『狂神』との契約
パンドラって、ギリシャ神話の女神なんだよね~。
アスモデウスは独りで、プンスカ怒りながら歩いていた。
《まったく、あんまりで~す☆ 不当で~す☆》
彼は今、独りで街道を歩いている。
だが、目的は王城に行くことではない。
アスモデウスの目下の目的は、この国の観光だ。
この国がどこかは知らないが、現世に来れる機会はめったにない。
観光をせずになんとするか!
《まぁ、私がやらなかったとしても、誰かが殺っちゃうでしょうしね~☆》
アスモデウスは、殺しをあまり好まない。
そもそも悪魔は、破壊の象徴という訳ではない。
シヴァなどと言った破壊神の方が、よっぽど破壊をまき散らしている。
悪魔が人間に対して行うことは、堕落への道へ誘うことだ。
たまに殺したりすることは否定できないが、それが主という訳ではない。
突然、比喩ではなく本当にアスモデウスの双眸が光った。
《イケメンレーダー、反応アリで~す☆》
彼の視線の先にいるのは、そこそこ顔立ちが整った青年だった。
《お仕事の時間で~す☆》
アスモデウスはホルモンのバランスをいじることで、自分の体を女にすることが可能だ。
もちろん、その逆もまたしかり。
《ふふふ、やっちゃいま~す☆ やっちゃいま~す☆ 女漬けにして、彼の人生を堕落させてやりま~す☆》
アスモデウスが今やろうとしていることは、簡単に言えば快楽漬けだ。
彼は、ホルモンをいじれば男女を入れ替えることができるので、守備範囲がとてつもなく広い。
しかも、彼は醜美を気にしないのでなおのことだ。
だから、
《私は老若男女もちろん、ブサイク、イケメン、美女、なんでもいけるクチで~す☆》
伊達に、“色欲”を司っていないのだ。
アスモデウスは自分の体が女になっていることを確認してから、青年へと駆け出した。
射程圏内に入り、跳びかかる。
《いただきまァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああす☆》
青年はアスモデウスにあっさり押し倒されて、服を破られていく。
そして、青年は己が置かれた状況を理解した。
「誰か助けてェ! 今、私は犯されそうになってます!」
そして、一輪の花が散った。
☆
リグレット王国王城。
ルークとシュスは、王の間のど真ん中でアンリから言われたとおり、魔法陣を描いていた。
「「…………」」
二人はなにか語り合うこともなく、黙々と魔法陣を描き続ける。
その作業は、五分ほどで終了した。
「終わったな」
「そうだな。けっこう、大変だった」
アンリの話によると、この魔法陣は精神世界に行くためのものらしい。
ルークの精神の中にパンドラは住み着いているから、契約するためには精神世界に行かなければならない。
魔法陣は描き終えた。
あとは、ルークが魔法陣の上に立って呪文を唱えるだけでいい。
「よし、とっとと行ってこい」
「ああ、わかってる」
ルークが魔法陣の上に立つ。
「?」
その時、ルークは違和感に気づく。
いつの間にか、部屋に数匹の蝿がいた。
まぁ、蝿はどこにでもいるから、おかしなことではない。
ルークが不審に思ったのは、蝿そのものだ。
それらの蝿は、体が真っ白だった。
白い蝿など、この国には生息していない。
となると、あれは……
「シュス、その蝿から離れろ! たぶん、そいつは『蝿の王』だ!」
「マジか!?」
シュスは指示通り、すぐに蝿から離れた。
それと同時に、ルークは蝿へと居合いを放つ。
刀は寸分たがわずに、蝿を真っ二つにした、と思った。
だが、蝿は二等分に分裂して居合いを回避した。
「チッ」
舌打ちをして、バックステップで距離を取る。
距離を取ってから、部屋を見渡してみる。
いつの間にか、白い蝿は何百という数が集まっていた。
「「うぇぷ」」
吐き気をもよおす二人を無視して、蝿たちは一か所に集まっていく。
やがて、蝿たちは一匹になり、二メートルものサイズの蝿となった。
《ふむ、どうやら、我が一番乗りだったようだな》
やばい。
二メートルの蝿である上に、喋るのか。
気持ち悪い。
《それにしても、腹が減ったな。ルシファーからは一般人に危害を加えてはならぬと言われたが、我を攻撃してきたのだから、自衛のために食っても問題ないよな?》
「「いや、俺たちに言われても」」
《決定! 食う!》
「「えぇ!?」」
状況はかなりまずい。
なにせルークは、パンドラと契約を取り付けてから、『七つの大罪』と戦うつもりだったのだから。
だけど、契約はまだできていない。
これは、ピンチだ。
「チッ」
シュスが常識ではありえない速度で魔法陣を描いた。
その数は、十五。
「ルーク、今から精神世界に行ってから、パンドラと契約結んでこい」
彼女の言いたいことはすぐに理解できた。
時間を稼ぐから、パンドラと契約してこい。
だが、
「お前じゃ、長くは保たねぇだろうが」
「それじゃ、その短い間にやってこい」
それにルークはため息をついた。
「死ぬんじゃねぇぞ」
「それ、死亡フラグだぞ」
「ンなもん折っちまえ」
シュスは呆れたようにため息をつき、ルークはにやりと笑った。
そこに、ベルゼブブが入る。
《別れはすんだか?》
「お前の方こそ、この世との別れはすんだか?」
ここは、シュスに任せよう。
契約をとっととすませて、すぐに戻る。
バックステップで魔法陣へと跳び乗る。
そして、アンリから言われた呪文を唱えた。
「ウナバルゥラ、ウナバルゥラ」
刹那、意識が飛んだ。
いや、これで精神世界行けちゃうんだから、すごいよね。
☆
ルークが目を開けると、そこは何もない、真っ黒な闇の世界だった。
ここには、本当に何にもない。
大気も、水も、物質も、何もない。
あれ? 大気もない?
や、やばい!
呼吸ができない!
《阿呆が。ここは精神世界だ。呼吸の必要はない》
ルークが窒息に苦しんでいると、突然声がかけられた。
声の主へと向き直る。
そこには全身が蒼く体のフォルムは人間で、コウモリのような羽をはやし、顔は蜘蛛のような複眼をもった奇妙な生物がいた。
サイズは一メートルという、どちらかというと小さい。
《貴様、さっきから失礼な物言いだな》
(こ、心を読まれてる!)
《当然だろう。ここは貴様の精神世界、言い換えれば貴様の心の中でもあるのだからな》
「ふむ」
心が読まれているのだから、嘘はつけない。
まぁ、嘘をつくつもりはないのだが。
「俺の心が読めるんだ。なら、俺が何しに来たのかはわかるよな?」
《我と契約を結びにきたのだろう》
「話が早くて助かるよ」
心が読まれて好都合と思ったのは、これが初めてだ。
まぁ、読まれたのも初めてだが。
「代償は何なんだ?」
《前任者から聞いただろうが》
「前任者? 何それ」
それにパンドラは馬鹿を見るような目でルークを見る。
だが、ちゃんと言わないといけないことであるため、めんどくさそうに言った。
《貴様の希望だ》
「希望?」
言っていることが、よくわからない。
《パンドラの匣を知っているか?》
確か、それはとある伝承ことだ。
とある国の王様が、パンドラの匣を見つけました。
匣を開けると、その中には希望が入っていました。
匣をもう一度開けてみると、その中には絶望が入っていました。
その絶望が原因で、世界に疫病が拡がっていきました。
さらにもう一度匣を開けてみると、その中には疫病のワクチンが入っていました。
それは、人類にとって一縷の希望となりえたのです。
「それで、俺は希望を取られるのか?」
《そうだ。そして、我は貴様に力を与えてやる。これから降りかかるであろう絶望を払うためのな》
絶望。
それは今、絶賛降りかかり中だ。
それを払うために、こいつの力は必要だ。
「そいで、代償は結局何なんだ?」
《希望とは、いくらでも解釈が可能だ。夢、憧れ、友情、家族などとな。我が求めるのは、そのうちの一つだ》
ふむ、頭のキャパを超えてきた。
ここは、一度話を切らなければ。
「よしわかったから……」
だが、パンドラはそれを遮る。
《いや、わかってないだろ》
「クソッ、心が読まれてるのって不便だ!」
《貴様、言っていることがさっきと違っているぞ》
「お前がサクッと! いってくれないからだろうが! ああん!?」
《逆ギレするな》
パンドラはため息をついてから、億劫そうにする。
あれ? もしかして、話切り上げようとしてる?
《我が求めるものはな、運だ》
パンドラはそんなことしなかった。
よかった。
本当に良かった。
だが、運を奪われるというのも、ピンとこない。
「取られたら、どうなるんだ?」
《もちろん、不幸になるだけだ。それで、我の力を使えるようになるんだ。安いものだろう?》
「…………具体的に、どれくらい不幸なんだ?」
そう問われて、パンドラは顎に手をあてて考え込んだ。
いや、言うべきかどうか悩んでいると言った方が正しいだろうか。
しかし、パンドラはあっさり言った。
《貴様の仲間である、レドルノフとやらより不幸になる》
「え!?」
レドルノフはルークが知っている人間の中で、最も不幸な人間だ。
なにせ彼は、おみくじに行ったら必ず大凶が出るのだから。
しかも前に、買い物に行って行列に並んでいたら、ちょうど彼の目の前で欲しかった商品が売り切れたのを見たことがある。
そんな不幸の権化よりも、不幸になる。
「…………契約、やめようかな」
《へたれ》
「殺すぞ、おもしろ生物」
《だが、我の力なしで、ベルゼブブに勝てるのか?》
「…………」
はっきり言って、不可能だろう。
『人間』は『悪魔』には勝てない。
この世界は、そういう風にできている。
ていうか、勝てるアンリたちが異常なのだ。
「クソ、みんな契約するしかないじゃない!」
《少しは自重しろ貴様》
「なんのことかさっぱりだ」
実際、ふざけている場合ではない。
こうしている今も、シュスはベルゼブブと戦っている。
早く助けに行かなければ、彼女は死んでしまうだろう。
「それじゃ、始めようぜ、契約」
《では、いいのだな?》
「構わねぇよ。運よりも仲間のが大事だからな」
《承知した》
刹那、ルークの胸から光の球が現れた。
あれが、ルークの運なのだろう。
これで契約成立だ。
《まだだぞ?》
心を読んだパンドラが、不思議そうに首を傾げながら言ってきた。
いや、首を傾げたいのはこっちだよ。
このおもしろ生物、何言ってんの?
《我と契約するためには、屈服させなければならんのだ》
「んぁ? 今からお前を不良学園ものよろしく拳でボコボコにすればいいのか?」
まぁ、ルークは剣士であるから刀で真っ二つということになるであろうが。
ねぇ、『狂神』って真っ二つにされても生きてると思う?
《少し待ってろ》
そう言って、パンドラは光の球を粘土のようにこねて黄金の鎖を作り上げた。
そして、鎖をこちらに投げ渡してくる。
ルークはあっさりキャッチする。
「これ、もしかして『天の鎖』か?」
《違う。あれは『神』と『天使』を縛れるが、これは我しか縛れない》
「ふむ、俺に束縛趣味はないんだが」
《わかった、わかった。お前に自殺願望があることは理解したから、もう少し説明を聞くのだ》
おお、傍目から見てもわかるほど、パンドラが怒っている。
あいつが普通の人間なら、青筋が浮かんでいたことだろう。
《今から我と貴様で一騎打ちをする。我の勝利条件は、貴様を殺すこと。貴様の勝利条件は、その鎖で我を縛ること》
…………あれ~? おっかしいな~。
命懸けだなんて聞いてないんだけどな~。
あのクソ暴君、戻ったらぶん殴ってやる。
「よし、俺たちは言語を解しているんだ。さぁ、話し合おうじゃないか。平和的な方法を探そう。友達になろう」
《だが断る》
説得しようとしたら、一瞬で蹴られてしまった。
あんまりだ。
《我は貴様を殺せば、ここから出られて、自由になれる。貴様が面白いのなら話は別だが貴様に別段魅力は感じんからな》
「何を言っている。俺、さっきからこんなにフェロモン出してるぞ?」
《オエップ》
「殺す」
《上等》
刹那、ルークの右腕が吹き飛んだ。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
激痛でのた打ち回る。
「て、てめぇ、本気で俺を殺す気か!?」
涙目で睨みつけると、パンドラは少しだけうろたえた。
《ま、待て! 我はまだ何もしていない》
「けど、現に俺の右腕亡くなったぞ!?」
《おそらく、現実世界で貴様の体にダメージが加わったのだろう》
「シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥス!?」
《ふふふ、早めに決着をつけねばならぬようだな。けど、やれるかな?》
パンドラは余裕そうに言う。
《さぁ、そろそろ始めようか》
自分の勝ちを疑っていない。
当然だろう。
『人間』は『神』には勝てないのだから。
《矮小な人間に、『狂神』の力を見せてやる》
対して、ルークがやったことは。
手にあった黄金の鎖を引きちぎった。
《は?》
パンドラはルークの行動の意味がわからなかった。
だって、あれで縛ることが、彼が勝つための唯一の方法なのだから。
《貴様、何のつもりだ?》
「見てのとおりだ。俺は、お前と戦うつもりはない」
《自殺願望か? なら、お望みどおり殺してやる》
「ははは、そうじゃねぇよ」
《なに?》
「俺はな、お前を縛りに来たわけでも、お前をボコりに来たわけでもねぇんだよ」
《あ?》
訝しむパンドラに、ルークは肩をすくめて言った。
「俺はな、お前と契約しにきたんだよ」
パンドラは彼の言っていることがわからなかった。
《そのための、あの鎖だぞ?》
「アホか。契約ってのは、ギブ&テイクだ。あれで縛ったら、俺は力使えるかもしれないが、お前が窮屈になるだろうが。それにな、誰かを縛りつけて得る力だなんてたかが知れてんだよ」
《…………》
パンドラは絶句してしまった。
なにせ、パンドラはルークの心が読める。
だから、彼が嘘をついてないことがわかってしまう。
「それに……」
《ん?》
「ただ利用されるじゃなくて、仲間に協力する。こっちの方が、やる気出るだろ?」
これが、ルークなりの最大限の誠意だ。
これではねられたら、もうどうしようもない。
『人間』では『神』には勝てない。
アンリたちはこれを覆せるが、ルークではまだ無理だ。
だから、パンドラが襲ってきたら死ぬしかない。
「さて、答えを聞こうか?」
それにパンドラは、
《ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!?》
笑った。
狂ったように、愉快そうに笑った。
「それは、イエスってことでいいのか?」
その問いに、パンドラは笑いを沈めて頷いた。
《面白い。人間如きが我を、仲間と称するとは。いいだろう。貴様に……いや、ルーク、お前に力を貸そうではないか。そして、それで望みをかなえるがいい》
「サンキュ」
礼を言って、踵を返す。
仲間の下へと戻るために。
《あ、歩いているだけでは出られんぞ》
「マジで!?」
☆
シュスはベルゼブブと交戦していた。
シュスは追い詰められていた。
当然だろう。
彼女は魔法が得意というだけで、別に体術に優れているわけではない。
「ハイドロカノン! レイジングボルト!」
刹那、水の砲弾と紫色の雷がベルゼブブを襲う。
しかし、小さく分裂することで回避する。
「クソ、ちょこまか避けんな!」
《ふむ、奮闘しているところ悪いが、我はこの国の王族を殺さねばならんのでな、終わりにさせてもらうぞ》
その時、シュスはあることに気づいた。
ベルゼブブが、一メートルほどのサイズになっていることに。
(残りの半分は…………
《さて、人の肉を食うのは久しぶりだな》
ベルゼブブの声が、背後から聞こえた。
急いで振り返ると、蝿が目の前で大口を開けていた。
このままでは、食われる。
だが、回避はできない。
ベルゼブブの方が速い。
「マジか」
刹那。
「目標を補足。破壊」
二匹に別れたベルゼブブの頭が消えた。
シュスはこれを見たことがあった。
顔に微笑を浮かべて、先程の声の主へと向き直り、言った。
「遅い、ルーク」
「悪ぃ」
シュスの文句に、『剣聖』は苦笑した。
最近、忙しいです。