赤っ恥
プロットもなしでまた書き始めてしまった。アマゾンで最近の作家の小説を買うことがしばしばあるが、一冊でも全部読んだためしがない。やはり僕は本を読むより、作品を書く方が向いている(簡単である)ようだ。
最近の本を読むわけは「最近の人間」であるからだ。どうせなら今現在の本を読むほうがメリットがあるだろう。しかし、東浩紀も宮台真司も僕にはさっぱりちんぷんかんぷんである。だから、文章の型だけ覚えて、それを自分がエッセーを書く時のフォーマットにして、内容だけ自分のものにしようと試みてはいるのだが、これまた技術が足りない。
アマゾンでポチるのは現役作家だけではないことに今、気付いた。つい、先日に太宰治全集の文庫版一巻を購入したのだった。しかし、案の定ほとんど読んではいない。古い人たちの文学には個人的に定評があった。僕は意味というか意義というか理念というか主張というか、メリットというか大切なことというか自分の為になることとかいうのは、もう既に死んでしまった人たちの文学にだけ存在するものだと強く信じていた。
ここにきて書くことがなくなってしまった。もう僕は文章が続かなくなってしまったのか。大体、意味のあることを書こうとするからである。僕は僕だけのオリジナリティを尊重していて、いわゆる新しい文学というものを否定している。まあ、それを新しいものであると考えているので、僕の書くものも新しいといえば新しい(と個人的にはそう自身の作品を理解している)。
僕はプロの小説家にならないで良かった。なれないで助かった。自分の作品がみんなに読まれるのは赤っ恥である。というより、もしプロになって売れて、ラジオやテレビに出ることになったら、僕は緊張のあまりにドモッてしまって、二度と人前に出れなくなるだろう。そういう恐怖心があるのは見栄っ張りだからだろうか。現在の社会自体がそういう赤っ恥なシステムによって統制されているからか。もしかしたら、これは人間の深部に迫る問題なのかも知れない。