6話 人造の灯火
白く磨かれた石畳の廊下に、陽光が斜めに差し込んでいた。 アヤナは窓際に寄りかかり、外を飛ぶ火装鉄駆の残光を、ただ黙って見つめていた。
機体の下に広がる街は、規則正しく並んだ熱線導管と、蒸気の網に包まれている。 かつて、火を「育てて」いた時代には想像もつかなかった世界。 今は、火を「造る」時代だ。
「……科学の力ってのは、すげぇな」
ぽつりと呟くその声に、背後から聞き覚えのある足音が近づいてきた。
その足音の主が声をかけるより一瞬早く、アヤナは振り返る。
「お待たせしました、アヤナ殿……少し驚きました。声をかけるより早くお気づきになられましたから」
見ると、メガネの奥に涼しげな光を宿す軍人――副官カティアが、軽く会釈していた。
銀色の髪と、褐色の肌は強い日光によく映える。
「少将は現在、アスコ殿と会談中です。終わり次第、ご案内に上がりますので、もうしばらくお待ちください」
「ああ。……すまないな副官さん。気にしないでくれ」
アヤナは目を逸らすように再び空を見た。 火装空駆が、別の機影と交差して、光を跳ね返す。
「それにしても、“火”ってのは本当に凄いもんだな。……何もかも変えちまった」
「ええ。わたしたちの暮らしも、文化も、戦争さえも」
「いや……それどころか、“人間の距離感”まで変えた気がするぜ」
アヤナの言葉に、カティアが眉を寄せる。
「昔はよ、湯を沸かすのに薪を拾って火をつけて、家族が火の周りに集まってた。今じゃ蛇口ひとつで湯が出る。便利だけど……あれは、火じゃねぇんだな。あったかくても、冷たい」
「火の理論は人を救いました。けれど、“人の痛み”を失わせた側面もある……ということでしょうか」
「……わかんねえ。ただ、俺たちの“魂”が追いついてねぇだけかもしれねえな」
そのとき、遠くで雷のような火装発電の反応音が響いた。 アヤナはふっと息を吐いて笑った。
「けど、もう戻れねえんだろうな。薪と火打ち石の時代にはよ」
カティアは静かに言った。
「霊性感応力の高い術師は、人や魔獣の考えを感じ取ることが出来るとか。粒子として観測定義可能となる前の、波として発せられるラムダの微妙な揺らぎを感知できるといいますが……」
「そんなすげえもんじゃねえよ。気配でなんとなくわかるだけだ。お前らだって”なんとなくヤバいな”とか”なんかこいつ怒ってんな”くらいはわかるだろ。平たく言えばそれと同じだ」
「なるほど。けれどだとしたら我々の魂は、まだ薪と火打ち石の時代のことを覚えているのかもしれません。人の距離が近かった頃の時代を」
くすり、とカティアが笑う。陽光に照らされて一瞬、眼鏡が銀色に光った。
「人は、一度知った知恵を“戻す”ことはできません。……レティシア閣下も、そう言っていました。火が神の贈り物か、厄災か……それを決めるのは、きっと我々です」
それに対して、アヤナは何も言わなかった。ただ、廊下の壁に映る火装空駆の影を、じっと見つめていた。
◆
——私室の扉が静かに閉じられた。
高い天井と落ち着いた木目の壁、窓際に並ぶ書架と、観葉植物。軍人の部屋というより、貴族の書斎を思わせる空間。その中央、上等なソファが向かい合わせに置かれ、間に銀のポットとティーカップが新たに用意されていた。
レティシアは執務用軍服の上着を脱ぎ、椅子の背もたれに緩やかにかけた。
「……よくぞ、ご無事でした」
アスコは足を止めたまま、軽く会釈した。
「ありがとうございます。あなたのおかげです、レティシア閣下」
「……本当に」
一拍の間。
部屋の中央まで歩み寄り、レティシア少将はアスコの手を取る。
「よくぞ……よくぞ、ご無事でした、クレア・イリシア・アルノー卿下」
◆
十年以上も前の話だ。カルミアの初冬。もう少し冬が深まればたちまち豪雪に閉ざされる、中央府から見れば幾分か田舎のエルネスト領。
エルネスト伯爵家の応接間には、珍しく客人がいた。
「信じられんな。まだ4歳にもなっていないだろう? 君の娘」
「そうですね、来年の2月に4歳になりますから、今は3歳と半年くらいです」
「その3歳の娘が“ラムダ偏差則”の矛盾を証明してみせたというのか?」
「証明ではありません。彼女は、“違うものとして定義し直した”のですよ」
傍で、先月12歳になったばかりのエルネスト伯の三女・レティシア令嬢の膝の上に、アルノー博士の連れてきた少女が座っている。
美しいプラチナブロンドと、彼女の母ゆずりの紺碧の双眸はまるで妖精のようだ。
“最初の神の民”と呼ばれたカリユガの末裔。
少女はスケッチブックのようなノートを手に、ぐるぐると複雑な数式を書き連ねている。目が合うと、少しだけはにかんだ。
「君の”火の理論”——その重要部分を作り上げたのが、君ではなくこの少女だというのかい?」
「無論、原霊解析学としての基礎理論は私の従来からの研究によるものですが、”火の理論”の心臓部とも言える霊性は定義可能であり、物理法則に還元可能であるという命題を証明したのは彼女です。私も、ゼノ博士も証明する事ができなかった命題を彼女は証明しました」
アルノー嬢の陶磁器のような白い頬を、レティシアがつまんで遊びだす。
「……アルノーの定理の提唱者が、こんな幼い天才少女だったなんて、火の理論の実証性以上に世界が驚嘆するビッグニュースだな、博士」
「便宜上私の名前で発表しましたが……いずれ時が来れば真実を公表します。ですが、今はまだその時ではない。早すぎる」
「……そうだな。”火の理論”と、それがもたらす技術は必ずゲームチェンジを引き起こす。だがそれは世界を照らす光であると同時に、世界を焼き尽くす炎ともなり得る」
「ええ、ですが……」
脇腹をくすぐられてキャッキャと笑いながら身をよじる無邪気な姿は、まさしく年相応の幼児にしか見えない。
「きっと、この子は……この子は、世界を照らす“地上の光”になりますよ、閣下」
「……そうだな。必ずカルミナに繁栄と自由の弧をもたらしてくれるだろう、きっとこの子は、暁の聖女となってくれる」
◆
「父とアルノー博士がよく語り合っていたことを、今でも思い出します。私は……ふふ、貴方に『どうしてラムダ波は粒子になった時に右回りで安定するの?』と聞かれて、答えられませんでした」
「閣下に遊んでいただいた事を、私も覚えています。子供の頃の私は、外遊に連れて行かれても退屈で……けれどエルネスト伯のお屋敷では、いつも遊んでくれるお姉様がいて、そんな思いはしなかった」
「卿下は私がおらずとも、退屈はされなかったと思いますよ? 貴方はいつも数式を解いて遊んでいらっしゃった。子供がパズルを解くように」
指先が、どこかに残る思い出をなぞるように、ティーカップの取っ手を撫でる。
オズヴァルト・ユリウス・アルノー博士の発表した火の理論、そしてエルネスト伯の主導により速やかに実装に移された火装技術をはじめとするエネルギー制御技術により、カルミナ連邦は急速な近代化を果たした。
火装水路、火装厨房、火装鉄騎。軍事、医療、交通、あらゆる分野で“火”が人々の生活を照らし、飢餓は減り、病の多くが抑え込まれた。
「技術により人が飢えと不平等から解放される、美しい未来を。”火”は、正しく運用されさえすれば、人々を幸せにする。父とアルノー博士の理想は現実のものとなった」
「……父とエルネスト伯の描いた未来に……『あんなもの』は入っていなかったと思います」
目を伏せたアスコの両拳が、ロングスカートの裾を掴んで震えている。
「火は繁栄の、その何倍もの災いをもたらしました。私は世界中で見たんです。都市、鉱山、農村、戦地……そこには、破壊がありました。差別がありました。死が、ありました。火の装備が武器に転じた瞬間を、私は知っています。そして……そのせいで、どれだけ多くの人が殺されたかも」
「……ご自身の研究成果を、悔いておられるのですか?」
言いながら、アスコは自らの手を見つめた。どこにも血は付いていないはずだった。けれど、目に映る指先は、ずっと震えていた。
「必然だったんです。歴史を学んでいれば火を見るより明らかだったはずなんです。科学技術が戦争に応用されるなどということは……私はそれのもたらす重大さを、影響を、まるで理解していませんでした」
「そんなものは誰に予見できるはずもありません。まして当時貴方は10代にも満たない子供だった。それは貴方の責ではない」
アスコは視線を落としたまま、首を横に振る。
「私は暁の聖女なんかじゃない。何かに例えるとするなら、私はきっと魔女なんです。私があんなものを生み出さなければ、お父様だってきっと殺されはしなかった」
アルノー博士はカルミナ連邦の近代化を一気に加速させ、覇権国家としての地位を確立させた稀代の大立役者として、瞬く間に科学界の頂点に押し上げられると共に、国家の象徴的存在となった。
しかし、“火”が軍事や国家運営の中核技術として認識されるようになるにつれ、博士の立場は次第に政治闘争の渦中へと引きずり込まれていく。
博士の理念は、やがて「国家の都合」と衝突を始めた。
技術の独占と掌握を巡る思惑、火装兵器の配備を巡る議会と軍部の対立、他国との緊張激化による軍拡要求——その性急な流れに待ったをかけようとする博士の存在は、次第に政権中枢から疎まれ始める。
そして、今から7年前のある日。博士は、事故として死を迎えたと公表された。だがそれが「単なる事故」でなかったことを、当時から事情を知る者は理解していた。彼の死を境に、アルノー家は一夜にして沈黙し、家族もまた消息を絶った。
博士の一人娘、クレア・イリシア・アルノー。幼年にして爵位を賜り、かつて「天才少女」として一部の学術関係者の間で噂されていたその名も、報道からは姿を消し、生死すら不明とされた。
素性を隠し、変名を使って潜伏しているという噂も立ったが、その後の消息はようとして知れなかった。
「火は、世界を照らしたんじゃない……焼き払ったんです。私は、私が生まれなければよかったって、何度も思いました」
「……卿下」
レティシアは彼女の前にひざを折る。そして震える彼女の拳を優しく包んだ。
「貴女の理論は、確かに兵器にも転用されました。しかし、重症で、助からないとされた兵士が、貴女の理論によるラムダ場式再生装置で歩けるようになった。火装厨房と保存庫がなければ、飢餓で死んでいた子供たちが、いまは笑ってパンをかじっている。目の見えなかった者が、“火光”の導管で視界を取り戻している」
「……」
「貴女の研究により明日を生きられるようになった者、立ち上がる足を与えられた者もまた、大勢いるのです」
午後の柔らかな西日が部屋に差す。静かな空気が二人を包んだ。
「どうか、ご自身をそのように仰らないでください。呪わしきものなどでは、決してないのです。貴女の存在も……貴女のお父様の名も」
あやなしい……無用のもの、要らないものを意味する神州淀国の古語。




