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夢舞台、舞台袖。
やっとの思いでテラスへ出るとイザンバは顔の下半分を覆って視界を閉した。眉間に皺まで寄っているあたり、限界値が察せられる。
コージャイサンは素早くテラスに防音魔法を張ると、自らを壁としてホールからの視線を遮った。そして、じっと耐えているイザンバを促した。
「ザナ、もういいぞ」
「フ…………ハ…………」
コージャイサンの言葉に誘発され、強張った身体に留められていたモノが開放の音頭を上げた。
「ハクシュン! ハクション! ハプション! ヘッッップション!」
くしゃみ連発、危機一髪。止めようとしてもムズムズとする鼻は容赦なくその反射を繰り返す。
「おっと、そっちだったか」
「すみ、クシュン! すみません。皆さま気合が入っているのは、ヘップシ! 分かるんですけど香水が、ヘッキシ! いつも以上に濃くて、ハップシ! 混ざるとキツ、ふぇッ……クション!」
「ああ、それは辛いな」
イザンバの反応が薄かったのは、令嬢に気圧されていたからではない。刺激され続ける鼻腔の暴動を気合で押さえ込んでいたからなのだ。
防音魔法があってよかった。そうでなければ「淑女が人前でそのようにくしゃみを連発するだなんて」とまた要らぬお小言をもらっていただろう。
それにしても、とイザンバは不思議に思う。
「コージー様は平気なんですか?」
再度起こりそうな鼻腔の暴動を宥めている自身の隣で、コージャイサンはいつもと変わらず涼しい顔をしている。
疑問に答えるべく至極真面目な表情でコージャイサンが口を開いた。
「知っているか? 浄化機能付きの極小の結界を張れば鼻腔は守られる」
「待ってナニソレずるい!」
飛び出したのは賞賛でも驚嘆でもなく捻くれた感情。真相を知ったイザンバは手摺りに手をついて落ち込んでいる。
「……そんなのがあるなら先に教えて欲しかった」
「いや、聞かれなかったから。それに今まで参加した夜会でもそんな素振り見せなかったじゃないか」
「今日の、皆さまが、気合入りすぎなんです! ああ、思い出したらまた鼻がムズムズしてきた」
そう言って鼻を押さえるイザンバ。さりげなくコージャイサンは距離をとったが、第二波は不発に終わった。
鼻に不快感を持ったまま、イザンバは当然とも言える疑問を投げかける。
「ちなみにですけど、一体いつその結界を張ったんですか?」
「会場についてから」
しれっとサラッといい笑顔でいう男、コージャイサン・オンヘイ。つまりは最初からという事である。
その事実と笑顔にイザンバは呆気に取られた。
国王陛下への挨拶に始まり、ダンス、嫌味の応酬と忙しなかったので仕方がなかった。仕方がないのだが、耐える自分の横で悠々としていた姿の真実にこんな術式があったなんて、とじわじわと悔しい感情が押し寄せてくる。
「そのいい笑顔がなお腹立たしい!」
負け惜しみとも言える言葉を吐き出すイザンバに、コージャイサンが小さく吹き出した。
クツクツと笑うその姿はイザンバの思考を冷静な方へと導いていく。恨み言を言っても仕方がない、と一つ息を吐き出して思考を切り替えた。
「浄化って結界に付与出来るんですね」
「魔導研究部の先輩に教えてもらったんだ。聖結界の応用だ。浄化によって有害物質をカット、新鮮な空気のみを肺に送る事ができる。動植物の中には身を守る為に刺激臭を放っている種類があるのは知ってるだろう? そう言ったものの採取の時に使うんだそうだ」
「へぇ、そうなんですね」
世の中に溢れるのが良い香りばかりとは限らない。言葉にし難い香りを放つモノが確かに存在するのだ。イザンバもその存在は知っている。勿論、良い香りであっても過ぎれば香害なのだが。
「後は先輩の研究室から発せられる異臭に耐える為とか」
「え? 先輩は一体何をしているんですか?」
「……知らない方がいい」
イザンバの好奇心にコージャイサンはゆるく首を横に振ると、そのまま結界の説明を続けた。
「実際は有害物質の眼や口からの侵入を防ぐ為にも顔全体に張るんだけどな。視界良好、粉塵対策完璧、呼吸循環問題なしで異臭部屋での作業にも持ってこいだ」
「植物採取より大変な異臭部屋作業って……」
思わず零れたイザンバの言葉に遠い目をするコージャイサン。魔導研究部の一室で一体何が起きているのだろうか。
イザンバにはそれを知る由もないが、ただ励ますようにコージャイサンの肩に手を置くと二人は頷き合った。
「まぁそんな時に使う術式なんて特殊だし、需要が少ないからあまり知られていないけどな」
「需要なら有ります! 今まさに!」
香害反対、と真っ直ぐにイザンバが手を挙げる。余程辛いのだろう。勢いが前のめりだ。
「構わないが、流石にこれは顔に触れるぞ?」
「どうぞどうぞ! 今はテラスだからいいですけど、帰りにまたホールを通らないといけないですし。あの強烈に混ざり合った香りから解放されるのであればそれくらい問題ないです」
なんとも軽い返事だ。暴動が鎮静化され、更に強固な守りがつくのだ。ウキウキである。規模は極小、イザンバの鼻腔の話だが。
お願いします、と瞳を閉じて無防備に預けてくるその姿がダンスの最後の姿が重なった。
「そう言えば、何でダンスの最後に引っ付いてきたんだ?」
いつもはしない行動だ。コージャイサンは強烈な違和感の解を求めた。
「ああ、アレですか? 悪臭ってわけではないんですけど、やっぱり色々混ざるとキツいじゃないですか。鼻を休ませたかったって言うか。だってコージー様の香りはいつも通りだったし、鼻に優しいし落ち着くんですよね〜」
「そうか」
なんて事はない、戦場に赴く前に安らぎを求めたということだ。主に鼻腔の話だが。
イルシーから事前に何か言われて気負っていたのかと考えもしたが、どうやらそれは違ったようだ。
コージャイサンがそっと頬に触れる。閉ざされた瞳、滑らかな肌を彩る頬紅、月明かりを反射する耳飾り。夜風とは違うあたたかく柔らかい魔力がその肌を撫でていく。
「ザナ」
コージャイサンの声に終わったことを悟るイザンバ。試しに大きく深呼吸をしてみると、刺激もなく、暴動の心配もなく、快適に出来る鼻呼吸。なんとスッキリとした世界だろうか。
感謝を伝えようと顔を上げて驚いた。
「近っ!」
あまりの近さに声を漏らす。その距離、およそ拳二つ分。
「ちょ、コージー様近い! 近いです!」
「気にするな」
「意味分かんないですけど!」
「ザナ、しー」
焦りからのけぞって距離を取ろうとするイザンバにコージャイサンが己の唇の前に指を立てて示す。
「防音魔法で音が漏れなくても奇妙な動きをすれば目立つぞ。会場は近いし庭園にも人がいるんだ。ほら、淑女の仮面を付け直しておけ」
「わーい、安心安全コージー印の仮面ですね。って、またコレですか! ホントどこにしまってるんですか⁉︎」
「紳士の嗜みだ」
「知ってたー!」
全くもって二人ともいつも通りである。だが、コージャイサンは手摺に手をつきイザンバを囲い込むとジッとその顔を見つめた。
「……なんですか?」
マジマジと見られると流石に居心地が悪いのかイザンバがぶっきらぼうに問う。
「ザナは普通だからな」
「え? なんでいきなり貶すんですか? 嫌がらせですか?」
「いや、そうじゃなくて……」
いきなり下手を打った。コージャイサンは切り出し方を間違えたのだ。イザンバを解放すると、その隣に落ち着いて語り出す。
「騎士団や魔術士団で訓練してても、出来ない時は何も出来ない。訓練で大口叩いてる奴がいざ戦場に立てば何の役に立たないとかも少なくないんだ」
「はい?」
話が見えずイザンバが首を傾げる。
「ザナはごく普通の令嬢だったんだ。違うか、普通からも多少いやだいぶ、かなりズレているけれども」
「やっぱり貶してますね」
「だから違うって」
ジト目のイザンバに弁明を経て、再度口を開くコージャイサン。
「学園の授業で弱い魔獣討伐はあったが、基本的に令嬢は戦闘訓練をしなかっただろう」
「そうですね。グループ課題の時も騎士や魔術士を志す人たちが活躍してましたし」
「その騎士や魔術士だって初めて実践で人を傷つける時には躊躇するし、命を奪った重みで潰れていく奴だっている。ザナ、動揺するのは普通なんだ」
そう言って手摺に置かれたイザンバの手をギュッと握った。イザンバと視線が交わると真っ直ぐに言葉を送る。
「それでも叫ばず、逃げず、よく頑張ってくれた。ありがとう」
顔に触れた時に目に入った翡翠を抱いた三日月。ダンスの最中に感知した《自業自得》の発動。
コージャイサンは護るために灯った火によってもたらされたイザンバの心の陰りを慮った。唐突な話題転換はイザンバを励まそうとして起こったのだ。
「コージー様、ありがとうございます」
ふにゃり、とイザンバが気の抜けた笑みを向ける。疲労と鼻腔防衛線の裏に隠したモノは見つかってしまった。顔が近かったのはその確認だったのだと理解したから。だからこそ、感謝を込める。
「いつも助けてくださって、守ってくださって、本当にありがとうございます。さっきもワザと私に喋らせないようにしてくれたでしょう?」
「動揺していると思ったからな。その状態じゃいつもみたいに切り返せないだろ?」
「何でもお見通しって感じですね」
クスクスと笑うイザンバだが、笑いを収めるとポツリと零した。
「もっと、ちゃんと出来るつもりでした。いつもコージー様の気遣いや強さに甘えていたから、自分で出来ることを考えたつもりでした。これくらいなら私でも出来るって……」
殺めたわけではない。それでも『自らが手傷を負わせた』その事実がイザンバに重くのしかかる。——想像よりもずっと重く。
それでも自分で決めたことだから、とイザンバはグッと拳を握りしめて宣言した。
「次からはもっと綺麗に、躊躇わず、容赦なく焼いてみせます!」
「ああ、そっちに行くのか」
やる気漲るイザンバの頭をポンポンとコージャイサンが撫でる。
「無理しなくていいからな。そういうのは本職に任せておけ」
「あー、ね、はい。そうですね」
誰が何をするのか。察しはしたが、それを止める権利を自身が持っていない事をイザンバは理解している。いつ何時にあるかもしれないその瞬間が脳裏を過ったが、今はただ曖昧に受け流す。
「ん?」
「どうした?」
「アレってもしかして……」
果たしてイザンバが視界に捉えたものとは。
くしゃみが出そうで出ないあの感覚ってほんともどかしい。