11話 戦場は、女の顔をしていない。
人は、火を手に入れたことで、神を殺した。
その時、誰かが言った――これで、世界は定義できる、と。
なるほど、たしかにそうだった。火は便利だ。正確で、平等で、安定している。計算できる正義、管理できる秩序。だが、それはつまり――
“余白のない世界”ということだ。
昔、戦場にいた頃、剣は俺の手の中にあった。何のために戦っているか、誰のために命を張っているか。それが間違っていても、苦しくても、剣は、ちゃんと自分の手で振っていた。
けれど、勝ったあと――不思議なことに、剣は俺の手から滑り落ちた。
革命? 解放? 平等?
古き封建時代を破壊し、身分格差のない新しく自由な未来を創造する。酷い欺瞞だと気付いたのは、後の祭りだ。新しい支配に、火理論という新たな権威、そして大国への依存体制という首輪が巻かれただけだった。
人々は、火が示す答えだけを信じて、自分で考えるのをやめた。戦わなくても生きられる世界で、誰も、自分のために死ねなくなった。
俺も例外ではなかった。
剣を無くして、俺は俺ではなくなった。
だから、俺は抜けた。勝ち組ではなくなり、再び野良犬となった。その代わり――剣は、まだ持っている。
ソウマ・イチミヤ。
天兵党・同志長。反政府組織であり、反火思想勢力・天兵党のリーダー。
元は明和東州連邦、革命軍における歴戦の前線将校だったという。
終戦後、明和東州連邦にて高官の地位についたが、新政府樹立後に政府首脳部との意見の衝突が目立つようになる。
ソウマは実質的にカルミナ連邦への依存で成り立っている現体制に警鐘を鳴らし続けたが、
あまりに性急かつ現実味のない脱カルミナ論に、次第に新政府内で孤立を深めた。
軍の主力が剣技に優れた武人から火装へ急速に移行が進んでいく時勢も相待って軍内に居場所を失い、下野に至る。
それ以降の行方は、ようとして知れなかった。
◆
ノルドレオン西南・フェルシュ高地。
灰色の霧がまだ地を這っている早朝、 その尾根の上に、黒と銀の軍旗が列を成して翻っていた。
騎士団の縦列が、丘陵に沿ってまるで巨大な梟の翼のように展開している。 前衛には火装騎兵。後列には干渉盾持ちの重歩兵。 そのさらに後ろには、神文を纏った信仰騎士団――トゥライナ王国の“聖誓部隊”が控えていた。
まるで、神が沈黙した都市に向かって、 “祈りの剣”が再定義を迫る”かのような陣形だった。
その中心に、一人の男がいた。
「……良い眺めだ。まったく。あの煙……火導管が、ああも素直に黙ってくれるとはな」
男は上機嫌だった。
名は――アロイス・フォン・デュレイン。 トゥライナ王国・第八信仰騎士団を預かる将軍にして、 正統貴族、上級枢密院の席を持つ軍系名門の出である。
その顔立ちは美形といってもいいが、 どこか毒を帯びた笑みが常に口元に張り付いている。
「ノルドレオン、ファダリア城塞……ふふ。レティシア嬢、まだあの石の館に籠っているのかね」
アロイスの侍従官が後ろで控えている。 アロイスが返事を求めていないことは分かっていたが、それでも一言添える。
「……第七管区は未だ、通信に沈黙。火装反応なし。完全に切断されている模様です」
「うむ、上出来だ」
アロイスは上着の金襟を軽く払って、 野戦双眼鏡を取り出し、遥か彼方にあるノルドレオンの市壁を覗いた。
「……我がトゥライナに何度となく刃を向けた、あの“鉄の女”も、これで少しはおとなしくなるかと思ったのだが。どうもあの人は、言葉より鉛玉の方が通じるようでね」
そして、彼は口の端をぐにゃりと歪めて笑う。
「それに……ああいう地位も気位の高い女が、膝を折る瞬間というのは、何よりもたまらないのだよ」
侍従官はそれには特に応え出さずに目を伏せた。
アロイスはノルドレオン管区との国境地帯において、これまでに三度に渡り、司令官としてカルミナ攻略の軍を起こしたが、
そのすべてでレティシア・マリア・フォン・エルネストに撃退されている。
その都度、彼は王国議会で敗戦の責任を糾弾されるという煮湯を飲まされていた。
「ふふ、ようやく、“お返し”の時だ。レティシア嬢。貴女には、私の度重なる屈辱を数倍にして味わってもらうよ」
◆
爆音が大地を揺らす。灰を巻き上げ、火導網の死骸の上を、トゥライナの重騎兵が突き崩してくる。
ノルドレオン西郊・サリド平原。
かつて火装演習場として整備されていたこの地は、今や黒煙と嗚咽の戦場だった。
火装弾の代わりに、叫び声が飛ぶ。 干渉制御の利かない火装兵たちは手動照準・手動射撃で必死に応戦していた。
「第一列、後退! 耐えられん! 盾が溶けて――!」
「補充班! 火装燃料、まだか!? このままじゃ、持たん!」
機器の麻痺影響はあらゆるところに及んだ。通信が通じず、通常の連携が取れない。
「チッ……自動照準なしだとここまで精度狂うかよ! クソッタレがあ!!」
それでもレティシア麾下の兵たちは崩れずによく戦った。
しかし、目標に向かって真っ直ぐに飛ばない弾に痺れを切らし、白兵戦に持ち込むために火装盾兵が強引に前進し、斜めに構えたその瞬間。
信仰騎士の長槍が、勇敢な前線兵の喉を貫いていた。
悲鳴はない。あっても戦場の地鳴りと怒号にかき消されただろう。ただ、ひとつの命が地面に倒れ、赤がひと筋、草と大地を染めた。
レティシアは、丘の上の臨時指揮所に築かれた砦から、その様子を見下ろしていた。
「……ここまで、完璧な潰しだな。さすがは幾たび干戈を交えた王国軍、火導潰しはお手のものか!」
トゥライナの霊導砲兵による爆風で顔の表面を焦がされながら、軍帽を押さえつつ、レティシアは戦況から目を切ることはない。
「カティア、一旦、火装後衛を中央から引かせろ! 機能しない武器を持たせても意味がない」
「了解。――第二防衛線へ移動指令、伝えます」
「伝令飛ばせ! この状況では無線が意味をなさん!」
「御意!」
ただでさえ兵装が機能しない中で、数の理に圧されまくっている。
しかし、レティシアはそれでも後退をさせない。崩れるのではなく、“畳む”ように配置を組み替えていく。
「……レティシア様。もう、やばいんじゃないですか……?」
「うむ、やばいな! 接敵部分の単純な兵力差だけでも三倍強、このまま普通にやっていたら勝ち目はない!」
あまりにもあっけらかんとしたその回答に、質問した若い副士官が弱気な声を上げる。
「じゃあダメじゃないですか! 一度後退するべきでは!?」
「増援が来るまで最低4日はかかるのに、ここで退いてどうなる馬鹿者! これだけ不利な体勢で戦線を譲ったら砦を抜かれて一気に都市まで押し込まれる、そうなれば援軍も何もない!!」
レティシアの意見は当たっていた。流石に若年といえど、15歳で初めて戦場に立ってから大戦を含め10年余り従軍し続けた歴戦の司令官である。
戦線が崩れた時に兵力十分でない場合、絶対にそこを譲ってはならない。
譲っても良いのは残存兵力で十分な巻き返しが利くときで、この場面では絶対に退いてはならなかった。
この戦場で投入できる全兵力4000のうち、700を都市防備に残してあとは全てをこの戦場に投入している。
勢いに乗じて粉砕されれば、増援が到着するまでに残った700で巻き返しを図ることは不可能に近い。
「臆するな! 戦場は生き物だ。状況も、士気も、天候すらも、刻々と変わる。敵が押しているように見えても、それは“今この瞬間”だけの話だ」
レティシアの声が、爆音の隙間を突いて戦場に響く。
その声には、恐怖も絶望もない。迫り来る敵の咆哮と爆発の熱波を前に、平静の声色と全く変わらない。
「爆煙で前が見えなくなることもあれば、命令がうまく伝わらず混乱が生じることもある。それは敵とて変わらん。ゆえに“判断”と“最低限の余力”が残っている限り、最後の最後まで逆転の好機はある!」
遠く、またひとつ爆音。トゥライナの騎士団は、止まらない。
しかし気高き女将軍はなおも叫ぶ。
「敵の強さを測るな、自分たちの強さを信じろ! ここが最初で最後の防波堤と心得よ!!」
◆
風の音が、空の隙間を走っていた。その丘の上からは、ノルドレオン第七管区の平野全体が見渡せる。
「圧されてんな」
アヤナは、目を細めていた。双眼鏡も干渉視器も使わず、ただ目で、戦況を読んでいる。
「数がいくらなんでも足りなすぎる。戦線を維持できていない。あえて他の拠点を捨てて、本陣側に戦線を狭めて──局所集中型の防衛に切り替えようとしてる……やろうとはしてる、が──間に合ってねぇな」
草をむしって、無造作に投げた。草は風に乗って西に運ばれていく。
「じゃあ、どうしますか?」
「お前の仲間なら、いくさ。そのためにわざわざ戻ってきた」
アヤナがアスコの腰を抱き寄せる。
アスコが首に腕を回すと、アヤナはまるで空気の人形を抱えるかのように軽々とアスコを抱き抱えた。
「結構久々にやるが、大丈夫か?」
「……はいっ」
「よし」
二人の周囲の空気がざわめく。否、ざわめいているのは霊性粒子。
周囲を取り巻いている空気中のラムダが、アスコの集中に呼応し、やがて目に見えるほどの感応実体を持つ。
アスコが胸元から鉱筆を取り出すと、しゃがんだアヤナの足元——
地面すれすれの空中に何かを記述すると、その仕草に”呼応”し、淡い緑色に輝く磁場が発動する。
パチンッ、と何かが点る音がした。
「———ッ!!」
アヤナの両脚が地面を、否、正確には“地ではない、見えない霊性の足場”を蹴り込むと、轟音を伴い、爆風のような風圧が辺りの草を吹き飛ばす。
空気が割れ、地面が抉れ、彼ら二人の姿はまるで銃弾のように空へ打ち出される。
「…………っ!!」
アスコは目を開けられないほどの空気圧と、切り裂かれる大気の轟音の中、アヤナの首筋にしがみつきながら、アヤナの体温と、血管を通して伝わる霊性粒子の流れから跳んでいる方向をいつものように探り出す。
鳥の視点ほどに舞い上がった空中で、足場が次々と“空間”に展開される。
着地する瞬間、アヤナがアスコのポーチから抜き取った鉱筆を足場に打ち付けると、磁力反射のように二人の肉体は空中で弾かれ、彼らの軌道を加速させていく。
遥か彼方に見えていた戦場はみるみる近づき、燃え上がる炎が、瞳を照りつける戦火が、あっという間に二人を包んだ。
急降下する鷹の視点で、アヤナは戦場を捉えていた。
敵中に淡い緑色の磁場が現れる刹那目掛けて、アヤナは肺臓に空気を充し、アスコの体を左腕一本でがっしりと固定すると、猛禽の急襲のように、トゥライナ重装歩兵の真っ只中に突っ込んでいった。