10話 火は、日常を焼き尽くす。
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レティシアは軽く顎を引いた。
その言葉が空気に溶ける、その直後だった。
「急報――!!」
会議室の扉が乱暴に開かれ、伝令将校が飛び込んでくる。肩で息をしながら、手には赤封の軍報。緊急・極秘・即時開封の三重指定。
「トゥライナ王国、国境方面軍が――展開を開始しましたッ! 現地の偵察隊より報告、規模は五万――火装兵、火装騎兵、並びに信仰騎士団、既に前衛展開中、明らかに“開戦配置”と断定されます!!!!」
その場に、沈黙が落ちた。
音が消えたようだった。本当に急所をつかれた時は、こういうふうになるのだろう。誰も言葉を発せられない。
絶望的な報告と沈黙に対し、レティシアだけが鼻をふんと鳴らした。
「将軍、このままでは、こちらの火装部隊は再展開が間に合いません。都市機能が遮断された今、迎撃は……!」
「わかっている。全て想定の上だ。このファダリアのみで防衛に割ける兵力はどれほどになる?」
「……予備戦力をかき集めて、四千がやっとです」
「ふむ。通信網と移動手段を火装に依存していた体制が、完全に裏目に出たか。ガルバからの増援がおそらくは4日、本国からの援軍は、おそらく2週間はかかるな。だが、持たせるしかあるまい」
レティシアは椅子を離れ、ゆっくりと窓の方へ歩いた。
朝の気配。だが、空は曇っている。陽はまだ昇らない。
靴音だけが、床にコツンと響いた。
レティシアは振り返り、声を張った。
「状況は悪い、が、絶望ではない——ノルドレオンは未だ健在。これより、非常防衛体制を発令する!」
椅子を押しのけ、部屋全体が立ち上がる。
「――諸君、心せよ。ここから先は、修羅場だぞ」
◆
ノルドレオン・ファダリア市第二区・中央市街。 いつもなら朝の市が立ち、通勤者と市民が行き交うはずの時間帯だった。 だがこの日は、様子が違った。
「……え、まだ閉まってるの? 10時すぎてるよね?」
「さっき向こうで聞いた。店主が“火装が起動しない”って。冷蔵庫も、照明も、運搬も全部止まってるってさ」
小さな騒めきが広がっていた。 人々の顔には、まだ“事態の深刻さ”は浮かんでいない。 だが、それが確実に日常の外側の音であることだけは、誰の心にも届いていた。
通りの影に立つふたりの姿。 アスコとアヤナ。
アスコは、小ぶりなバッグを抱えながら、少し肩をすくめて呟いた。
「……買い出しに来てみたら、これです」
アヤナは返事をしなかった。 眉一つ動かさず、通りの先を見ている。
「参りました、料理炉に使う燃素材が切れかけてるのに……あ、見てください。あそこの照明も落ちてます」
「……ああ」
返した声に、わずかな緊張が混じっていた。 アヤナの視線は、すでに市街の異常を読み取っていた。
火装車の停止。干渉看板の明滅。 市民の動きが“集団ではなく断片”になりつつある兆し。
「……アヤナさん?」
アスコが不安げに問いかける。 その横顔を、アヤナが静かに見た。
「……」
しばし、何も言わない。 だがその目は、まるで何かを確認するように、アスコの顔を見つめていた。
「……アスコ、このままふけるか?」
「……え?」
「そうすればとりあえず……面倒ごとには巻き込まれずに済むかもしれねえ」
アヤナの問いに、アスコは言葉を詰まらせる。 彼の目が、問いではなく、すでに“答えを知っている者の目”だったからだ。
その目に気づいたとき、アスコもまた、知った。
これから起こることが、日常ではないことを。
彼は返答を待っている。アスコが逃げたいと言えば、彼はそれに従うだろう。
アスコの瞳が、揺れる。 だが、それは震えではなかった。 “受け止めた者の光”に変わっていく。
「……そうだよな」
アヤナは、わずかに目を細めた。
「国なんかどうでもいい。だが――」
アヤナは視線を外し、再び街を見渡す。
「お前の仲間が巻き込まれてるなら……話は別だよな」
その声は低く、乾いていた。 けれど確かに、そこには“戦う者の声”があった。
口元だけが、わずかに不敵に笑った。
アスコは、何も言わなかった。 ただ、アヤナの袖を、そっと掴んだ。