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礼拝堂の席に両家、王族、そして貴族が位の高い順に並ぶ。今か今かと開始を待つどこか浮かれた空気を楽隊の生演奏が引き締めた。
まず現れたのは新郎。ひとたびコージャイサンが歩けば黄色い悲鳴と桃色の吐息があちこちから漏れる。
しかし、そんな周りの反応に頓着せずに祭壇前に辿り着いた彼はイザンバが現れる扉だけを見つめている。
そして、ついに新婦がエスコート役と登場だ。コージャイサンの美貌もさることながら、こだわり抜かれた衣装を見に纏うイザンバも輝かんばかりの美しさ。
エスコート役のオルディも伯爵としての堂々とした威厳ある歩みを見せる。
いまこの時、床を鳴らせるのは二人のみ。
純白の衣装に身を包んだ新婦が彼の元へ続く花道を行く。
祭壇の前、向き合ったコージャイサンとオルディはしっかりと目を合わせた。
——どうぞ私たちの娘をよろしくお願いいたします。
言葉も、涙も、出ていない。それでもしっかりと伝わる礼にコージャイサンも同じく返す。心得ました、と。
娘が父の手元を離れて彼と前を向いたその瞬間——オルディの目元を熱い想いが濡した。
大司教の顔を見てイザンバは内心で首を傾げた。祝賀パーティーの時に挨拶をした人と違ったのだ。
笑い皺の刻まれた老成円熟の境地に達した穏やかな笑みは「神は人々を愛し救う」という教義を体現しているようだ。
ひとたび大司教が口を開けばハリのある声が通る。
「コージャイサン・オンヘイ公爵令息。あなたは妻となる者を、悲しみ深い時も、喜びに充ちた時も、共に過ごし愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「イザンバ・クタオ伯爵令嬢。あなたは夫となる者を、悲しみ深い時も、喜びに充ちた時も、共に過ごし愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
「はい、誓います」
「では、誓いのキスを」
コージャイサンの手によってベールが上げられ、ついに露わになった花嫁の顔。
少し俯いてしまったイザンバの頬を彼の指の背が優しく撫でた。
「ザナ」
たった一言にどれだけの想いが籠っているのか。その意味の捉え方は——人によって違うだろう。
真正面から向けられたコージャイサンの蕩けた表情にイザンバの頬が熱をもつ。
まるで全身が心臓になったかのように躍動する鼓動。全神経は目に映る愛しい人に注がれて大司教の存在すら蚊帳の外だ。
世界に二人だけの静寂が生まれた時、彼女の瞼がゆっくりと伏せられる。
そっと、重なる唇の熱に確かな誓いを宿して。
唇が離れてから見つめた先、幸せそうな笑みを浮かべる姿があまりにも美しく、ギュッと強く、心を鷲掴みにする。
目が離せない——この世の誰よりも胸を高鳴らせる人から。
目を離したくない——この人が幸せだと思う瞬間を守っていきたいから。
そんな想いが表情に溢れ出た。
時が止まったかのような二人の世界にやっと外の音が入ってきた。大司教の声と列席者の拍手が。
「今日まであなた方の前に多くの困難が立ちはだかったと聞いています。時に苛立ち、辛く、悲しく、悔しい思いもあった事でしょう。思い悩む日々に投げ出したくなった事もあるでしょう。優しいだけではいられず、ままならぬ事もあったでしょう。ですが、それらの想いもまたあなた方の愛の礎」
飾り立てた綺麗な感情ばかりが愛ではない、と大司教は言う。
「痛みを知った上で互いを慈しみ、労わる。その心こそ真の愛。神はあなた方の愛を認め、この先も見守ってくださる事でしょう。では、結婚誓約書にサインを」
結婚誓約書は国に提出するものだ。まずはコージャイサンが、そしてイザンバに羽ペンが渡される。
二人のサインが並ぶと大司教は一層慈愛のこもった微笑みを浮かべ、高らかに宣言した。
「今、二人の結婚は成立しました! 二人の誓いに、未来に、神の祝福があらん事を!!」
祝福を告げる荘厳な鐘の音が鳴り響く。
その音色に負けない割れんばかりの拍手で礼拝堂が沸いた。
挙式の後はパーティーだが、こちらはオンヘイ公爵邸で行われる。
礼拝堂を真っ先に出た新郎新婦が移動のため馬車に向かう途中、見送りに出てきたシャスティと撮影機を持っているケイトを見つけてイザンバは笑顔になった。
「コージー様」
「ん?」
「あっちに向かってピース!」
その声にサッと反応するコージャイサンは流石である。ノッてくれた事に彼女はまた嬉しそうに笑う。
こうした姿を収められるのも今はまだ両家だけの特権。シャスティが笑顔で力いっぱい祝福の拍手を送る傍らで、ケイトはいつまでもシャッターを切り続けた。
イルシーとファウストが教会の扉を開けば、教会前には鐘の音を聞いて駆けつけた民衆がひしめき合う。祝福の歓声はまさに圧巻と言えるだろう。
笑顔と共に向けられる熱量にイザンバの体がよろめいた。宥めるようにコージャイサンの右手がエスコートに添えるイザンバの右手に触れる。大丈夫、と言うように。
その手に気付き、自然と見つめ合う形となった二人。その翡翠は絶大な安心感を彼女に与えた。
微笑み合う姿は正しく幸せの象徴といえるだろう。歓声は輪をかけて膨れ上がった。
さて、馬車に乗り込むと隣同士で腰を下ろす。大勢に見送られて、ついに馬車が走り出した。
その途端、コージャイサンによって当たり前のように張られる防音魔法。ここでやっとイザンバは一息つけた。
「あ〜〜〜、緊張した〜〜〜!」
「お疲れ。とりあえず一つクリアだな」
「コージー様もお疲れ様です。まぁ次の方が長いですけどね」
「そうだな。だからその前に——……」
「え?」
グッと腰を抱き寄せられたかと思えば近づいてくる美貌。思わず、手を挟んで阻止した。
「待って! さっき式で、その……しました!」
「アレは数に入らないだろう?」
誓いのキスは儀式、今したいキスとは別物だと彼は言う。
「入ります! それに窓! 外見えてるし!」
「閉めれば見えない」
コージャイサンが指を一つ鳴らせばあっという間に閉まるカーテン。
「えっと、口紅! 取れちゃうから!」
「塗り直せばいい」
「そういう問題じゃ」
ない。という前に言葉ごと彼の唇に絡め取られた。
強引な割に触れ方は優しくて。呼吸の余裕を残しながらも名残惜しむような啄む音を最後に離れた熱。
瞼を押し上げれば、甘さが溢れかえったような翡翠が間近にあってイザンバの心音がまた早くなる。
けれどもどうしてか目を逸らす事を許さないというように顎を固定されて、彼女は羞恥に茹だった。
対してコージャイサンはやっと恋慕に染まる瞳を見られてご満悦だ。うっとりとその美しさに見惚れている。
「コージー様、もうすぐ、着くから……」
「そうだな」
「あの、せめて、離れてくれないと…………かお……もとに、もどらない……」
目を瞑り、祈るように手を握り締めたそのか細い声の訴えにコージャイサンがしばし押し黙る。
中々解放されない事に焦れたイザンバが恐る恐る目を開けると、なんという事でしょう。無表情のお出ましです。
「え、また? それなんて言う感情なんですか?」
「もうパーティーに出ないで二人きりにならないか?」
「何言ってるんですか⁉︎」
「今なら許される」
「そんなわけないでしょう!」
もちろん、コージャイサンも出来ない事は分かっている。心情的には許されそうだが、現実的には到底許されない。
今日この日のために一体どれほどの金と労力が注ぎ込まれているか。王都を巻き込んだ盛り上がりに水を差すにも程がある。
またパーティーはイザンバが正式にオンヘイ公爵家の一員となった事のお披露目でもあるのだから、それに顔を出さないなんて……。部屋に籠ったところで突撃されるだろう。誰に、とは言わないが。
分かっていても彼は残念そうに息を吐いた。けれども少しだけ、やり返したい気持ちにもなっていて。
「——夜、楽しみにしてる」
「っ〜〜〜!」
イザンバの耳元で甘く囁くと、声なき声で悲鳴をあげる彼女を解放した。
張り付くように馬車の壁に身を寄せて、すっかり顔に溜まった熱を追い出すようにイザンバはパタパタと手で煽ぐ。
「あ」
「どうした?」
「いえ、大した事じゃないんですけど。大司教様、変わられてたんですね。知りませんでした」
「最近変わったんだ。火の天使が現れた事で民の意識も少し変わった。いい機会だから次代が守り繋げやすいものにする為に教会も世代交代で新しい風を入れていくつもりらしい」
「そうなんですか。教会も大変ですね」
どうして今変わったのか。挙式が終わった安堵に浸るイザンバがその事情に興味を持つ間も無くオンヘイ公爵邸へと到着した。
玄関にずらりと並ぶ使用人たち。降り立った新婚夫妻にモーリスが代表して出迎えの言葉を贈る。
「若様、若奥様。ご結婚、心よりお祝い申し上げます。若様の幼少のみぎりからの想いが報われて、使用人一同感慨無量でございます」
「そうだな。今日は忙しいが、これが済んだらお前たちもゆっくりと酒を飲んでくれ」
「ありがとうございます」
コージャイサンが淡々と、けれどもやはりどこか嬉しそうな雰囲気だからか、使用人たちの雰囲気もつられて華やかだ。
ふと、彼の視線が隣の驚いたような表情を捉えた。
「ザナ?」
「……若奥様」
「結婚したんだからもう婚約者とは呼ばないだろう」
「それはそうなんですけど……」
呼び方が変わりなんだか落ち着かない。だが、その些細な変化に結婚した実感がじわじわと押し寄せてイザンバは頬を赤くした。
そんな初々しい反応の彼女にモーリスが落ち着いたら声音で呼びかける。
「若奥様、改めましてご挨拶申し上げます。オンヘイ公爵家の執事を務めておりますモーリス・マナドリニにございます。度々お見かけ致しておりましたが、見るたびに淑女として成長なさるお姿に感服しておりました。このように眩い花嫁姿を見せていただき、このモーリスも感慨深うございます」
「ありがとうございます。色々と知られているから少し恥ずかしいですね」
「とんでもございません。そのウエディングドレスも若奥様の魅力が引き出されていて大変お美しゅうございます。奥様と若様が拘った甲斐があるというものです」
うんうん、と使用人たちも満足そうな顔であるが、まさか着る本人が当日まで知らなかったとは彼らも思うまい。
モーリスが隣に立つ二人に視線を向けると、彼女たちは一歩前に出た。
「こちらが若奥様つきとなるリンダ・ティージーとヘザー・アレットでございます」
「誠心誠意お勤めさせていただきます」
「なんなりとお申し付けくださいませ」
リンダは赤みがかった茶髪に桃色の瞳で笑顔がとても爽やかだ。
ヘザーは藍色の髪に深みのある同色の瞳にきりりとした面差しで、二人はイザンバと視線を交わすと揃って綺麗な礼をする。
「リンダ、ヘザー、よろしくお願いします」
「他の使用人の紹介もと言いたいところですが、何分人数も多く……。若奥様のお時間が出来ました時に改めて紹介したいと思います。ご不満やご不便がございましたらいつでもこのモーリスにお申し付けください。側付きの増員や入れ替えはもちろん、若奥様がお過ごしに困らぬようすぐに手配いたしましょう」
モーリスの言葉にも、側付きの采配にも、気にかけてくれている事がありありと伝わってくる。
「ありがとうございます。こちらこそ不慣れで手間をかけるかと思いますが、皆さんよろしくお願いいたします」
イザンバは全員の顔を見るように視線を巡らせたあと、淑女の礼を。
使用人相手に丁寧すぎるが今日だけはいいだろう、とモーリスも見守るように微笑んだ。
「さぁ、お二人とも。次の準備のご移動を。その前に……若奥様はお化粧直しが必要のようですね」
少しからかいを含んだ言い方にイザンバは気まずさを感じずにはいられない。俯いたあと、赤くなった頬のまま恨めしげな視線を彼に向けた。
それに対して頭を撫でて宥めようとしたコージャイサンだが、持ち上げた手が宙で止まる。どうやらヘアセットを乱すことを案じたようで、手は行き先を肩へと変えてゆっくりと撫でた。
「ザナが綺麗すぎるせいだな」
「何言ってるんですか? 綺麗っていうのは今のコージー様の事を言うんですよ。まさに傾国じゃないですか」
「褒めてくれてありがとう。でも俺にとってザナが世界で一番綺麗だし可愛いよ」
彼の美貌に慣れている使用人たちですら頬を染めるほどの真摯な声と甘く蕩けた翡翠が真っ直ぐに彼女に注がれる。
これではまるで先日聞いた惚気のようではないか、と。本来なら言葉を返すべきだが、羞恥心と敗北感にイザンバはたまらず顔を手で隠した。
——引きこもりたい!!
叫ばなかっただけ偉い。けれども隠しきれなかった耳をコージャイサンが指の背で撫でる。
「悪い。流石に今日は浮かれてる。お前たち、ザナを頼んだ」
「かしこまりました」
赤面するイザンバを一人置いて、端的な、けれど信頼の込められた声に、護衛たちを含めたイザンバ付き四人が声を揃えた。
すぐにでも別行動かと思ったが、コージャイサンは彼女の顔を隠す手を外させた。ゆっくりと触れ合う手の甲同士が、たった少しでも離れ難いというように。
「後で迎えにいく」
「……——はい。待っています」
——嬉しくて
——気恥ずかしくて
——愛おしくて
イザンバは込み上がる想いそのままに微笑んだ。
元より仲睦まじい事は知っていたが、早々に新婚夫婦の初々しくもお熱い雰囲気に当てられた公爵家の使用人たち。将来安泰を確信した彼らは澄ました顔の裏で全員がガッツポーズをとった。