく、更に笑顔の圧をかけながら問う。
「そう言ったのは誰だぁ? 北側の国の訛りがあるヤツって小耳に挟んだんだけどさぁ」
「…………何の事だ? 私には覚えのない事だ」
とぼけるダンにイルシーは楽しげだ。軽い調子で会話を続ける。
「いいぜぇ。じゃあ、説明しようか。最近は頻繁に茶会や夜会を開いてるな。そして、必ず北側の国で飲まれているハーブティーを出してる。国交がない今、どうやってそれを手に入れているんだ?」
「……茶葉は行き合いの商人から買ったものだ」
「商人ねぇ。わざわざ路地裏の倉庫で会う商人ってどうなんだ?」
疑問を投げかけているようだが、答えは欲していない。足を組み、頬杖をつきながら尊大にイルシーが言い放つ。
「そうそう、その招待客の中に必ず防衛局関係者の女性貴族がいるとか。庭園へエスコートをしたり、ダンスに誘ったりすりゃあアンタとしては儲けもんだよな。会話で防衛局や関係者のことを連想させることで、より思考は読みやすくなる。例え精度がゴミクズでも触れ合う時間が長けりゃそれなりに自分の知りたいことを探る事ができるって寸法さ。ああ、さっきはイザンバ様にやろうとして失敗したけどなぁ」
《自業自得》に阻まれたことを引き合いに出し嘲笑うイルシー。それに、ダンの怒気は上がっていく。
「恨むなら自分のツメの甘さを恨めよ。ほら、さっさと『商人』について吐いてくんねぇ?」
「貴様に話すことなど何もない!」
そう叫ぶと同時にイルシーに向かって火の玉を投げつけた。あまり威力は強くはないが至近距離での攻撃だ。目眩しにはなるだろうと打って出た。
「今のうちにっ!」
そう言ってダンは外に出ようと扉に手を掛けるがビクともしない。先程はなんなく開いていたというのに……。背後でイルシーの笑みが深まった。
狭い馬車内に充満していた熱と黒煙が何かに吸い寄せられるように一箇所に集まっていく。
イルシーが掌で起こした小さな竜巻が熱も煙も絡め取ったのだ。ダンが目を凝らすと、彼は何のダメージも受けていないことが分かる。それは余裕綽々の態度でダンとの実力差を見せつけた。
「ハハッ、上等! 口を割らせる手段はいくらでもある。どの道アンタに拒否権はねーしなぁ」
「クソっ!」
だが、ダンはまだ諦めていない。グッと歯を食いしばると、イルシーに向かって恫喝する。
「……私は貴族だぞ! 手を出していいと思っているのか!」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。イザンバ様に手を出した時点でアウトだって。アンタもう詰んでんの。人生はここでオワリ。はい、お疲れさーん」
「何を言っている! 問題を起こせば貴様もあの女もタダでは済まんぞ!」
イルシーはまるでダンの神経を逆撫でるように喋る。ダンがいくら声を張ろうともどこ吹く風だ。イザンバに害が及ぶと言ってもそれは変わらない。
これはもしや、とダンは考えた。
「貴様、中々優秀なようだが所詮は雇われだろう。金ならあの女の倍払う! 私に付け!」
ダンは自分に降りかかる火の粉を払うために、そう打診したのだ。金、と聞いてイルシーは口元を緩めた。
「へぇー。イザンバ様って中々金払いがいいんだせ?」
「じゃあ三倍、いや、五倍でどうだ!」
明確な金額を提示せずとも五倍出すと言い出す始末。金に糸目をつけないのか、それ程までに必死なのか。あまりにも滑稽で愚かだと、イルシーはケラケラと笑う。
「そりゃ魅力的だ」
「なら……っ!」
イルシーの返事にダンは一縷の希望を見出した。だが、その希望はすぐに絶たれることになる。
「でも、残念だったなぁ。俺の主はイザンバ様じゃねーよ」
「え?」
雇い主はイザンバではない、とイルシーは明言したのだ。その言葉にダンは呆然とする他にない。
「アンタ、何の目的でイザンバ様に手を出したんだ? 何でイザンバ様を選んだんだ? もう忘れたのかぁ?」
イザンバが纏っていた色は——。彼女の隣に悠然と立ち、引き出したかった情報に通ずるのは——。
体を固くし、思考を巡らせるダンにイルシーはまた軽い口調で声をかける。
「さっきから必死だなぁ。でも、もう手遅れだから諦めな」
「そんな……」
「そもそもさぁ、王宮を出る直前で騎士にすら会わなかったんだぜ? この意味、分かる?」
そう、会場から王宮を出るまで彼らは一人の騎士とも会わなかった。それは何故か。
騎士ではなく守護者があの場に居た。それは何故か。
——黙殺されていた?
万が一《自業自得》が発動した時、どう動くべきか、そのための手筈は整えられていたのだ。
与えられた気付きにより顔色を失っていくダン。思考速度が鈍った彼に、今この場を切り抜ける策は浮かばない。伝う冷や汗、ズキズキと苛まれる右手に、ただただ浅い呼吸を繰り返す。
その様子にイルシーは湧き上がる感情のまま表情筋を緩めた。
「なぁなぁ。廃人になってから全ての思考を晒されてゴミになるか、廃人になる前に自分から喋って綺麗に散るか。どっちがいい?」
まるでメインディッシュが先かデザートが先かと言うような口調だが、廃人が前提の提案に誰がノるのか。
そうなるまで自分は何をされるのか……鈍った思考でも望ましくない展開だと分かる。
どっちも嫌だ、と言葉も発せずに何度も首を振るダン。
やれやれ、と首を竦めるとイルシーが諭すように語る。
「ダン・アードッグ。俺はアンタに礼がしたいんだ」
「…………礼?」
「そぉ。イザンバ様ってああ見えて突拍子もないから、お守りも退屈はしないんだけどさぁ。でも、俺は元々こっち向きだし? 本領発揮できる場が回ってきたんだ。張り切らねーほうがおかしいだろ?」
ダンはイルシーを守護者だと言った。主人からの命で護衛をしているからあながち間違いではないが、本職は別なのだ。護衛によってフラストレーションは溜まる一方だったのだが、ここに来て解放の許可を得た。それはつまり……。
——己の矜持が守られた。
その事にイルシーの気分は高揚しているのだ。だから、礼がしたいと言う。
「簡単に終わらせねーよ。どんなに手間がかかっても汚れても、ちゃーんと最期まで付き合ってやるからさぁ」
言うや否やイルシーがダンの隣に移動した。そして、その耳元で優しく囁くのだ。
「アンタを唆したヤツの事、俺に教えてくれよ」
身動きが取れないダンが最後に視界で捉えたもの。それはニィッと歪む口元だった。
歪な三日月のもと、贄は捧げられる。
欲をかいて身の内に招いた甘露は毒となって破滅を呼んだ。
小さな獲物は終末の祭壇への案内人。その先で待ち構えていた執行人が贄に向かって仄暗く笑う。
誰に気付かれることなく、誰に救われることなく、贄は静かに沈んでいった。
適材適所で本領発揮。