8話 世界は、まだ美しい。
獣のような、荒い息づかい。
肺臓に突き刺さった肋骨から、笛のような音が漏れている。
アヤナは目を覚ました。
いや、正確には──気を失い損ねた。
横たわったままの視界に、地面の色。むせかえる血の匂い。赤黒い泥と、まだ温い誰かの血。骨も皮も剥がれて、もはや“戦える体”ではなかった。右腕は折れていて、左脚は感覚がない。立てない。歩けない。息がある、というだけで、ほとんど死んでいた。
それは、不死身の肉体だけでなく、その鋼の精神も、おそらく同じだった。それでも、アヤナは、這った。
何もない荒野に、何かを求めるように。
(……生き延びちまった)
無意識のうめきのうちに、喉の奥でひび割れた、声にならない声が響いた。それは呪いのような、自嘲のような、あるいは祈りのような言葉だった。
けど──なんのために、生き延びたんだ?
答えなんか、なかった。仲間は、みんな死んだ。夢は潰えた。国は滅んだ。
今の自分の全てを作った碧血隊は、この世から跡形もなく消えた。
———生きる理由が、あるのか?
おそらくは、なかった。何、一つも。
それでも、泥の中を引きずるように、アヤナは前に進む。傷だらけの指先で、血と石を掻き分けながら。
俺も……死にたかった。あいつらみたいに。
なんで、生き延びちまったんだ?
けだもののような自らの息遣いを何処か遠くのことのように聞きながら、永遠とも思える暗闇をアヤナはもがいた。
そして、視界の端。闇の向こう、まだ誰も触れていない地平の先に──暖かく、厳かな。
太陽。
全てを照らしていた。
包むように。降り注ぐように。
何よりも雄大に、何よりも優しく。圧倒的で、荘厳で、それは、あまりにも。何よりも———
「……綺麗だ」
それは、あまりにも。
世界はこんなにも美しかった。すべてを失ったはずの彼に、何ひとつ語らず、ただそこにあるというだけで、
あまりにも完全だった。
枯れた心から、涙が溢れた。
あの日、初めて知った。この世界には、「理由」なんかなくても、美しい瞬間がある。
(お前は——生きろ)
アヤナの胸の中に、大切な誰かの声が蘇った。
──生きてみよう。
この朝日が、まだ昇るのなら。
今は、それで十分だ。
アヤナは、ゆっくりと立ち上がった。
骨が軋み、血が滴り、呼吸は途切れ途切れでも、
泥と汗に塗れた前髪をかきあげて。
その光に、まっすぐ顔を向けた。
この朝日の昇る向こうに──行ってみよう。
陽が昇る方角に──海がある。海の向こうに、まだ俺の知らない世界がある。
理由はない。見てみたくなった。
自分がなぜ生きたのかを、知るために。
この世界が、なぜ壊れたのかを、確かめるために。
アヤナは、ふらつきながらも、陽の昇る海へと、歩き出した。
◆
アヤナは、ふと目を開けた。
朝、独特の薄明るい天井。
上等なベッド特有の、体が沈み包み込む感覚。いつもの木の板の上で目覚めるような、安宿の寝覚めとまるで異なる。
起き抜けの喉が乾いている。だが、それよりも先に——
胸のあたりが、あたたかい。
「……重い……」
アヤナはぼそりと、ほとんど呟くように悪態をつく。
言葉と裏腹に、胸の上で規則的に脈打つ生暖かい寝息に、安堵を覚えた。
胸元にあるアスコの頭。
金の糸のような髪が無造作に広がり、口元から涎が垂れている。
「……きたねえ……」
またぼそりと呟くが、起こすつもりはない。むしろ少し、頭をそっと抱き直す。
髪を通してわずかに感じる、彼女の体温。
寝息はゆるやかで、心音と重なって、静かな朝のリズムを刻む。
「……すぴー……33-4、x特異……むにゅ」
……こんな朝が、
“世界にはまだある”ってことを、
あのときの俺は想像できただろうか?
「ふん……」
アヤナは、かすかに笑った。
かつて、朝日が救ってくれたあの瞬間。今は、この寝顔が、俺をこの世界につなぎ止めている。
アヤナは、泥と血の記憶を遠く手放すように、アスコを起こさぬように、そっと身をよじった。
その外では、すでに火装騎の低い駆動音が巡回を始めていた。
◆
ファダリア市。カルミナ連邦第七管区の中枢にして、火理論文明の最前線。
トゥライナ王国との国境に面したこの都市は、地理的には辺境に位置しながらも、連邦の中でも最も早く火装技術を導入し、火導管と干渉演算を全面運用した“実験都市”として発展してきた。
国家規模の政策に先駆けて、あらゆる火理論装備が試され、配置され、調整された。都市機能の一切が、火の理論によって定義されている。
電力。上下水道。輸送。交通。通信。そして兵器ネットワーク。
そのすべてが、火導管網と干渉演算によって統合管理されている。
そのひとつでも狂えば、都市全体が誤作動を起こす。だが逆に、すべてが正常であるかぎり、ノルドレオンは機能の神となる。
火の時代における“秩序”の象徴として、この都市はカルミナの技術的アイコンであり、また政治的看板でもあった。
ファダリアは、神経で動く都市だった。
その神経が断ち切られることを想定できていたのは、この時点では誰もいなかった。
カルミナ連邦……現大陸最大の技術覇権国家であり、「火の理論」の発祥地。
元は地方都市国家群の緩やかな連合体だったが、火の理論の実用化を契機にわずか十年足らずで単独覇権国へと躍進した。隣国トゥライナ王国とは80年弱に及ぶ泥沼の戦争を続けてきたが(通称77年戦争)、火の理論の実用化により近年、急激にパワーバランスが崩れつつある。




