大衆の欲望と忘却の循環――大衆欲望型自己社会のなかに埋没する個人
問題
商業芸術、ポピュリズム、マーケティングに共通することは?
チッチッチッチッチッチッ…
灰色のポロシャツを着た男が答える。
「普通の日本人なら好むもの」
「残念!!」
司会者がボタンを押すと男はゴムの力によって上空へ飛ばされた。
あなたが普段SNSで発信しているその情報は、本当にあなたの言葉によって語られたものだろうか?そして、その目的は?
エイドリアン・リード『大衆の発見』
現代のインフルエンサーたちは、人々の欲望を敏感に察知し、それを言葉や商品として届ける。そして、その力によって注目を集め、支持を獲得する。
このように大衆の欲望に応えることは、一見すると、他者に価値を提供する行為のように思える。
だが、そこにはひとつの逆説が潜んでいる。
大衆の欲望に応え続けるほどに、自己の欲望がわからなくなっていくことである。
はじめは「自分が面白いと思ったもの」を発信していた人間も、辛辣な、あるいは期待しない反応が返ってくると、次第に「何が受けるか」と考えるようになる。何が見られ、何が共有され、何が評価されるのか。その基準に合わせて発信するようになっていくのだ。
やがて、その状況が常態化すると、自己の内側から出てくるものと、大衆から要求されるものとの境界が曖昧になっていく。
「自分がこれを好きだから発信する」のか、
「大衆が喜ぶからこれを発信する」のか。
その区別がつかなくなっていくのだ。
これは、自己喪失である。
それだけではない。
喪失した自己そのものが大衆の欲望によって、新たに形成されていくのである。
これを「大衆欲望型自己」と呼ぶことにしよう。
皮肉なことに、自己を失って大衆に適応する人間が増えるほど、大衆的な価値観はさらに強くなっていく。
誰もが「みんなが欲しがっているもの」を欲しがり、誰もが「みんなが見ているもの」を見る。その結果として、似たような言葉、似たような服、似たような表現、似たような価値観が増えていく。
そして、
大衆の欲望に応える→ 自己の喪失→ 大衆の増大→ 大衆の欲望に応える→ 自己の喪失という循環が生まれ、結果として、大衆欲望型自己社会が完成するのである。
この循環がさらに進むと、別のものが失われ始める。
それは、文脈である。
かつての雑誌文化には、単に情報を伝える以上の役割があった。ある表現がどこから来たのか、誰が誰に影響を与えたのか、過去の何を引き継いでいるのか。そうしたものが、記事、批評、インタビュー、写真、広告、編集者の選択などを通じて蓄積されていた。
そこには、「わかる人たち」がいた。
この「わかる人たち」とは「通ぶった偉そうな人たち」のことではない。
あるものを見たとき、それを単独の情報としてではなく、過去との関係のなかで理解することのできる人たちである。
しかし、雑誌文化が衰退し、そのような共同体的な記憶が失われていくと、文化は次第に「いま目の前にあるもの」だけを消費していくようになる。
過去を知らないことによって、あるいは、振り返らないことによって、現在が唯一の基準になるのだ。
何かが流行している。だから見る。
みんなが話している。だから話す。
注目されている。だから価値がある。
そのような空間では、「これは過去の何と、どうつながっているのか」という問いが必要なくなる。
冒頭の引用では、商業芸術、(芸術・文化)ポピュリズム(政治、経済)マーケティング(ビジネス)といった異なる分野が、「大衆の心を動かす一つの歯車」として相互作用している。そのため、現代の私たちは、このような歯車の循環から逃れることは決して容易なことではない。
だが、抵抗することは十分可能だ。
大衆化から身を守るためには、その本質を理解する必要がある。
大衆化の問題の本質は、大衆の欲望に応え続けることによる自己喪失と過去(歴史)との断絶にある。
自己喪失に関しては、他者からの評価を気し過ぎるあまり、本来の自分の欲望を見失わないように心がけることが大切だ。
過去(歴史)との断絶に関しては、普段から、文脈や歴史に目を向けることが大切だろう。
さもなければ、ポピュリズムに陥る危険性がある。
ポピュリズムは目先の利益を求め、根本的な原因と向き合うことを拒絶する。当然のことだが、原因を突き止めるためには、過去を振り返る必要があり、「大衆の歯車」のなかで現在を消費していては何もみえてこない。
1995年、当時34歳だった高市早苗は、戦争への反省をめぐる国会審議のなかで、「少なくとも私自身は当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と発言した。
この発言が示しているのは、単に高市が戦争に対して反省していないというだけでなく、「過去の出来事について、現在を生きる自分はいかなる責任や関係を持つのか」という問いでもある。
そして、その問いを考えるためには、高市のように、過去を現在から切り離すのではなく、両者のつながりを考えなければならない。
大衆化は、単に文化的な現象にとどまらない。それは、現在の欲望を過去の文脈から切り離し、目の前の評価や利益を優先させる社会的な傾向でもある。
そして、大衆化がもたらす問題は、過去そのものを忘れることだけではない。
「いま何が求められているのか」という問いが、「自分は何者なのか」「この社会は何を経て現在に至ったのか」という問いを覆い隠してしまうことにある。
だからこそ、大衆の欲望に適応するのではなく、自分自身の欲望と向き合う必要がある。
そうした問いを持ち続けることこそが、大衆化の循環のなかで自己と歴史を失わないための、ひとつの抵抗になるのではないだろうか。




