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幕間 俺たちにめぐる明日

俺たちに明日はない。

そう咆哮した少年は、今はただ、少女と共に。

 

 世界は、ゆっくりと夜を手放す。

 遠くの地平が、ほんのすこし、淡い朱に染まり始めている。

 血と硝煙と霧の残る高台に、二つの影が並んでいた。

 アヤナは、崩れかけた火装台座の上に腰を下ろしていた。片膝を立て、傷だらけの腕を軽く包帯で巻いている。

 その肩に、少女がもたれていた。

 少女は、何も言わない。目を伏せ、ただ、胸の奥にある震えが収まるのを待っていた。

 アヤナも、何も言わなかった。風の音を聞きながら、夜が明けるのを、ただ待っていた。


 ふと、アヤナはポケットから紙巻き煙草を取り出す。マッチで火を点けると、乾いた音とともに先端が赤く灯った。吸い込むたびに、煙が肺を満たし、吐き出されて空に溶けていく。硝煙とは違う、どこか落ち着く匂いが漂った。少女は小さく咳払いをしたが、何も言わなかった。その横顔に、朝の光がゆっくりと近づいてくる。アヤナは煙を吐きながら、ただその景色を見ていた。


 そして、世界に、光が射した。

 それは、いくつもの戦場を越えてきた彼の人生にとっても、あまりに静かで、優しい光だった。


「……よかったな。二人とも、まだ生きてるぜ」


 焦げた石の欠片が、火導網の鉄骨が、砕けた干渉板が、まるで赦されるように、金色の光に包まれていく。


「……お前は、これからどこに行くんだ?」


 アヤナの声が、空気の中で溶けるように響いた。

 少女は、顔を上げなかった。ただ、アヤナの服の端を、弱く握った。


「……どこへでも。どこかに行けって言うなら、行きます」


 少女の金色の瞳。震えている。


 「でも、今は……」


 そこまで言って、少女は言葉を切る。朝焼けが、彼女の横顔を照らしていた。その金髪が、初めて火ではなく“陽”に照らされている。


「……そばにいてもいいですか」


 アヤナは、視線を上げた。


「……奇遇だな」

「……?」

「俺もおんなじ事を、言おうと思ってた」


 あの地平線の向こうには、何も見えない。けれど、光がある。今は、それだけで十分だった。


「……なあ」

「……はい」

「お前の名前を、まだ聞けてなかった」


 少女は、目を伏せる。唇が少しだけ動いたが、何も言わなかった。


「……教えてくれないなら」

「……」

「俺が、名付けていいか?」


 少女は、顔を上げる。

 アヤナの瞳の中に、彼女は自分の姿を見た。過去でも、未来でもない。

 今、この瞬間を生きていた、“自分”の姿。


「……勝手ですね」

「今更だ。ずっと勝手に生きてきた」


 少女は、それでも、かすかに笑った。ひどく不格好で、でも確かに、笑っていた。

 朝日が、二人の影を長く伸ばした。

 アヤナは、彼女の髪にそっと触れながら、囁くように言った。


「……アスコ」


 少女の目が、わずかに揺れた。


「“明日”って意味の古い言葉だ。俺の故郷の古い言葉だが、俺はこの響きが好きだ」


 二人のぬくもりが、肌を通じて通い合う。


「お前は、死ねない理由があって、ここまで生きて来たんだろう?」


 それは、二人にとってひどく久しぶりだった。


「俺もそうなんだ。俺には理由なんてないが……あの朝日が昇ってくるうちは、生きると決めた」


 ふわりと薫る紫煙と血の匂いの下に、この男の匂いがあった。


「だから、今日からは……その名前で、呼ばせてくれ」


 少女は、何も言わなかった。ただ、静かに、何度も頷いた。

 アヤナが立ち上がろうとした時、少女がぽつりと言った。


「……じゃあ、一つだけ」

「ああ」

「煙草はやめて欲しいです」

「……あぁ?」


 怪訝な顔をした男に、少女は続けた。


「一日でいいから。私より長生きして欲しいから」


 アヤナは一瞬、驚いたように彼女を見て、それからふっと笑った。


「わかった。もう吸わねえ」


 男はまだ半分以上も残る煙草を、石壁で消した。

 その笑みは、朝日よりも温かく見えた。

 少女の胸に、父の言葉が蘇る。


 ーークレア、希望を捨てるな。


 生きてさえいれば、明日は必ず来るのだ。今日は辛くとも、明日は幸せかもしれない。

 決して、絶望するな。明日は、生きていることは、それそのものが希望なのだ。

 明日はきっと、良い日になる。

 明日は美しい。だから、生きろ。


 がんばれ、クレア。


「……ありがとう、ございます」


 彼女の瞳に、朝日が宿った。

 それはまるで、この世界に初めて“明日”が生まれたかのように、優しく、そして、決して消えない光だった。


 ーーアヤナさん。

 あのときのことを、貴方は、どこまで覚えてくれていたでしょうか。

 貴方の見せてくれた“明日”が、私を、どれほど救ってくれたかということ。

 あの朝日。あなたの言葉。私の名。

 世界で一番、美しかった“今日”を、私は一生忘れません。

 私にやってきた、明日。

 とても、暖かく、美しくて。

 頬をつたう雫は、久しぶりに温度があった。

 まだ生きていようと思えた、私の生まれた世界でした。


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