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「若奥様のお部屋は寝室を挟んで若様と続き部屋なのですが、ご移動中に何かあってはいけませんのでひとまずこちらを控え室としてご用意しました」
リンダに案内されたのは普段は客室として使われている一階の部屋だ。
高級品を纏っている身としては移動は少ない方がいい。階段の登り降りを避けてくれた事にイザンバはホッとした。
今日この場所はプライベートエリアとして隔離され、現時点で不埒者が邸内にいる事はまずないだろうが、それでも忙しさの中に浮ついた空気があるのは事実。警戒心を怠らない護衛たちはそれぞれ窓と扉の前で控える。
「さぁ、ベールを外してメイクを直しましょう。若奥様、こちらへどうぞ」
「はい」
ヘザーに導かれるようにイザンバは鏡台の前に腰掛けた。
さて、イザンバがメイク直しをしている間に続々と招待客がオンヘイ公爵家を訪れる中で一組の親子に声がかかる。
「ジンシード子爵令嬢様ならびにご家族の皆様。我が主がお呼びでございます。どうぞこちらへ」
イルシーによって通されたサロンが調度品一つとっても子爵家と違いあまりにも立派で、彼らはソファーで身を寄せるように縮こまった。
しばらく待っていると輝かしいオーラを纏った本日の主役の一人が登場だ。
距離があった挙式と違い間近に迫る美の暴力。生来の美貌に上乗せされた花婿の華やかさと艶やかさをみせるコージャイサンに子爵一家は呑まれた。
「突然呼び出して申し訳ない」
その声に、子爵家の中で真っ先に反応したのはカティンカだ。素早く立ち上がり、まだ少々固い淑女の礼を。
「滅相もないです。コージャイサン様、本日はご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。ザナにも後で会ってくれ」
「はい」
挨拶を交わす二人にハッとして子爵たちも慌てて立ち上がった。
パーティーが始まれば主役二人は招待客への挨拶に時間を取られる。ゆっくりと話せるのは今しかないのだ。突然だろうがなんだろうが呼ばれたのなら彼らは喜んで馳せ参じるのみ。
コージャイサンの視線が父子爵に向いたのを確認して、カティンカが口を開く。
「コージャイサン様、ご紹介します。父のルサーク・ジンシード子爵と母のマヌフィカ・ジンシード子爵夫人、そして弟のハマルです」
「初めまして。コージャイサン・オンヘイです。急な招待にも関わらずよく来てくれました」
「お呼びいただきまして恐縮です。オンヘイ公爵令息様、この度は誠におめでとうございます。子爵家一同、心よりお慶び申し上げます」
ルサークの口上に子爵一家が揃って頭を下げる。
「ありがとうございます。時間がないので早速本題に入りましょう。どうぞそちらに」
「失礼いたします」
全員着席したがリラックスしているコージャイサンとは反対に彼らの姿勢も雰囲気も大変固い。
「手紙にも書いた通り、私からカティンカ嬢にある依頼をしました」
「はい。誠に光栄な事でございます」
「この件に関して同じ場所で使用する事もまた重要なんです。これはもう一人にも同じ条件で頼んでいます」
「はい」
ここまではルサークも手紙を読んで理解している。
だが、肝心なのはここから。「つまり」と言ったコージャイサンの瞳は、さながら狙いを定めた肉食獣のよう。
「彼女の嫁ぎ先探しを一旦止めていただきたい」
「え⁉︎」
これには全員が驚いた。カティンカなぞまたぱっかりと大口を開けている。
結婚を急かされずに済むのは彼女としては有り難いが、仕事の内容にどう関係があるというのか。
疑問に思うのは子爵夫妻も同じ。しかし、こればかりはすぐに応じるとは言えない親心がなけなしの抵抗を試みる。
「ですが、その……何分、娘は……年齢が……」
言いたい事は分かる、とコージャイサンが手を上げて子爵の発言を止めた。そして主の視線を受けて口を開いたのはイルシーだ。
「御息女の結婚相手への要望は、趣味に理解のある人、似たような趣味の人。もし許容出来ないなら不干渉である事。それならば無関心、白い結婚、お飾り夫人でも問題ない……間違いないですね?」
「あ、はい」
「そしてジンシード子爵は後添えを求めていらっしゃる家への打診を検討していらっしゃる」
「……はい」
なんで知っているんだ、なんて聞いたところで教えては貰えないだろう。子爵一家は驚くやら恐ろしいやら。
「後妻となるとすぐに来て欲しいという家もあるでしょう。だが、それでは困る」
そう、カティンカにはまだそこにいてもらわないと。これを言う為だけにコージャイサンは子爵一家を招待したのだ。
それでも、まだ迷いをみせるルサークにコージャイサンはゆったりと微笑んだ。
「いずれ防衛局での活用を経て市場に流通もと考えているものです。だからこそより正確な検証を行いたい。ご理解いただけますね」
——また、このプレッシャーだ。
と、カティンカは思った。
座っているソファーの高さは間違いなく同じなのに、どうしてか上から見下ろされているような心地になる。
チラリと横目で家族を見ると、彼らも感じているのだろう。顔色が悪い。弟なぞ完全に呑まれている。
問い掛けている体なのに決して拒否を許さない言葉と息苦しいほどの圧。
年若くとも間違いなくコージャイサンは高位貴族としての風格を持っていて。
それはカティンカの父母にはないものだ。恐怖に震える心に喝を入れて、その有無を言わさない微笑みに視線を向けた。
俯き、手を握りしめるルサークに妻から気遣わしげな視線が向けられる。
夫妻も分かっている。内心にどれだけの葛藤があっても求められている答えはこの一択だけ。
「…………はい。承知いたしました」
彼は今、父としてではなく子爵として判断を下した。
ふっ、と。コージャイサンの纏う雰囲気が軽くなったように感じる。
「助かります。その礼と言ってはなんですが、カティンカ嬢の結婚相手について私が世話をしましょう」
「えぇー⁉︎」
これはなんという事だろう。娘が行き遅れることをつい今し方断腸の思いで決めたのに、そこにとんでもない手が差し伸べられた。
彼らは驚きのあまり取り繕う事すら忘れたままコージャイサンを呆然と見る。
「こういってはなんですが、私の周りには身分を問わず有望な者も多い。まぁ防衛局内には癖の強い者もいますが。何より……カティンカ嬢はザナの大切な友人です」
だから手を貸す事もやぶさかではない、と彼は言う。
イザンバと友人になった事もにわかには信じられなかったのに、三日前からの出来事にジンシード子爵一家は目を回すばかり。
「そ、そのような事……あの、本当に、防衛局の方を紹介していただけると⁉︎ 本当によろしいのですか⁉︎」
前のめりな子爵の期待を湛えた瞳に、コージャイサンはゆっくりと口角を上げた。
「私も今し方結婚した身。御息女を思う夫妻の気持ちが分からないわけではありません。検証の為の時間はいただきますが、この件に関しては私が責任を持ちましょう」
その言葉に、夫妻の脳裏に先ほどの挙式が過ぎる。
後妻の場合、結婚式をしない事もあるだけに諦めていた娘の花嫁姿が見られるかもしれない、と。
また娘の結婚について聞かれても「オンヘイ公爵令息様がご縁を用意してくださるから」と言える為、下に見積もられる事もなくなる。
自然と子爵夫妻は床に膝をついた。
「っ——ありがとうございます! 誠、身に余る光栄にございます! このような幸運があって良いのでしょうか……あなた様に全てをお任せします!」
「このご温情、感謝の念に堪えません! 何卒……何卒よろしくお願いいたします!」
しかし、感動しきりの両親に対してカティンカはどこか釈然としなくて。
——なんか……売られた感があるんだけど。
要は結婚の決定権が父からコージャイサンに移ったのだ。
彼の手のひらで上手い具合に転がされているような感覚はヴィーシャの飴と鞭を彷彿とさせる。流石は主従、なんて諦念に達してすっかり気が抜けた。
ところが、吐き出した息が思いの外大きくて、コージャイサンと目が合った。
「心配ですか?」
「あー、いえ、その……この展開は予想外でして」
「最終的に相手を決めるのはカティンカ嬢です。俺も下手なところと縁を結べとは言いません。そんな事をしたらザナが悲しむ」
「行動原理がイザンバ様なの本当尊い!」
気が抜けすぎてつい反射が口を吐く。スッと目を細めたコージャイサンに、カティンカの肩がギクリと揺れた。
「まだ厳しさが足りないようですね」
「これはセーフでは⁉︎ 妄想はしてません!」
「俺は反射を飲み込めと言いましたが?」
「今のはコージャイサン様のイザンバ様への愛に感動したせいですからノーカンですよね⁉︎ 是非ともノーカンでお願いします!」
カティンカは腰を直角におりながらも、しかし強く主張する。
——ここでセーフ判定をいただかないとまた物理で冷やされる!
と思うからこその必死さである。
しかし、周りからすればカティンカの方こそが肝を冷やしにきているわけで、たまらずハマルが噛みついた。
「公爵令息様に何口答えしてんだ⁉︎」
「あんたは黙ってて! この違いは重要なのよ!」
「はぁ⁉︎ 姉さんが黙れよ!」
「ちょっと! 言葉遣いが悪いザマスよ!」
「こんな時にふざけんな! 姉さんだって人の事言えないだろ!」
ハマルがここまで静かだったのは列席者の豪華さや公爵邸の格の違い、何よりコージャイサンの存在そのものに圧倒されていたからなのだが、いつも通りに返してくる姉にカチンときた。
つい、いつものように返してしまった彼に母の悲鳴にも似た高い声が飛ぶ。
「二人ともやめなさい! オンヘイ公爵令息様の前よ!」
「あ」
「教育が行き届いておらず誠に申し訳ございません! 平に、平にご容赦を……!」
両親が頭を下げる様子にやらかした事を実感したが、これぞ後の祭り。彼らはただただ静かに沙汰を待つ。
ところが、コージャイサンは何やら思案顔。姉弟の言い合う姿がどうにも部下二人と重なるが、しかし彼らと何が違うかと言えばそれは姉弟が同じレベルに立っているという事だろう。
——やはりこの二人の躾直しは同時が良さそうだな。
ヴィーシャの報告でも頻繁に遠慮なく言い合っているが、まだ姉弟の情はあり修復不可能なほど合わないわけではないと上がっていた。
ならば、と口元がうっすらと弧を描く。
「あの……オンヘイ公爵令息様?」
恐る恐る伺いを立てる子爵にとって彼の沈黙は恐怖でしかない。
考えを纏めたコージャイサンは視線を上げると微笑んだ。
「姉弟仲がよろしいようで。今日は気分がいいので目を瞑りましょう」
「あ……ありがとうございます!」
首が繋がった事に子爵一家から安堵の吐息が漏れる。
だが、それは時期尚早というものだ。流れるように翡翠がカティンカに向けられた。冴えざえとした声と共に。
「カティンカ嬢、派遣した二人はそのまま付けておきます。しっかりと仕立て直すように」
「やっぱり続くんですか⁉︎」
「先ほどの話を聞いてなかったんですか? あなたの失敗が俺の顔に泥を塗ることになると理解していますか?」
「ヒェッ……!」
そう、例えばコージャイサンの紹介で誰かと会った時、カティンカの失敗は本人のみならず紹介者であるコージャイサンにも飛び火する。
三日前、暫く先生方の指導が続くような口ぶりに覚えた不安が確定された未来となった瞬間である。
「一人で考えても分からないならこの前のようにザナに相談すればいい。これからも励むように」
——その相談できる時間はいつですか⁉︎
なんて聞いてもいいのだろうか。いや、聞けやしない。それでもこうなったら彼女に出来る事は一つ。
「……ハイ。承知イタシマシタ」
物事を考える事を放棄したような返事になったが、カティンカは粛々と受け入れた。
コージャイサンはその言葉に鷹揚に頷くとゆっくりと立ち上がる。今度こそ、子爵夫妻は娘よりも早く反応して礼をとった。
「それでは、私はこれで。この後のパーティーも楽しんでください」
「ありがとう存じます」
ふと、去り際の彼の視線がハマルに向く。
「君も。チャンスは掴める時に掴んだ方がいい」
「え?」
突然の声かけにろくな反応もできないハマルにコージャイサンは不敵に笑むと、イルシーを残してそのまま立ち去った。
彼が一人居なくなっただけで空気が違う。ジンシード子爵家全員の口から出たのは緊張感からの大きな解放感。
しかし、落ち着いたところで彼の言葉の真意が分からずに一家は揃って首を傾げた。
「どういう事?」
「ジンシード子爵令息様がソクラテス卿に師事する機会は今を置いて他にはありません。きちんと学べば卿の仰る紳士たる者という意味もわかるでしょう。何より……」
イルシーはそう言うとハマルに向かってニッコリと微笑んだ。
「気になっている彼女に対して同級生よりも一歩抜きん出てリード出来るチャンスです」
「なっ!!??」
これにはまた家族から驚きの声が上がる。特にカティンカが食いついた。
「え、何、あんた好きな子いるの⁉︎」
「うっさい! 姉さんには関係ないだろ!」
「ほら、直すべきはそういうところですよ」
イルシーの指摘にハマルはグッと押し黙った。
その分かりやすさを内心鼻で笑い飛ばしたイルシーだが、おくびにも出さない。
「そろそろ皆様も会場へご移動を。まもなくパーティーも始まる頃合いでしょう。……ああ、特にジンシード子爵令嬢様、令息様。紳士淑女の振る舞いをお忘れなく」
前半は澄ました表情で、後半は凄みを足した微笑みで彼らを促した。
「ハイッ!」
しっかりと、ぐっさりと刺された釘はパーティーの間くらいは抜ける事はないだろう。
扉の外にいたファウストとリアンを引き連れて目的を持って歩いているコージャイサン。プライベートエリアに入った途端に両親と出会した。
「ジンシード子爵家か……わざわざ全員分のドレスを用意してやるほどの価値はあるのか?」
ゴットフリートから向けられる見定めるような鋭い視線。だが、コージャイサンは淡々としたもので。
「我が家にとってではありませんが、あちらで縁が出来ても害はないかと。アルにも……いらぬ苦労をかけましたから」
「三度の婚約解消だったな。まぁ結果論だがその時の相手と縁付いていなくて良かったな」
アーリスの元婚約者たちは二度と社交界には姿を現さない。これによりクタオ伯爵令息に瑕疵がないと証明されたのだから。
「あまり悠長にしていられないわよ。今アーリスは結婚相手として注目されているもの。あなたなら当然把握しているわよね」
セレスティアは言う。彼の押し上げられた価値を令嬢たちは放っておかない、と。
——公爵令息との良好な関係
——血を分けた妹の国家規模の価値
——同じく目覚めるかもしれない期待
本人に傲慢さや乱暴さがない事も令嬢たちにとって結婚後の安寧を思い描かせるプラス要素だ。
「ええ。ですが、アルは女性に警戒心を持ってます。その為に二人には俺からの仕事として依頼したんです。その反応も……予想よりいいものでしたし」
「うまくいくといいわね。さぁ! ザナのところに行くわよ!」
「なんで母上が張り切っているんですか」
「あら。誰があのドレスのデザインを手がけたと思って? 完成を間近で見たいのは当然でしょ。今日のあの子は国一番の花嫁よ!」
セレスティアだって今日という日を楽しみにしていたのだ。だが、息子の想いを知るからこそまだイザンバに声をかけていなかった。
やっと巡ってきた時間にその碧眼を煌めかせる妻を見て、ゴットフリートは優しく微笑んだ。
「そうだな。でも俺にとってはティアが世界で一番美しいよ」
「ふふ、嬉しいわ。ゲッツも素敵よ」
頬にキスを送り合う両親にコージャイサンはどこかげんなりした表情。
「やはり親子でございますな」
「あとはイザンバ様の慣れ待ちですか?」
「うるさい」
従者たちが揶揄するのは父子が同じ言葉を言ったから。この光景が彼らの主君夫妻の日常になるのだろうかと想像してみたが……どうにも難しいのはイザンバのせいだろう。
仲睦まじい親はひとまず放置して、コージャイサンはイザンバの元へと向かった。