旅立ち 2
次の日、ウィルはいつもよりも、かなり早く目が覚めた。
まだ外は暗い。
隣のベッドから、ローレイの寝息が聞こえる。
ローレイはウィルに背中をを向けて寝ている。
ウィルはその背中をぼんやりと見つめた。
1歳しか変わらないのに、自分とローレイが体つきも精神的なものも全然違うことが、嫌でもこの一週間で分かった。
ウィルが旅立ちの日が近くなればなるほど、落ち着きが無くなり不安が増していっているのに対し、ローレイは出発を明日に控えても悠然と構えていた。
――いつかここを出るんだ!
今まで何度こう思っただろうか。
太陽に照らされてキラキラと美しく輝く海を眺めながら、希望で胸を膨らませていた。
だが、こんな形でこの山奥を出ることになろうとは思いもしなかった。
希望なんて少しでもあるのだろうか。
自分の目の前に、壮大な世界が広がろうとしている。ずっと待ち望んでいた「時」が、来ようとしている。
だが、もうすぐ訪れようとしている劇的な変化を前にして、ウィルはひたすらおびえ、うずくまるばかりだった。
自分を情けないと思いもしたし、激しい自己嫌悪に陥りもしたが、今のウィルにはすべてを受け入れることは到底無理だった。
朝食時。
みな無言でひたすら食べていた。
カチャリ、カチャリとスプーンやフォークが食器に当たる音だけが、鳴り響く。
ウィルは、この一週間よりも増して食欲が無かった。
舌が正常に機能していないのだろうか。
口に何を入れても味がしない。それでも、ウィルは無理矢理朝食を詰め込んだ。
唐突にトムが口を開いた。
「船が出るのは12時。それまでに、まだ時間がある。ウィル、この後少し2人で散歩をしないか?」
外に出ると、朝日が眩しかった。
澄み渡った青空に雲の白さがよく映えている。
「とうとうこの日が来てしまったな」
トムは苦笑いをしながら言った。
「お前はずっとこの『時』が来ることを望んでいたが、外の世界がに出たらきっとこのエシミス島が恋しくなるだろう……ゴホッ、ゴホッ」
「全然よくならないね」
ウィルは、トムをじっと見ながら言った。
「ん?」
「病気だよ。咳がまだひどい」
「そうかな」
トムは弱々しく笑った。
「でも今日は調子がいいほうだ。体がいつもよりも軽い」
二人は並んで、ゆっくりと歩いた。
二人とも、自分たちがどこに向かっているか、言わなくても分かっていた。
この先に海が広く見渡せる場所がある。
「ずっと帰りたかったんじゃない?」
ウィルがこの一週間ずっと聞いてみたいと思っていた質問。
なぜかなかなか言いだすことができなかった。
「どこに?」
「士族の村に」
「……確かにふるさとが恋しくなる時がなかったって言ったら嘘になるが、俺はここの生活がとても好きだった」
「閉じ込められていたのに?僕のせいで自由を奪われていたのに?」
トムは、ウィルが何を思っているか理解したらしく、顔をしかめた。
「ウィル、私はお前といられて幸せだった。これからもできることなら一緒に行きたかったんだ。お前を実の息子のように思っている。それはお前もよく分かっているだろう?」
ウィルはそっぽを向いた。
「トムは僕がいなかったら、どこへでも自由に生きることができたんだ」
「俺は自由だったさ。もともと。自由だったからここに君と留まることを選んだ」
「とにかく気をつけるんだぞ。たまには手紙をくれ。士族の村の住所を書いた紙を、この前渡しただろう?宿から送ることができるよ」
ウィルは別の方を向いたまま、無言で頷いた。
「よし。それはそうと、さしあたっての目…ゴホッ…目的地ちゃんと覚えているかい?」
トムは明るい調子をつくろいながら言った。
「覚えているよ。華族の人のところだろう?僕のお母さんの妹の……」
「そうだ」
トムは頷いた。
「お前のおばに当たる人だ。私も昔よくお世話になったよ。とても親切な人だった。手紙でお前のことをちゃんと知らせてある。きっとお前のことを、よくしてくれるだろう。ぜひ俺がよろしくと言ってたことを伝えておいてくれ」
「分かっ――」
「トムさま!ウィル殿!」
向こうから、フランクじいが、はぁはぁ言いながら走って来た。手には、ずだ袋を持っている。
「フランクじい」
フランクじいは、ウィル達のところまで来ると、息が整うまで両手を膝に当てて下を向いていた。
「フランクじい、どうしたの?」
「ウィル殿……」
フランクじいは、顔をあげた。
「お別れを言いに来たのです。それと、これを渡しに……」
フランクじいは、手に持っていたずだ袋をウィルに差し出した。
「何これ?」
ウィルはうさんくさそうにずだ袋を見ながら聞いた。
「酔い止め、風邪薬などの薬が入っています。売れば少しは生活の足しになるでしょう」
「ありがとう」
ウィルはずだ袋を受け取った。
フランクじいの気遣いが、とても嬉しかった。
授業は恐ろしいくらいつまらなかったが、思えばフランクじいにも随分お世話になってきた。ウィルは胸が一杯になり、ずだ袋をぎゅっと握りしめた。
ポトリ。
ウィルの額に何かが当たった。
雨だ。
突然雨が、ザーっと音をたてながら降りだした。
ウィルは空を見上げた。
「晴れているのに……」
3人は、濡れるのもかまわずそこに突っ立っていた。
ウィルは、3人とも同じことを思っていることが、分かった。
美しい。
緑が雨に濡れ、太陽に照らされ一層みずみずしく輝いている。
でもその一方で、なぜか胸騒ぎがした。
不気味だったのだ。
晴れと雨が混じるという滅多にない現象が、ウィルの不安を駆り立てる。
やがて雨が止んだ。
「トムおじさん!」
今度はローレイが走って来た。
少し顔が青ざめている。
ウィルは、すぐに何かが起きたことを悟った。
トムも何か察知したようで、こちらからローレイの方に駆け寄った。
ローレイはトムのそばに来ると、間髪を入れずに言った。
「トムおじさん、下の町に王国の者達が来ています!町の人が言うには、何かの偵察でこの島に。士族のこの前の報告のとおり……」
トムはゆっくりと息を吐いた。
そして言った。
「すぐに出発だ。船に乗り込んで隠れておくんだ!」
一同は一斉に走り出した。
読んでくださってありがとうございました。