7話 月と太陽は、同じ顔をしている。
紅茶の湯気が、午後の光に淡く揺れていた。深いソファに腰掛け、アスコは静かにカップを両手で包む。対面では、レティシア少将が同じようにカップを持ち、あくまで穏やかな表情を崩さずに彼女を見つめていた。
「……落ち着かれましたか、卿下」
「……ありがとうございます」
アスコはゆっくりと目を伏せ、深く息を吐いた。そして、顔を上げると、ほんのわずかに眉を寄せた。
「レティシア閣下。旧交にお縋りして、私たちを迎えてくださったこと……本当に、ありがたく思っています」
「なに、当然のことをしたまでです」
「……ですが、私は……申し訳ありません。軍には協力できません。今さら私が表に出れば、再びあのクーデターの悲劇が繰り返されてしまう」
アスコの声には、はっきりとした決意と、どこか自らを責めるような痛みが滲んでいた。
だがレティシアは、微笑を崩さぬまま静かに頷いた。
「わかっております。貴女をお迎えしたのは、軍への招聘のためではありません。むしろ、隠すためです」
「……やはり、軍は——」
「ええ。公にはしていませんが、政府も軍も、いまだに“アルノー博士の遺児”を血眼になって探しています。貴女の存在は、“火の理論”の核心——いえ、それ以上の意味を持つ」
レティシアはカップを置き、背筋をまっすぐに伸ばした。
「博士が、そして貴女が姿を消したことで、“火”の技術発展は今や袋小路に陥っています。貴女が“生きている”と知れれば、どんな手を使ってでも、国は貴方の存在を求めるでしょう」
「…………」
「だからこそ、私は国家より先に、貴女の所在を突き止める必要があった。私一人が知っていれば、国家からその存在を秘匿し、“アルノー女史”ではなく——冒険者『あかつきの修理士』アスコ様として、貴女を守り通せる可能性が残る。幸か不幸か、『あかつきの修理士』の修了記録はBクラス干渉士としてはあまりにも常識を逸脱している。だからこそ私が見つけられたとも言いますが、あれでは国家にバレることも時間の問題でした」
アスコは唇を噛んだ。
「……ですが、それではレティシア閣下が危険に晒されることになります」
「ふふっ」
レティシアは小さく笑った。
「私も、あの頃よりは幾分か力をつけましたので。それに、私は貴女の個人的な友人でもあります。友人を守るのに、理由や損得勘定が必要でしょうか?」
「……ありがとうございます」
アスコは、そっと紅茶を口に運ぶ。その瞳には、安堵と、ほんのわずかな涙の光が宿っていた。
「でしたら、その……もう“卿下”と呼ぶのは、おやめください。今の私は、ただの“アスコ”です」
「わかりました。では貴女も、“閣下”と呼ぶのはおやめください。私たちはあの日、屋敷の庭で一緒に遊んだただの幼馴染ですから」
「……ふふ。はい」
柔らかな笑みが二人の間に生まれたその瞬間——
アスコがふいに、瞳を曇らせた。
「……それと……一つだけ、お願いがあります」
「なんでしょう?」
「——私が“クレア・イリシア・アルノー”であることを……アヤナさんには言わないでほしいんです」
レティシアの表情が、わずかに曇る。
「それは、なぜですか? 彼には真実を伝えておいた方が、貴女を守るためにも——」
「……火の理論は、多くの戦争と厄災を招きました。アヤナさんの祖国——神州が滅びた遠因に、私の理論が関係していたのも……否定できません」
言葉を詰まらせるアスコの横顔を、レティシアは静かに見つめていた。
「……私には、まだ彼に明かす勇気がないんです。“私は魔女だ”と。彼にだけは、そう思われたくない……」
しばしの沈黙が流れる。
やがて、レティシアは微笑みを浮かべたまま、そっと頷いた。
「……わかりました。クレア様……いえ、アスコ様がそう望むなら、私から彼に告げることはありません」
「ありがとうございます」
「ですが一つ、申し添えておきます。私は彼のことをアスコ様ほどに知りはしませんが……私はアスコ様が選んだ彼が、真実を知って何かが変わるような男ではないだろうと、私は信じております」
アスコは、何も言わなかった。けれど、肩の力がほんの少し抜けていた。
そうして、静かに紅茶を飲み干した。
◆
「しかし……本当に、生きていてくださってよかった」
会話もひと段落したところで、レティシアがふっと笑みを浮かべた。
「それどころか——あのように素敵な伴侶を見つけておられたとは」
「……えっ?」
アスコがきょとんとした顔でレティシアを見る。 レティシアは、軽く笑いながらティースプーンをソーサーに戻した。
「少し無愛想な男ではありますが、敵地の真ん中で、方面司令官を前にしてなお一歩も引かず、貴女を守り抜こうとした。あれは並の男にはできませんよ。——良き男です。アスコ様の目に、狂いはなかったと思います」
「……ふ、ふええっ……!!」
アスコの顔がみるみる真っ赤に染まった。
「ち、ちがいまひゅ! そ、そもそも私とアヤナさんは、そういう関係では……っ!」
レティシアが目をぱちくりと瞬かせる。
「む? 入籍されて“アスコ”という東域風の名に変えられたのでは? あの男の出自を思えば、自然な流れだと……」
「にゅ、入籍!? ひええ……ち、ちがいますよぅ……!」
耳まで真っ赤に染め、シーツのように白い頬を両手で覆いながら、アスコは情けない声で否定する。
「わ、私は! アヤナさんに名前をいただいただけでっ、べ、別にその、そ、そーゆーことではなくて……っ!」
狼狽するアスコの姿に、レティシアは唇を指で隠しながら、くすくすと笑った。
「ふふ……すみません、からかうつもりではなかったのですが、つい」
そしてその笑みは、やがて優しい眼差しへと変わる。
「……よかった。本当に、よかった。あの運命の日以来、貴方がどれほど過酷な生活を送ってきたのか……想像に難くありません。それが今ではこうして、顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべている……貴女が、貴女として笑えるようになったことが、何より嬉しいのです」
それは、軍人としての感情ではなかった。 一人の年長者として、そして“かつてあの少女の髪を梳き、手を引いた”姉のような存在としての、本物の感慨だった。
「……本当に、ありがとうございます。レティお姉様」
アスコが、ほとんど無意識にそう呟いた。
レティシアの目元が、わずかに潤んだ。
「……ふふ。久しぶりに、その呼び方を聞けて、私は今、少し泣きそうです」
◆
部屋の中は、しんと静まり返っていた。重厚な遮光カーテンが外の灯りをすべて閉ざし、壁際の小さなランプだけが、ほのかに琥珀色の光を揺らしている。軍府の客間とは思えないほど静かで、どこか落ち着いた空気だった。
アスコはベッドの隅にちょこんと座り、膝の上で手を組んでいた。向かいのベッドに腰かけたアヤナは、干し肉を齧りながら、天井を見上げたまま口を開く。
「……なんだ、元からの知り合いだったのかよ。そりゃ強気にもなるわけだ。俺はてっきりそのまま撃たれるかと思ったぜ」
「……ごめんなさい」
アスコは、小さく頭を下げた。
「他の方がいる前で、あの段階で私たちの関係を明かすわけにはいかなくて……」
「まあ、お前のことだ。まるっきりの無策ってこたあないとは思ってた。けどな……」
アヤナは体を少し寄せると、アスコの形の良い両頬をぐいっと挟み込んだ。
「事前に一言、二言、言っとけよ。肝が冷えたぜ?」
「ひゃ、ひゃい……ごめんなひゃい……」
ひよこの口になったアスコの間抜けな顔を見て、アヤナはふっと短く笑った。
「まあいいさ。とりあえず、あの少将は俺たちの敵じゃない……今のところは、な」
アスコは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに微笑みを浮かべてうなずく。
「はい。今のところは——ですが。彼女の言葉に偽りはありませんでした。きっと……守ろうとしてくれていると思います」
「そうかい。あの場で、こっちの情報を全部握ってる風だったからな……どこまで知られてるんだか、少し不気味ではあるが」
アヤナは少し白髪の混じる黒髪をかきながら、アスコから少し視線を外した。
「居場所を突き止めるだけでも難しかったろうに、偶然にしては都合よすぎだな。まあ……お前の“昔”は俺の想像よりも色々ありそうだし、深入りはやめとくさ」
アヤナはそれ以上は追及せず、目を閉じて天井を仰いだ。アスコは小さく息を呑み、続ける。
「少将の言う通り、私たちは今のまま“あかつきの修理士”として、冒険者として普通に生活を続ければいいそうです。軍に関わる必要はありません。……今のところは」
「そうか」
アヤナはその言葉に微かに反応するが、それ以上は何も言わなかった。沈黙がしばらく降りた。
「……アヤナさん」
アスコがぽつりと口を開いた。
「なにか……聞きたいことは、ありませんか?」
「ねえよ。気にならねえって言ったら嘘にはなるが、お前が言いたくないことなら、別にいい」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。お互い、全部知ってるわけじゃないが、それでも並の過去じゃねえことくらいはわかってる」
アヤナとアスコの視線が合わさる。
「わざわざ言う必要のない事や、もしかしたら今は言いたくない事——あるだろう。けど、一つや二つの秘密があるからって俺たちの明日が変わるわけじゃない。そうだろ?」
アスコは、こくんと頷いた。
静かに、けれど確かに。
「だったら、俺はお前が何者だろうが、別に良い。お前がアスコで、明日も隣にいるなら、それで」
「……ありがとう、アヤナさん」
アスコは微笑みながら、心の奥でそっと呟いた。
(ごめんなさい……。あなたに全部を話せる日が、来るでしょうか)
◆
「さて……くたびれた。もう寝ちまおうぜ。せっかく上等な寝床にありつけたんだしよ」
「野宿やいつものエゲツねぇ安宿とは比べ物になりませんからね!」
「すいませんね甲斐性がなくて。あかり消すぞ」
レティシアの計らいにより、来客用の客室が『二部屋』与えられた。
さらに広めの客室には、ちゃんとベッドが『二台』用意されている。
にもかかわらず——
「…………」
「…………」
当たり前のように、アヤナの胸元に、アスコの頭がちょこんと乗っていた。
「……いや、まて。なんで二部屋もらってんのに同じベッドで寝てるんだよ?」
「えっ、あ、えっと、あれ……? あっ……」
アスコがあたふたと上体を起こし、焦って顔を上げる。
顔が赤い。というか、完全に動揺している。
「そ、そうですよね! 二部屋あるんですもんね! 私、つい、いつものクセで……!」
「……クセってお前な……いや、まあ、別にいいけどよ……」
アヤナは片手で額をかいてため息をつく。
だが、完全に拒否する様子もなく、目元だけはどこか柔らかい。
「何が起こるかわかんねぇしな。もし非常事態になったら、このほうが……まあ、都合がいい」
「そ、そうですよね……っ」
アスコは小さくうなずくと、控えめな動作でまたゆっくりと頭をアヤナの胸に戻した。
その耳が、触れるほどの距離で心音を拾っていた。
「……」
「……」
「なあ」
「はい?」
「これ、やっぱちょっと恥ずかしくないか?」
「……はい」
「……」
「でも、なんか、安心するんです。こうしてると……」
「……」
「ダメですか?」
「……ダメじゃねえよ。お前が良いなら、それでいい」
静かな呼吸と、心音のリズムだけが部屋を満たす。
闇の中で、アヤナの瞳はアスコの瞳と絡んだ。
その色は、海のように深く澄んだ青に戻っている。やがて二人は、互いの温もりに包まれたまま、ゆるやかにまどろんでいった。
その外では、遠く――火装騎の巡回音が静かに夜の街を滑っていく。
まだ、“火”の時代は終わらない。
砂糖……甘味料。類義語に尊み。




