17話 約束の継嗣
——焼け落ちた研究所に残ったのは、愛と願いの欠片だけ。
その火は、時を越えて娘の胸で燃え続け、約束は受け継がれる。
『早く逃げろ! 皆殺しにされるぞ!』
平静の研究所は、どんな姿だったか。
連邦の誇る技術開発研究機関・カリユガ、神の民の名を冠した知識と研究の結晶が無惨にも灰にされていく。
もはや紅蓮の戦火が巻き上がり、幾万の屍を踏破してきた羅刹の軍団が殺到する今からでは、思い出すことは叶わぬし、また思い出す余裕もない。
そしてこれが、私がこの世で見る最期の景色になるのだろう。
「はぁっ……はぁっ……ぐっ……」
鉛のように重い肉体、張り裂けそうな肺臓よ。あと一分だけ持ってくれ。百戦の修羅場を潜り抜けてきたグロッガの凶刃から、この貧弱によろめく文士の脚で逃れられるはずもないが。
せめて、この子だけは。
「閣下、こちらです!!」
「馬車を待たせております、お早く!!」
「うむ……」
胸に抱えるこの艶やかな黒髪の、なんと、か細いことであろう。
握りしめた掌の、なんと小さな事であろうか。
「この子は、全エルディア大陸の希望、そしてこの“神”の叡智そのもの。命に代えても守り通せ」
胸にしこりが残る。
この子に、私が本当に伝えたかった事は、こんなことではなかった。
「無論でございます。アルノーの名に懸けて」
「さあっ、閣下もお早く!」
「いや、私はカリユガに残る」
「なぜ!? 貴方が生き残らねば、元も子もない!」
「誰かが残らなければ、あのグロッガ兵の猛追から逃げ切ることは叶わぬよ」
「それならば私が!」
「君達が残ったら、誰がその子を守るのだね? それに彼らは、私の首で無ければ納得はしまい」
「……」
「心配するな。私のすべては、この子に託した」
唇が寒くなった。
この忠節なる諸君には、申し訳ない事だが。
口ではいかにも国士らしく、そう語りつつも。私の胸の内には、本当に薄情な事であるが――――私の本当の本音で案じているのは、この国の行く末などでは無かった。
「クレア」
そっと地面に下ろす。未だ私の腰元くらいの背丈しかない。小さな胸に大きな本を両手で抱えながら、私を見つめている。
この間の春、9歳になったばかりだ。けなげにも、泣きもしない。
“最初の神の民”カリユガの血を引く、いつも空のように透き通っていた碧い瞳は、今、震えるような金色と緊張の深紅に染まっている。
この子の母親と同じ、私を愛してくれた人と同じ瞳。
誰よりも愛しき、我が娘よ。
「クレア。ここから先、私は往けない。彼らと共に往きなさい」
膝を着けて、肩を掴んだ。
小さな肩。震えている。
――――震えているのは、この子か。それとも私か。
「君は、すべての人々にとっての希望、この国の未来の光なのだ。わかるね?」
碧の瞳を真っ赤に染めて、わが娘は頷く。
賢いこの子は、すべてをわかっているのだ。
この幼い肩に背負わせるには大きすぎて余りあった大人の身勝手も、そうして狂わされた自らの運命の理不尽さも。
すべて理解した上で、仕様のないことなのだと納得して、私を困らせぬ為に、瞳いっぱいに溜めた涙を一雫もこぼすまいと歯を食い縛っているのだ。
健気で優しい、わが娘よ。こんなに震えているのに。
「――――……――――……」
この国が危急存亡の秋であること、国家の大計にまつわることごとくをつまびらやかに、科学者として、人類の足跡足らんものとして、この幼き国家第一の識者に、最後に伝えるべきこととして伝えていく。
彼女は、ひとつひとつ、しっかりと頷く。
だが当の私の、この口から滑る言葉と、その心には開きがあった。
この時の私は、この状況において、うわの空であった。
「それから……」
大急ぎでしゃべり終えた。伝えなければならないことを。
そうしたら、私が伝えたい言葉が、ぽろりと出てきた。
「――――生きなさい」
ほんとうの私は――――ただ、この子の顔、貌かたち、体温を。
忘れまいと必死であった。
「生きてさえいれば、明日は必ず来るのだ。今日は辛くとも、明日は幸せかもしれない。決して、絶望するな。明日は、生きていることは、それそのものが希望なのだ。私が君のお母さんに出会い、君が生まれたようにね」
彼女の身体を、全身で抱き締めていた。
互いのぬくもりの、最期の交換を交わす。
――――どうか、この温もりよ。その欠片だけでも、この幼い身体に遺してくれ。
母はおらず、今日からは父もいなくなる。待ち受ける日々は長く厳しいものとなろう。
愛しき娘よ、もし父を恨んだとしても、構わな
い。それで君の心が晴れるのなら、なんであったとして、父は構わないのだ。
あるまじき事ではあろう。けれど私には、この子のことしか無かった。
ほんとうのわたしは、この国の未来より、君の未来が大事だった。
「……がんばれ、クレア」
心細い夜は、辛く折れそうな今日は、この父の温もりを思い出してほしい。どうか、少しでも生きる力を。
きっと、君を守り抜ける強い男に巡り合うまで、覚えていてほしい。
そうして、そんな男と一緒になった暁には、その時こそ、この不甲斐ない父の事は、すべて忘れなさい。
「明日はきっと、良い日になる。決して負けるな、娘よ」
なんだっていい。
どうか、幸せになりなさい。
父の願いは、ただ、それだけだ。
◆
「一つ、聞きたいのだが」
「なんだ?」
「先ほどの戦いを砦から見ていた。爆風やプラズマ波ではなく、爆発や紫電そのものを相手にぶち当てれば殺せたのではないか?」
「なぜ俺が敵兵を斃さねばならん? 俺たちはあんたがアスコの昔の仲間だから助太刀しただけだ。あんたらの戦争に参加する気なんかないんだぜ」
「そうではない。相手を峰打ちで収めるなど、現実の戦いでは通用しないことが多い。とどめを刺さなければ再び立ち向かってくる可能性がある。貴殿ほどの衛士には釈迦に説法であろうが……」
「こいつに人が死ぬところなんか、わざわざ見せたくはないからだ。それ以上の理由はねえ」
アヤナが、金眼に染まったままのアスコの肩を抱き寄せた。
「そうか。なるほど——やはり、アスコ様は……良い男を見つけたようだ」
その姿を受けて、レティシアは、小さく微笑んだ。
アヤナの肩口あたりに収まったアスコが、きょとんとアヤナの顔とレティシアの顔を見比べながら、一瞬ののちに頬を火のように赤らめる。
「で、ですから!! 私とアヤナさんは、別にそーいう関係では……」
「それで、この後はどうする? 後はお前さんらだけでどうにかなるなら、俺たちはお暇させてもらいたいんだがね」
「うむ……正直な話をさせてもらえれば、君たちがこのまま力を貸してくれるなら、どれほど心強いか計り知れない。だが、アスコ様をこれ以上、戦場に立たせたくないと言う意見には、私も同感だ」
「……」
「ここから先は我々で対処する。幸い、都市部はまだ無傷だ。君たちは軍府に一度戻っていただき、物資を整え次第速やかに戦火の及ばぬところへーーーー」
レティシアがそう告げたその瞬間、アヤナの目が、わずかに細められた。
風の流れが変わったわけでも、砲声が止んだわけでもない。だが、その場にいた誰よりも早く、**“異質な気配”**が遠くから漂ってくるのを、彼は察知していた。
アヤナは、白髪の混ざる黒髪をガシガシとかき上げ、うんざりしたようにうつむきながら言った。
「……やっぱり余計なことに首突っ込むもんじゃねェな。」
切長の目が、俄に鋭くなる。
「––––どうやら碌でもないものを呼び込んだらしい」




