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結婚式 1日前
その日、朝からクタオ伯爵邸内にはどこか落ち着かない雰囲気が漂っていた。
それもそうだろう。明日、この家の娘が愛し愛される男性の元に嫁いで行くのだから。
これは大変喜ばしい事である。
だが、この邸の光と言えるほど明るい彼女の旅立ちは使用人たちにとってもやはり寂しいもので。特に彼女を幼少期から知る古参の使用人にそれは顕著だ。
——明日、お嫁に行く……。
本人の内心は嬉しいというよりも緊張や気恥ずかしさで落ち着かない。それでも生家を離れる寂しさを抱いてしまうのは、いかに周囲の人に恵まれ、愛情を持って接してきてもらったからだと今なら分かる。
だからと言ってしんみりとしている……わけではなく。
「お嬢様ー!」
ただいまシャスティたちと元気に鬼ごっこの真っ最中である。
「ジオーネさん、居ましたか⁉︎」
「すまない! またタッチの差で逃げられた!」
「くっ……無駄に察知能力は高くいらっしゃる! ケイト、応援呼んであらゆるところから追い込みかけて! リナちゃんはもう一度隠し通路の確認!」
「了解!」
ちなみになんの鬼ごっこかというと、結婚式前日なのだから全身くまなくお手入れするぞとシャスティが意気込んでいたところの逃亡である。
返事と共にケイトが走っていくが、リアンは何故か動かない。
「ねぇ、ジオーネ。この前どうやってイザンバ様を捕まえたの?」
「どうって……お嬢様の方から出てこられたんだ」
「ふーん」
そう言って目を瞑り何かを考えている仕草を見せるリアン。暫くして、それはそれは可愛らしく言った。
「ねぇ、二人とも耳貸して?」
コソコソと内緒話をしたあと、三人は頷き合うと方々に散った。
「お嬢様ー!」
「イザンバ様ー!」
あちらこちらから何度も、大きな声でイザンバを呼ぶ声がする。シャスティ自身もだいぶ走り回ったのだろう。呼吸が荒い。
「もう! 本当どこにいるんですか⁉︎」
伝う汗を拭い、その猫目を辺りに巡らせるがイザンバの影も形もない。
「お嬢様! 出てきてくださーい! ……出てきてくださいよ……」
ぽつりと、走り回っていた時とは違う力ない声が落とされた。
垂れ下がった腕の先、ギュッと握りしめた拳の中に彼女はナニを閉じ込めたのだろうか。
「もう……お仕え出来るのは……明日のご準備が、最後なんですから……」
泣き言のような弱々しい声はいつも元気なシャスティらしいとは到底言えなくて。
俯き、立ち竦む彼女の後ろから近づく人影が一つ。
「シャスティ……」
イザンバだ。だが、シャスティは動かない。その肩が細かく震えている事に気付いたイザンバは申し訳なさそうに眉を下げてまた一歩彼女に近付き、そろりと腕を伸ばした。
「あの、ごめんなさい……私……」
シャスティに触れる直前、伸ばした腕がそれはそれは力強く掴まれた。
ギョッとしたイザンバが見たもの。
「つかまえたぁ〜」
「きゃあぁぁぁぁぁあ!」
——見上げてくるニタリと笑う姿が
——喜んでいるのに低く震えた声が
あまりにも不気味で、思わずイザンバは力の限り叫んだ。
「おば、おばけー!」
「誰がおばけですか!」
シャスティは頬を膨らませるがその手はしっかりとイザンバを捕まえている。
そうこうしているうちにジオーネが現れ、腰にはリアンのワイヤーも巻きついており、イザンバの素直さを利用した彼らの作戦勝ちである。
「やだー! 明日は一日忙しいんだから今日はゆっくりしてたいー!」
「新婦様が何言ってるんですか! さぁ、時間の限り隅から隅まで! 徹底的に磨き上げますよ! これで婚約者様もさらにメロメロ! お二人はもっとラブラブ! お嬢様の将来は安泰です!」
「あぁぁぁ……」
両脇をジオーネとシャスティに固められて連行されて行くその姿に、「こんな日でもやっぱりうちのお嬢様はこうだよなぁ」なんて使用人たちが生温かく見守っていた。
「いい運動になりましたねー。今から疲労回復と美肌効果のあるお茶挿れますねー」
「ケイト、それ終わったらこっち手伝ってー。ジオーネさん、そのオイルでお嬢様を揉みくちゃにしますよ!」
「任せろ」
イザンバはと言えば服を脱がされ、施術台の上に。これぞまな板の鯉である。
「さぁ、婚約者様の為に、お嬢様の為に、ツルツルピカピカにしますよ!」
「仰せのままにー」
こうしてある意味いつも通りの雰囲気で。
けれども、どれだけ惜しんでも時は淡々と進んでいく。
あっという間に夕暮れ時。シャスティ渾身のお手入れにより肌艶が段違いになったイザンバは兄とサロンにいた。
「それにしても……ザナも変わったね」
「まぁあれだけいいものたっぷり使われたら平凡も多少は見やすくなるでしょうけど」
「そうじゃなくて」
対面に座った兄がクスクスと笑いながら言った言葉にイザンバは首を傾げる。本人に自覚はないものの、毎日顔を合わせているわけではないからこそアーリスにはその変化が一目瞭然であった。
「前はもっと違う方面に積極的っていうか結婚どころか婚約にも逃げ腰だったでしょ? あれだけ隠してたのにカティンカ嬢にオタバレしてるのにも驚いたんだよ」
「いやいやいやいや! カティンカ様にオタバレしたのはお兄様のせいですからね⁉︎」
「え、僕?」
まるで心当たりがないというような呆けた声にイザンバは口を尖らせた。
「そうですよ! お兄様が本屋さんでカティンカ様のぬいちゃん見て『妹が同じものを持っている』って言っちゃったから、それで気付かれたんですよ! もう! お兄様のうっかりさん!」
「え、そうだっけ? うわぁ……ザナ、ごめんね」
「ふふ、いいですよ。結果論かもしれないけどお兄様のお陰で素敵なお友達が出来ましたから!」
ぷんぷんと腹を立てていた様子はあっという間に霧散していく。むしろ得難い友と出会えた事にイザンバは感謝を滲ませた。
ただ引っかかる事があるのも事実。
「でも、珍しいですよね。コージー様の時以来気を付けてくれていたのに」
「うーん、なんでだろうね。なんか…………」
アーリスは首を捻る。
——汚れのないぬい
——渡した時のホッとした表情
——でもどこか一線引いた態度
初めて会った時のことを思い返して、ふっとその雰囲気が柔らいだ。
「なんとなく、ザナに似てるなーって思って気が抜けちゃったのかも」
「私? はっ! もしかしてオタクオーラが隠しきれてない⁉︎」
「あははははは! 大丈夫、隠れてる隠れてる」
「本当ですかー?」
疑わしいと言わんばかりの妹にまたアーリスは肩を揺らす。
「本当だよ。でも似てるのも事実でしょ? 推しのために全財産渡そうとするところとか特にそんな感じしない?」
「えー、私そこまではしてないですよ」
「えー、本当に?」
今度はアーリスが疑うように言う。多分にからかいを含ませて。
それならばと、イザンバは護衛たちに援護を求めて話を振る。
「本当ですよ! ねー?」
「いえ、お嬢様も似たり寄ったりです。ご主人様が止めなければ際限なく貢がれていたかと」
「僕が初めてメイドの格好した時もお布施をしようとしたり、イルシーにコスプレの依頼料として一万ゴア払っちゃってますし」
ところが、期待した援護は一切受けられず。むしろ今までの行動を暴露される形となったイザンバはしれっと視線を兄から外した。
ジオーネたちから聞かされた内容に当然アーリスは驚愕の声を上げるわけで。
「一万! 払い過ぎじゃない⁉︎」
「そこは必要経費だから大丈夫です!」
「もぉ〜、そういうところだよ。本当二人とも危なっかしいよね」
いい笑顔で親指を上げる妹に兄は脱力するばかり。
イザンバは楽しそうにクスクスと笑った後、表情を引き締めて決意表明のごとく高らかに言った。
「でも、カティンカ様に初見で見破られたのはちょっと堪えました。これからはもっとしっかり擬態します!」
「大丈夫だよ。ザナは昔からすごく頑張ってたんだもん。自信持って」
「それを言うならお兄様もですよ」
イザンバを励ます為の言葉が、どうしてか彼に返されて。
不思議そうに瞬く対面のヘーゼルに、イザンバは一層穏やかに微笑んだ。
「ヴィーシャたちと交渉してる時もすごいなって思ってたんですけど、カッコいい棒回しを見せてくれたり、昨日だってカティンカ様に注意を促していたでしょう?」
「コージーが注意していたのを真似ただけだよ。彼女なら聞いてくれるだろうって思ってたし」
「でも私の友人ってだけでお兄様は会ったばかりの人ですよ。本来なら私が言わないといけない事でした。親しい間柄でも場合によってはうまく伝わらなくて拗れる事になるのに。それでもお兄様は言ってくれました」
自身の感情任せではない、真に相手のためを思った厳しさ。見習わなければとイザンバは思う。
そして、そんな人だから報われて欲しいと、幸せになって欲しいと強く思う。
優しいが故に人を責めることをせず、理不尽な婚約解消に傷付きながらも受け入れてきた兄だから。
「領地経営がしっかり出来てる。交渉も人付き合いも上手。棒術をする姿はカッコいい。誰かを思いやる優しい心がある。人に注意が出来る。懐が深くてオタクにも理解がある。あ、あの蛙の文鎮を選ぶ小粋なセンスもある! それに……」
ありったけの親愛を込めて——伝われ、と願う。
「私の事、ずっと励まし続けてくれました。ほら、お兄様にはこんなにも素敵ですごいところがいっぱい! だから自信を持ってください!」
しかし、肝心のアーリスが対面の妹を見ていられないのは褒められた気恥ずかしさからか。それとも……。
「私が変わったって言うならそれはみんなが気付かせてくれたからです。頑張ったねって。自信持ってって。もっと自分を褒めてって。みんなが言ってくれたんです。私は自分は平凡だからって言い訳して目を逸らして逃げてばかりだったから」
傷つかない為に心を遠くに置いて見ないふりをし続けた自分自身の感情
——自分の想いを受け入れるようになった
大勢から向けられた肯定とコージャイサンから注がれる止めどない愛情
——ひとの想いを受け止めるようになった
けれども、その下地はずっと昔に出来ていて。
「変わっていく事もあるけど、私がお兄様の妹である事は変わりません。お兄様は一生、私の自慢のお兄様です!」
「っ…………——うん。ありがとう」
彼はすっかり俯いてしまっている。少し詰まった声と鼻を啜る音にイザンバは兄の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「もしかして……泣いてる?」
「もう! 恥ずかしいから見ないで!」
「ふふっ! ごめんなさーい!」
手で顔を隠すばかりか思いっきり後ろに背けてしまった兄に、けれども妹はちっとも悪いと思っていないような声音で返す。
——なんだかしてやられた気分だなぁ……。
ポカポカと温まった胸の内に少しだけ悔しさを織り交ぜたアーリスだが、後ろを向いた事でサロンの扉が少し開いている事に気付いた。
気付いてしまったが最後、グスグスと泣き声まで聞こえる。
「うぅ……うちの子がどっちも天使すぎて眩しい……!」
オルディだ。二人のやり取りを聞いていたのだろう。感動値が振り切って顔面が大変なことになっている。
見なければ良かった、とアーリスが後悔するより先に父と目が合ってしまった。
あっ、と思った時にはもう遅い。勢いよく開かれる扉。
「お父様にとって二人はずっと自慢の子だよー!」
「あー、はいはい。ありがとう」
「息子が冷たい!」
「あのね、今ちょっと恥ずかしさで気まずいからそっとしておいて欲しいの」
「……そうかい?」
息子も、娘も、たくさん傷付いてきた。それでも、素直で明るく、人を思いやれる心を持ったままだ。
こんな子たちを父として誇らずにいられようか。
だが、年頃の息子の言い分が分からない父ではない。しょんぼりと肩を落とすオルディの隣に母が寄り添った。
「ううっ……フェリ……」
「旦那様、お顔が酷い事になっているわ。早く拭いてくださいな」
「妻も冷たい! だって…………くぅぅっ!」
「もう……ほら、こっち向いてくださいな」
フェリシダは軽くため息を吐いているが、声はどこまでも優しさを孕んでいる。そして、そっとハンカチでオルディの顔を丁寧に拭き始めた。
そんな二人の姿にイザンバの胸にジンと込み上げるアツいもの。自然と、口を開いていた。
「お父様、お母様、今日までありがとうございました。本当自分でもどうしようもないオタクで扱いに困っただろうなって思うんですけど……私、この家に生まれてこれて幸せでした」
そう言って一つ一つの動作に心のこもった丁寧な淑女の礼を。目尻から溢れた一筋は両親への感謝の気持ち。
その振る舞いはもう庇護すべき娘ではなく一人の淑女である事を示していて、たまらずオルディは娘を抱きしめた。
「ザナ。幸せにおなり。コージーはきっと、ずっと、とんでもなくザナを大切にしてくれるだろう。これ以上ないご縁だと思っているよ。でも例え離れていてもお父様たちもザナを大切に思っているし、ずっと味方だからね」
「もう、旦那様ったら……。今はコージーが守ってくれているし、ザナも強くなったわ。それに今生の別じゃないのよ」
けれども、夫の思いに釣られたのだろう。フェリシダの目にも涙が浮かんでいる。
せっかく拭いてもらったにも関わらずまた涙を流す父の頬を今度はイザンバが拭った。
「そうですよ。またカティンカ様とここで遊ぶ約束もしてるし、すぐに会える距離ですよ」
「そうだけどね……」
「あのね、これは私のわがままなんですけど……出来たら笑顔で送り出して欲しいです」
「うん、うん…………そうだね……」
瞼も、胸も、どうしようもなく熱い。オルディは娘から一歩離れると涙に濡れた顔を乱雑に拭う。
「勿論だとも!」
そして、彼は笑った。泣いていたせいでどこか不格好で、けれどもたっぷりの愛情が伝わるように明るく。
話が落ち着いた頃合、カジオンがあえて注意を引くように扉をノックした。
「皆様、晩餐のご用意が出来ております。今夜はお嬢様の好物が並んでおりますよ」
「わぁ、嬉しい! 後でお礼を言いに行こうかな」
「よろしいかと。皆喜びますよ」
「カジオンも。今日までありがとう。これからもお父様たちをよろしくね」
「もったいないお言葉ありがとうございます。お嬢様も公爵家の一員となられるのですから、興奮して暴走しすぎないようにしてください。今更婚約者様に嫌われるなどという事は天地がひっくり返ってもないでしょうが、今日のような淑女らしからぬ行いはお控えくださいませ」
くどくどとしたお小言に、イザンバはしまったという顔をしながらも大人しく聞いていた。カジオンの表情がまるで子を送り出す父のようだったから。
「はーい」
「さぁ、皆様ご移動ください。せっかくの料理が冷めてしまいますよ」
「ザナ」
するとオルディとアーリスがエスコートをしようと同時に手を差し出した。
どちらの手を取るか。イザンバは悩むまでもなく二人の手を取り、まるで子どものようににぱっと笑った。
「お父様、お母様の手が空いてます。早く繋いでください」
「ふふ、そうね。私一人だけ除け者で寂しいわ」
「ちがっ、フェリ! そんなつもりはないんだよ! さぁ、お手をどうぞ」
「ええ」
家族が手を繋いで廊下に横一列に並ぶ。大人が四人も並べば伯爵邸の廊下と言えど目一杯だ。
よその貴族が見たら一体何をしているんだと呆れる事だろう光景に自然と笑えてくる。
「ふふ、なんだかおかしいね」
「あはははは! そうですね。でも今日だけなんだからいいじゃないですか」
「うん、そうだね。今日だけ!」
「きゃー! お兄様! 腕振りすぎです!」
「あはははははは!」
繋いだ手が楽しげに揺らされるから、あちらこちらから笑い声が漏れる。
食堂のテーブルにズラリと並ぶ料理はどれもこれもイザンバの好物ばかり。料理人たちが相当張り切ったようだ。
「それでは、ザナの門出を祝って! 乾杯!」
「乾杯!」
家族四人で過ごす最後の夜。
それでもこの先は……
——家族の形を変えて
——繋がりは変わらず
尽きない思い出話に花を咲かせ、それはそれは笑顔溢れる夜であった。