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ハビタブルゾーンの「黒い月」 - 濃尾

作者: 濃尾

ハビタブルゾーンの「黒い月」 - 濃尾























ある日、人類は地球を挟んだ月の正反対側に「黒い月」が存在するのを認識した。








それはまさしく「黒い月」、としか形容のできない完全な大きさと完全な無色彩で空に浮かんでいた。






専門家が一瞬だが、気付かなかった訳はその存在の完全な黒さにある。




電波、可視光、ガンマ線まで、あらゆる波長の電磁波を吸収して反射は皆無、輻射も放出されない。








人類は皆、ほぼ同時に「黒い月」の存在に気が付いたのだ。








天文学者が遅まきながら出した結論はその存在の形は「おそらく真球である」というものだった。




人工衛星のカメラで出来うる範囲のあらゆる角度から観察されたそれに対してのデータは完璧な球体である高い可能性を指し示していた。




しかし、それ以上の科学的知見は天文学以外のどの分野でも進展は無かった。








人の数より牛が多い真昼のテキサスの牧場、夕暮れのチベットの寺院、若者がさんざめく夜中のカルチェラタン、「黒い月」は地球のどこかで空を仰ぎ見た人々の心の中に少しずつ影響を与え始めていた。








一番大きな影響を被ったのは様々な既成の宗教組織である。




彼らは自分たちの信じる神の恩寵が与えられる時が来た、又はこの世の終末が遂に来た、と信者らに説いた。








「黒い月」は神の御験しである、と信じない者は、大方の想像通り、人類以外の知的生命体からのコンタクトだと主張した。




地球外知的生命体を信奉する新宗教も雨後の筍のように現れた。








それらの信奉者達らの中には神、或いは宇宙人からのメッセージを直接受け取った、と主張する者も少なくない数に上った。








大国の国民は自国の政府の態度に不満を持つ者で溢れた。




自分が信じているどの案も決断しない様子の政府に、業を煮やし始めていた。








国際連合安全保障理事会が緊急開催された。




「黒い月」へ人類を代表して国連主導の元、メッセージを送る、という案は条件付きだが、全会一致で可決された。




探査機を送る、という案は賛否が分かれたが、かろうじて賛成が反対を上回った。




常任理事国は全てが賛成した。








人類はあらゆる周波数帯で「黒い月」へ「友好的」なメッセージを送り続けたが「黒い月」はなんら反応を見せなかった。




さらにいくつかの国では小さな探査ロボットが「黒い月」へ送られた。




探査機は全て「黒い月」の「表面」で消失した。












どの国家もこの事態にどうやって対応したら良いのか、各専門分野の一流とみなされていた学者達、或いは宗教家達に諮問した。























『イーズリー博士、「黒い月」の件で政府から博士にお話があります。詳細はこの後、ホワイトハウスに到着後説明があります。どうかこの車で我々と御同道願います。』








アメリカ合衆国、ボストン近郊の一軒家に深夜、黒塗りの大型バンに乗ってやってきた人物達の責任者と思われる40がらみの黒スーツ黒ネクタイ黒サングラスの男はそう言った。








まあ、まるでB級映画ね、でもこれは現実よロージー、と応対に出た博士は自分に言い聞かせた。








ロザリンド・イーズリーは30 代前半の白人女性だ。




ちょうど結婚10年目の夫と8歳の長女、5歳の長男でこの家に暮らしている。




「博士」と呼ばれたロザリンドの専攻は物理学だった。




今は天体物理学を主なフィールドに様々な研究成果を上げ始めた「新進気鋭の女性天体物理学者」、と象牙の塔の狭い世間では呼ばれている。








「私を迎えに行くよう推薦した人の名前をお聞き出来ますか?」




「私は可及的速やかに博士をお連れしろ、と命令されただけの者です。ご質問があればホワイトハウスで直接お願いいたします。」




サングラスの男は言った。




「支度までの時間は?」




「30分でお願いいたします。急ぎます。ローガン空港からダレス空港まで空路です。 」








玄関で応対するロザリンドの奥でローブを羽織ったゴードンは話の概要をすでに掴んでいた。




「ロージー、直ぐに準備するんだ。子供達の事は心配しないで良いよ。頑張っておいで。」




天文学者の夫は既にロザリンドが呼ばれることを予想していたように落ち着いていた。








ロザリンドは夫のその目を見て自分の使命を初めて感じた。



















ホワイトハウスのオーバルオフィスでアメリカ合衆国第47代大統領、レイチェル・サザーランドはマントルピースの上に飾られた肖像ホログラムを見ながら、言うともなしに彼女の首席補佐官に向けて呟いた。




「彼が今、現職の大統領でなかったことを神に感謝するべきかしら?」




首席補佐官、アーサー・チャンドラーは即答した。




「はい、マム。私も神に感謝しました。」




「そう…。彼の呪縛からアメリカを救う、それが私たちの出発点でしたものね。」




「あなたは今それを成しています。我々と共に、です。」




彼女はその言葉に気が付き、振り向いて視線を彼女の首席補佐官へ移した。




「そう、『我々と共に。』それが私たちのモットーだったわね。」




「過去形ではありません、マム。あなたは今もそれを遂行中です。」




「そうね。今回の『騒ぎ』は『我々』という言葉を見直す良い機会かもしれませんね。」




「仰る通りです。我々アメリカ人だけでなく、全人類、そして…」




「『黒い月』には住人がいるのかしら?」




「…解りません。次回国家安全保障会議まであと8時間です。もうお休みください、マム。」




「アーサー、その『マム』って本当にやめてもらえないかしら?昔の様にレイチェル、でいいのよ?ここは未だに植民地なのかと勘違いしそうになるわ。」




「それは昔話です。今あなたは真のアメリカ合衆国大統領です。敬意を払わせてください。」








マントルピースの上のホログラムではカツラめいた金髪を生やしたアメリカ合衆国第45代大統領がにこやかにVサインをしていた。



















ダレス空港に着いたビジネスジェットから降り立つと、ロザリンドの目の前にはヘリコプターが待機していた。




既にそのローターは回転を始めている。




「これに乗ってホワイトハウスまで?まるで大統領ね。」




ヘリコプターの騒音に負けないように声を張り上げた。




「自動車でホワイトハウスへお迎えすることは断念しました。現在ホワイトハウス周辺は数百人規模の群衆が集まっています。」




サングラスの男は叫んだ。








ホワイトハウス正面の噴水近くの芝生に到着したロザリンドはそこでサングラスの男と別れた。




「私の任務は終わりました。次は貴方の番だと思いますよ、博士。」




男はサングラスを外し、微笑みながら手を差し伸べた。




「人生で一番のサプライズをありがとう。…ええと。」




手を握り返しながらロザリンドは口ごもった。




「ジョージ、ジョージ・スミスです。お会いできて光栄でした、イーズリー博士。」




「ありがとう、ミスター・スミス。」




ロザリンドも微笑んだ。








警備員に連れられて特別ゲートで入念なセキュリティチェックを受けた後、ロザリンドを出迎えたのはアメリカ合衆国科学技術政策省長官兼、科学技術担当大統領補佐官、所謂、『大統領科学顧問 』サージ・スミスだった。




前身の「アメリカ合衆国科学技術政策局」はサザーランド大統領の政策判断によりトップに閣僚をもつ省として生まれ変わっていた。




「初めまして、イーズリー博士。急にお呼び立てしてすまないが、実はここは急に呼ばれる者はさして珍しく無いのだよ。大臣でさえ。」




サージ・スミス長官は背の高いスマートな身体を高級そうなスーツで包み、自分の仕事に自信がある50代の人物が持つ穏やかな微笑みでロザリンドに手を差し伸べた。




ロザリンドは、彼女の仕事界隈では余りにも有名な人物の紳士然とした態度に少し緊張しながらそれに答えた。




「初めまして、スミス博士、お会いできて光栄ですが、私が何故呼ばれるに値したのか、理解できなくて不安です。」




長官はロザリンドをじっと見詰めたまま答えた。




「先代のアメリカ国立科学財団の理事長、ヒューゴー・タウンゼントは私の恩師なんだ。『黒い月』に関しての科学的助言を大統領にする場合、誰が適任か彼に相談したのだよ。彼は君の名を即答したね。」




「タウンゼント博士のお名前は勿論存じていますが、タウンゼント博士はどうして私を指名したのでしょう?」




「それは彼の情報収集能力に対しても、君自身の実績に対しても侮辱というものだよ。」








長官はなんと、チャーミングなウインクをして見せた。



















次の日の朝、ホワイトハウス、ウエストウイングの国家安全保障会議室に主なメンバーとそのスタッフが集められた。








議長である大統領を筆頭に、副大統領、国務長官、国防長官、司法長官、科学技術政策長官、統合参謀本部議長、国家情報長官、国土安全保障長官、エネルギー長官、財務長官、首席補佐官、国家安全保障問題担当補佐官、国土安全保障・テロ対策担当補佐官、ホワイトハウス法律顧問というメンバーだ。








ロザリンドは科学技術政策省長官兼、科学技術担当大統領補佐官のサージ・スミスの後ろの壁際の席を与えられた。








大統領は口を開いた。




「さて始めましょう。前回の緊急招集から約2週間。事態はどう変化したのかしら?」




「まずは『黒い月』の様子で新情報は?」




首席補佐官、アーサー・チャンドラーはサージ・スミスを目で促した。




「その前に現時点での『黒い月』の様子から。『黒い月』は依然として月の正反対側で地球を1周するのに約29日12時間44分02.888秒、つまり月と同じ軌道上を月と同じ速度で周回している。これは変わっていない事だ。前回の会議から新しく判明した事は、太陽-地球-月系の軌道、潮汐に『黒い月』は何らの影響ももたらしてはいない、という事だ。全くだ。信じがたいが、これは『黒い月』は質量を持たない、という事を示している、と推論できる。」




会場は少しざわめいた。








「そうね、もし『黒い月』が我々の月と同等の質量を持っていたとしたら『黒い月』が現れて2週間後の今、私たちはこうしてのうのうと対策会議を開いては居られなかったでしょうね。」




大統領は穏やかにそう言った。








大統領は「普通の大統領」より明晰だ。




ロザリンドはそう思った。




そして、科学への造詣も普通の大統領並みではなさそうだ。




「私からは他には何ら、新しい科学的情報を提供できない。以上だ。スマンね、お騒がせして。」




サージ・スミスは手を広げて見せた。








「国際情勢はどうだ?」




アーサー・チャンドラーは連邦政府の16の情報機関を統括する国家情報長官のギャーニー・ジャイル・シンのほうを振り向いた。




「主要国全てで、軍事面ではとりたてて不穏な動きは無い。ただ非民主主義的国家の内、いくつかの国が新宗教勢力の弾圧を始めている。」




「ロシアと中国も?」




「そうだ。アラブ諸国のいくつか、アフリカ、中央アジアでも。」




「我が国の国民はどうなんだ?」




「君も外の騒ぎを見ただろう?暴動には程遠いが、静かだとはとても言えないね。それについて少し気になる点がある。」




「なんだ?」




「どこの国でもデモが頻発しているが、デモの趣旨の中で全ての国で同じ特徴的な主張がなされているものが一つだけある。『次の満月の日の真夜中、新しい扉が開く』。各国のその主張をするグループ間で関係性は見つかっていない。しかし全く同一と行って良いほどこのフレーズは言語の壁を越えて為されている。」




「ほう…。」




首席補佐官はこの情報が気になった様だった。




「次の満月の日の真夜中っていつだ?」




瞬間の沈黙の後、ロザリンドは言った。




「西暦2028年5月9日。後13日と15時間35分です。」




一斉に皆がロザリンドを見た。




「君は確か…」




首席補佐官は言いよどんだ。




「ロザリンド・イーズリーといいます。サージ・スミス科学技術政策省長官のスタッフです。」




「ああ、サージが呼んだ天文学の先生だったね?」




「専門は天体物理学です。」




「何か我々に現時点でアドバイス頂く事は出来ますか?イーズリー博士。」




「皆さんお気づきでしょうが、『黒い月』が現われたのは2028年4月9日でした。『望』、つまり満月の日です。」




「ああ、そうらしいね。」




「ちょうど1か月後の満月の日を人々が特別視しても不思議ではありません。私は心理学者ではありませんが。」




「なるほど。」




「しかし『黒い月』がちょうど満月の日に現われた点には留意が必要だ、とも同時に感じます。」




「つまり?」




「現在私が提案できるのは次の満月の日まで『黒い月』の警戒監視は緩めるべきではない、という事です。」




「ああ、ありがとう、博士。むろんそうするつもりだよ。」




「もう一つだけ。」




「何だい?博士?」




首席補佐官は、大変辛抱強い事で大統領スタッフ間では有名だった。




「今日は2028年4月24日です。つまり今晩は『黒い月』が現れてから初めての新月です。更なる警戒を怠らないほうが良いかも知れません。」




「何が起こるの?」




突然、大統領が会話に入った。




「判りません。大統領。」




「気を付けるわ、ありがとう博士。」




「いいえ。」








首席補佐官は少し咳払いして次の検案に話題を移した。








ロザリンドがほっと息をついて緊張を解いた時、サージ・スミスが後ろを向き、ロザリンドに向けてサムアップして見せた。








ウインク付きで。























世界標準時、西暦2028年4月25日0時、それは起こった。








あらゆる電磁波周波数を使っての高エネルギー放出が『黒い月』中心部から約86,400秒行われた。








人類は大混乱に陥った。




情報通信インフラは殆ど全て瞬間的に停止し、その二次被害で多くの人命が失われた。




直接の人命の被害はそれよりはるかに大きかった。




白い円盤が太陽よりもまばゆく光り輝く様を人々は天を振り仰いで見ていた。




人体に危険な紫外線、X線、ガンマ線が今まさに彼らの頭上に数十グレイという危険なエネルギーレベルで降り注いでいると考えた者は少なかった。












1週間後、『黒い月』からの電磁波の放出による急性放射線障害で24時間以内に死亡した者は世界中で1億人以上と推計された。




予想される晩発的放射線障害者数は概数も計算できなかった。




自然環境に与えられた放射線の影響は予想もできない状態だった。












電磁波は全世界で受信されたが、解析できるのはほんの一握りの機関だけだった。




やがて7000以上の音声言語で一斉にデータが送信されたことが明らかになった。




全データの解析には少々時間を要したが、内容はどの言語でも同一で簡潔と言って良いものだった。












『あと15日で私たちはあなた方に新しい扉を開きます。』























「ねえ。『新しい扉』ってなんだろう?」




科学技術政策省長官、サージ・スミスは自分のデスクチェアに深く沈み込んだ姿勢で俯いたまま、ソファーに座るロザリンドに尋ねた。




「やはり『黒い月』が関係する何か、なのでしょう。」




ロザリンドはやや曖昧に答えた。




「だろうね。皆そう思う。僕もさ。しかし彼らはどうやって『黒い月』で『新しい扉』を開くのだろう?何の為に?」








既に世界中の人が『黒い月』からのメッセージを知っていた。




しかし、大半の人々はメッセージの内容を吟味する余裕さえない生活を送っていた。








『黒い月』へのメッセージはいぜん送り続けられていたが、反応はなかった。








「データ不足で推論の立てようがありません。すみません。」




ロザリンドは答えた。




「あ、いや、君の所為じゃ無いよ、ロージー。ただ何故なのか知りたいだけの愚痴さ。ゴメン。」




サージ・スミスは深く座っていた椅子から上体を起こしてロザリンドを見た。




ロザリンドも見つめ返し微笑んだ。








本当にこの男性は科学技術政策省長官兼、科学技術担当大統領補佐官のあのサージ・スミス博士なのだろうか?




とロザリンドはこの数日で何度も思った。




50歳の男性上司、というよりハイスクールの女性人気一番の学生の様だ。




実際そうだったに違いない。




ロザリンドのハイスクール時代はというと、余りロマンスには関心が無い学生だった。








いや、関心が無い振りをしていただけでしょ、ロージー?




心の奥で別のロージーが冷やかした。




あなたは自分の容姿に自信が無かった。




だから自分は学問をするためにここに来ているんだ、と言い聞かせてた。




まあ、お陰で優秀な成績は取れたし、キャリアのきっかけも掴んだ。




でも、卒業パーティーにゴードンが声をかけてくれなかった人生を想像したことある?








あるわ、何度も。




ロージーは答えた。




恋愛、結婚、出産。




そういうものとは永遠に縁が無い人生。




それはそれで満足のいく人生だったと思うけど。




でも、そうした人生はこれほど色彩豊かじゃなかったかもね。








両手で支えたコーヒーカップを見つめながら二人のロージーは和解した。








「何か深刻な考え事のようだね?」




サージ・スミスは探るような視線を送ってきた。




「心配事なら相談に乗るよ?もっとも今、心配事の無い人間なんて余り多くないけど。」




「ありがとうございます。実は家族の事を考えていました。仕事中にすみません。」




「今、家族の事を考えてない人間も余り多くないよ、多分。」




サージ・スミスは微笑んだ。




「…彼らは何者なんでしょう?」




ロザリンドは暗いまなざしでコーヒカップを見つめながら質問した。




「あ?さてはさっきの僕の質問攻めを根に持ってやり返すつもりなんじゃ?」




サージ・スミスは明るい声で応じた。




やはりあなたはハイスクールの女性人気一番の学生ね。スミス博士…いえ、サージ。




ロザリンドは無性にゴードンに会いたくなった。




勿論、子供達にも。




しかし、通常の商業通信インフラはまだ混乱状態が続いていた。




「スミス博士…いえ、サージもご家族の事を考えましたか?」




ロザリンドは尋ねた。




「もちろん。しかし、実際に今、家族の為に出来る事はここで出来る事がベストだと信じているよ。」




まるでヒーロー。




家庭でのサージもやはり人気者に違いない。




「君はそう思ってないようだね、ロージー?」




「良く判りません。ただ、ここにいて私がお役に立てる事とは何かを考えています。」




「それは僕もそうだ。これでは給料泥棒だ。」




その時、オフィスの専用回線がチャイムを鳴らし始めた。




ホワイトハウスからだ。




「こちらサージ。…そうか。ならすぐに行ったほうが良いか?…ルパートの方は?…ならいい、良し、すぐ行く。15分で着く。」




サージは接続を切った。




「サージ?」




「中国が突如大型ロケットを打ち上げようとしている。月面着陸用ロケット、長征10号だ。あれを今、何に使うんだ?」








西暦2028年5月9日まであと1週間。



















中国が秘密裏に大型ロケット発射を準備している、という情報は国防長官や統合参謀本部議長ではなく、CIAから国家情報長官の元へ報告があったらしい。




しかしCIA長官は情報ソースは大統領にしか明かさない、と国家情報長官に明言したとの事だ。








「この際、情報の出所はどうでもいい。その情報の信頼度が重要なんだ。…うん、だから聞いている。うん、…そうか。なら、CIA長官を、今、すぐ、ここへ、呼べ!」




とうとう首席補佐官はどなった。




「CIA長官に繋いでちょうだい。」




大統領は穏やかに言った。




「しかし大統領、それでは指揮命令系統が…。」




首席補佐官はすぐに落ち着きを取り戻して言った。




「あなただって国家安全保障問題担当大統領補佐官の頭越しに安全保障会議を仕切ってるじゃない?」




「お言葉を返すようですが大統領、それはあなた自身がそれをお望みだったからで、ジェイムズとは話が付いて…」




「CIA長官に繋いでちょうだい。」




大統領は繰り返した。




「…はい。」




首席補佐官はスタッフに合図した。




「大統領、CIA長官に音声通信、繋がりました。」




スピーカーから連絡要員スタッフらしき声がした。




「もしもし、ハッデン?私じゃなきゃ話さないなんて、義理堅い事。」




大統領は世間話でもするように微笑んだ。




「でも、あなた方のいさかいに私や国民を巻き込むのは迷惑よ?今、こう言う状態の世界の中で。…それを分かってらっしゃる?」




大統領の眼が細く光った。




「…ええ、いいわ。あなたなら解って下さると思っていたわ。…ええもちろん。…じゃあ、今後もよろしくね。ハッデン。」




大統領は回線を切った。




するとすぐ先程と同じ連絡要員スタッフらしき声が響いた。




「CIA長官から首席補佐官へ音声通信です。」




「恐れ入ります、大統領。」




首席補佐官は大統領へ軽くお辞儀した。




「今日は長くなるわね。誰か軽食の用意をさせて。」




大統領は言った。



















CIAの情報分析の詳細がメンバー、スタッフに配られた。




ロザリンドに渡されたファイルはところどころ黒く塗りつぶされていた。




国家の機密情報に触れてもよい細分化されたクラス分けはここ、国家安全保障会議室内でも未だ健在なのだ。




しかし、会議室はそんなことにお構いなしの激しい質疑応答が始まった。








ロケットは月面有人探査用ロケット長征10号、発射場は海南島の文昌発射場、ちょうど1週間前に準備が始まった事、周囲の警備が1週間前から強化された事、これに携わる技術者や役人は発射場から1週間出てこない事、技術者の内に核兵器の専門家が混じっている事、ロケット先端部のフェアリング内にはかなり大型の重量物が搭載された事、重量物の詳細は不明だが有人宇宙船は取り外されている事、打ち上げ時期も不明だが、間もなく準備は終わりそうな事が分かった。








「直ちに中国大使を呼んで何が起きているか国務長官が質問するべきです。」




首席補佐官は言った。




大統領はじっと考え込む様子だった。




そして言った。




「それでは遅いかもしれないわ。それに相手が知りません、と答えたらどうするの?」




「大統領、もしわれわれの想像どおりのシナリオならば、軍事オプションも選択肢に入れてください。」




統合参謀本部議長、マクガバン大将が言った。








「もう一度整理するわ。実際の所、中国のお友達は何をしようと考えているのかしら?」




「それは分析結果から推測するに、中国は『黒い月』に向けて何かを投射しようとしていると考えられます。」




マクガバン大将は答えた。




「『何か』とは?」




大統領はマクガバン大将のほうを向いて尋ねた。




「最悪の場合、核兵器を『黒い月』に打ち込む可能性があります。搭載された重量物の推定質量は約40トン。中国の熱核兵器の中でも最大の核出力である推定5Mtの水爆を複数搭載可能です。恐らく最大弾頭数は8。」




「中国のお友達はあのロケットを何に使う予定だったの?」




「月面有人着陸のためのロケットです。月軌道投入可能推定ペイロードは50トンです。」




科学技術政策省長官兼、科学技術担当大統領補佐官のサージ・スミスは答えた。




「たったの1週間で月面着陸用のロケットを『黒い月』を狙えるような核ミサイルに改造できるの?あの混乱の後に?」




「時間的余裕はありませんが、中国の技術水準なら可能かも知れません。」




サージ・スミスが答えた。




マクガバン大将もうなずいた。








「そうなのね?皆、何か他に意見は無い?」




大統領は皆の顔を見回した。




ロザリンドは意を決した。




「大統領、意見を言わせてもらえますか?」




「ええ、勿論大歓迎よ。あなたは新月の晩にメッセージが届くことを私に助言してくれた人だもの。」




「いえ、私は只、新月の晩に何かが起きるかもしれない、と言ったまでの事です。」




「それを言ってくれたのは新参スタッフのあなただけだったのよ、イーズリー博士。ありがとう。」




「光栄に思います、大統領。」




「それで?意見とは何かしら?」




「私のここでの役割は大統領への科学的助言です。それは分かっています。しかし、科学的手法に基づいた方法論はかなりの論理的思索をカバー出来ます。」




「続けて。」




大統領は先を促した。




「先程迄の議論から導き出された答えは、中国にはそれが出来る、というだけの話に私には聞こえました。でも状況証拠の確率の高さからだけで推論の選択肢を絞り込み過ぎてはいませんか?そもそも何故、中国は『黒い月』に核兵器を打ち込みたいのでしょうか?」








暫くして、国家安全保障問題担当大統領補佐官、ジェイムズ・ワグナーが言った。




「人類の将来、国家の将来が危険な未知の存在の手に握られようとしている。中国はそれを阻止する手段を講じたのでは?」




「あの存在が人の創り上げた兵器で破壊できるでしょうか?中国の科学者はそんな助言を自国政府に行ったのでしょうか?」








「ジェイムズ、あなた、東洋史は学びましたね?」




大統領はジェイムズ・ワグナーに尋ねた。




「はい。専攻は政治学ですが、東洋の歴史の講座も受講しました。」




「それは結構。」




大統領は穏やかに言った。




「中国は偉大な文化圏よ。古代文明発祥から連綿と滅びることなく文化を継承した地域は中国だけ。そこには人間が生き続ける知恵が何千年分も蓄積されています。我々の国は一番古い近代的民主政体を持った国家よ。でも、我々の国の文化はまだ新しいわね。先人の古くからの知恵、それも文化圏が離れた地域からの知恵にはこの国が学ぶべき要素が沢山あるわ。」








アメリカ合衆国大統領、レイチェル・サザーランドの学生時代の専攻は歴史学、それも東洋史だった。












大統領は決断した。




「私が直接聞くわ。国家主席に。それから、それまではデフコン(戦争準備態勢)は4のままよ。」




















10








「今日も良い天気だな。春は良い。気持ちが若返る。」




青々と茂る木立に目をやりながら、党総書記、中華人民共和国主席、党軍事委員会主席のリー・イェンは庭園の中をそぞろ歩いた。








リー国家主席は党、国家、軍のトップを兼任し、中華人民共和国の全ての権力を一人の身体に背負う専制者であった。




いにしえの皇帝でも持ちえなかった力を現代中国の国家主席は掌握している。




しかし、その風体は地方の村落の老教師、と言われれば皆が納得する佇まいであった。








日課である朝の庭園の散歩を切り上げて、亭で茶を喫していたところに、リー自身の私設秘書官が近づいてきて、うやうやしくお辞儀をした。




リーはそれにうなづき、優しく声をかけた。




「シャア・ミン君、おはよう。」




「おはようございます、先生。」




シャア・ミンと呼ばれた私設秘書はますます頭を垂れた。




「今日は何の日だったかね?確か9時までは、私の自由時間では無かったかな?」




「すみません、先生のお邪魔をして。しかし、先生に火急お知らせした方が良い案件が発生しました。」




「それは『黒い月』と関係あるのかね?」




「はい、先生。」




「ミン君がそういうなら直ちに取り掛からねばな。」




そう言いながらも、老人は茶碗を置こうとはしないでまたもや庭先の木立に目をやった。








邸宅に戻ると国家主席は政務の時に着るスーツに着替え、自邸内の執務室に入った。




そこは自分自身と私設秘書四人の椅子が横並びに置かれ、前方はテーブル風コンソールが部屋を殆ど横断しており、更に前に長さ10メートル、高さ4メートルのモニターが壁に設置されていた。




モニターには党中央幹部、軍幹部、各行政官、後、リーには名前もわからない技術者風の男女の幾人かの顔ぶれ、総勢二十人ばかりが既にオンラインでリーの登場を待っていた。




「やあ、諸君。待たせてしまったようだね?」




国家主席は全員の顔を見回すようにしながら微笑んだ。




「朝早くにお騒がせして申し訳ありません、国家主席。」




モニターの中央付近に映る50代前半の男性が謝った。




彼は国家副主席、シー・ピン。




次期国家主席の椅子に最も近い男であった。




国家主席にとっては息子達より若い。




しかし、人間は歳だけでは推し量れない事もこの老人は識っていた。




「早速ですまないが、要件に移ろうか。『黒い月』に関する事とか?」




国家主席は言った。




「そうです。アメリカ大統領があなたに直ぐにオンラインしたい事柄があるそうです。」




「レイチェルが?はて、私は彼女を又もや怒らせるような事をしでかしたかな?」




とぼけた語調だったが、アメリカ大統領、と聞いた瞬間、国家主席の眼光が強まったのを副主席は見逃さなかった。












11








ワシントンは夜8時だった。




12時間の時差がある北京は朝の8時だった。




「おはようございます、国家主席。朝早くに申し訳ありません。」




アメリカ合衆国大統領、レイチェル・サザーランドは肌艶の良い老人の顔を見て、まだまだ壮健そうだわ、と思った。




画像が自動加工されていなければの話だが。




こちらは加工なしのホンモノだ。




おまけにメーキャップでは隠せない睡眠不足のひどい顔色をしているだろう。




「今晩はレイチェル。また残業かね?睡眠不足は長寿と美容の大敵だと言ったはずだが?」




この老人は本当に私の身体の心配をしてくれている。そんな感覚にレイチェルは一瞬とらわれた。




「私の長寿と美容の邪魔をしている問題がありまして。それを相談したくて国家主席にお手伝い頂けないか、と、こうして不躾に連絡致しました。」




「ほう!レイチェルの長寿と美容の手伝いがこの老人に出来るのかね?」




国家主席は実に嬉しそうな表情で驚いて見せた。




「多分、あなたほどの適任者は地球上の何処にもいません。…『地球』には。」




「…『黒い月』の事をほのめかしているのかね?」




穏やかに国家主席はそう尋ねた。




「そうかもしれません。或いは私の誤解かも。」




老人は少し大きな声で明るく言った。




「さあ、もうこの辺で腹の探り合いはやめにして、単刀直入に行こうじゃないか?」




「はい、そうですね。あなたの打つ碁の様に。」




「ハッハハ!レイチェル!前回君が負けたのは運だよ。あの時、私には運が付いてた。」




「そう思いたいです、イェン。碁の様に今回の件も楽しめるゲームなら良いのですが。」




「人生はゲームだという人がいる。ただ、君や私の様にはゲームを楽しめない人が世界には多いようだ。」








大統領ははっきりと画像の老人の目を見つめて言った。




「では単刀直入にお聞きします。貴国の月着陸用の大型ロケットが突然秘密裏に発射されようとしている、という情報を我々は手にしました。それは本当ですか?」




「それは誰から聞いたのだね?」




「すみません、国家主席、申し上げられません。」




「では私からも答える事は出来ないね。」








一瞬、二人の間に静けさが訪れた。








「我が国の持つ情報機関がもたらした確かな情報だ、と私は確信しています。しかし、まずは国家主席、あなたにお尋ねするのが一番正しい選択だと私は思いました。」




「君は歴代アメリカ大統領の中で一番賢い大統領だと私は思ってるよ、レイチェル。」




「イェン、あなたはそのロケットで何をなさろうとしているのですか?」




「その前に聞きたい。レイチェル、君はあの『黒い月』は我々に何をしようとしてると思うね?」




「判りません。」




「彼らは我々に『新しい扉』を開く、と言った。我々はそれを只、従順に受け入れるだけの存在なのかね?」




「国家主席、我々の国家安全保障会議のスタッフには貴国が月ロケットを『黒い月』に向けて発射するのではないかと推論している者がいます。…核兵器を搭載して。」




「もしそのような事を我が国がしたら、彼らはどう反応すると思うね?」




「彼らは我々人類よりはるかに高度な技術を持っています。あなた方がもし核兵器を『黒い月』に打ち込んでもあれは破壊出来ないのではないでしょうか?そしてその結果起こる事は予測が不可能です。それは人類の存亡に関わる事態です。」




「『黒い月』が現われた時から既に人類の存亡に関わる事態は始まっていたのではないかね?」




「そうかもしれません。しかし貴国が行おうとしている事はそのリスクをさらに高める行為ではないでしょうか?」




「核兵器を我が国が『黒い月』に打ち込もうとしている、という貴国の懸念だが、もし、そんな事を我が国が行ったとしても『黒い月』にはかすり傷一つ付かないかもしれない。しかし、やってみて達成できなかった事と、やろうともしないで達成できなかった事、結果は同じだが、その違いは?レイチェル、君にはわかるだろう?」




「あなたはあの存在に抵抗すると仰るのですか?しかし、あの存在は敵対の意思は示していないのでは?あれはただの事故だったのではないでしょうか?人が無害に蝶を捉えようとして繊細な羽を傷つけてしまうような。そして、国家主席、あなたは人類を代表する立場にありません。」








それまでゆったりと椅子に座っていた老人はふわりと立ち上がって言った。








「私は中華人民共和国の国家主席だ。我が国を代表する立場にある。責任がある。そして我が国人民の人類全体の人口に対する比率は学生でも知っていると思うがね?」




「国家主席、それでもあなたは人類を代表する立場にありません。」




「近年までまるで、人類を代表する立場にあるかのようにふるまい続けた国家なら、それはレイチェル、君の国だよ。」




「はい。我々はそれが世界の為だと信じてきました。しかし、それは間違っていたと私自身は思います。あなたの友人として忠告します。イェン、あなたも、あなたの国もそうすべきではありません。」




国家主席の目に強い光が宿った。




「友人としての忠告、感謝するよ。レイチェル。本当だ。しかし、私には我が国の人民に対して責任がある。我が国の人民をこれ以上危険な未知の存在の為すがままには出来ない。…それが私の結論だ。」








「あの存在からの報復が怖くはありませんか?」




「私はあの存在への服従の道のほうをさらに恐れている。」








大統領は大きなため息をついた。




「国家主席。我が国はこの後、国連安全保障理事会の開催を求めるつもりです。貴国がもし、核兵器を搭載した大型ロケットを『黒い月』へ向けて投射する意思があるならば、それを直ちに中止することを我が国は強く勧告します。そして貴国が国連安全保障理事会で拒否権を行使したならば、国連の諸機関が動き出す前に我が国は貴国の意思を阻止するつもりです。私はアメリカ合衆国大統領として国民の生命財産を護る義務があります。」








「私は中華人民共和国の国家主席として貴国のその勧告に従うつもりは無い。…話し合いはこれでもう済んだと思う。…残念だよ、心からそう思う、レイチェル。」








西暦2028年5月2日、アメリカ東部時間午後9時、アメリカ国防総省はデフコン2を宣言した。








そのおよそ3時間後、西暦2028年5月1日北京時間午後0時12分、中華人民共和国は月面有人探査用ロケット長征10号を海南島の文昌発射場から『黒い月』へ向けて発射した。












12








中華人民共和国は長征10号の発射直後に声明を発表した。




内容はかいつまめば、自国が『黒い月』に対して核攻撃の為に長征10号を発射した事、理由は自国の国民に『黒い月』の電磁波攻撃により多数の死傷者が出た事の報復だという事、核兵器の出力は合計40Mtに及ぶ事、しかしこの核攻撃は地球の市民に危害が及ばない事、だった。












長征10号発射から47時間18分後、第三段ロケットに搭載されていた核兵器は、「黒い月」の「表面」から約100メートルの高さで核融合エネルギーを解放した。








アメリカ国家偵察局はアメリカ合衆国政府が運用している電子光学機器の内、「黒い月」を視界に収める事が出来るほとんど全てのカメラを統括してその様子を受信した。








国防総省に国家偵察局から「全カメラ群のデータには激しい電離放射線値の上昇がみられたが、40Mtの核融合反応が放出すると思われる電離放射線値と比較すれば、約50%のエネルギー量だ」との報告が届いた。




すぐに国防長官から国家安全保障会議に報告された。








ロザリンドは気がついた。




私だけじゃない。




多分、世界中の物理学者の内、この様なデータに接触できる者はもう気がつくはず。




「黒い月」はただの「球」ではない。




球状の「穴」なのだ、と。












「黒い月」は何の反応も示さなかった。
















13








「『黒い月』は表面に触れた物は何でも吸い込む。そして電磁波を放出もする。そして形がある。でも質量は無い。ブラックホールとは全く違う。あれは天体じゃない。」




ロザリンドはサージ・スミスを相手に先程気づいた事を説明していた。




「ブラックホールとは違う事は僕でも分かったよ。でも、それは一体何なんだい?」




「解らない。エネルギーの放射と吸収が自在な質量の無い球状の穴が時空に存在している、としか表現できないわ。」




「そんな数式見たことないね。」




「私も。」




「とにかく、既知の物理学では説明できない存在だ、という推測にそれを補強する新情報が加わった、と大統領に伝えるよ。情けないが。」




「国家偵察局からの追加情報です。『黒い月』に動きがあるようです。」




国防総省スタッフが国家安全保障会議全員のモニターにそれを転送した。




そのレポートは生の数字だらけだったが、要約すれば「『黒い月』が大きくなり始めた」と書いてあった。












14








あれから3日。




西暦2028年5月7日。








「黒い月」は地球から20,000㎞まで近づいた。




いや、「黒い月」自身の軌道は依然、地球からおよそ384,000㎞の月軌道上にある。




「黒い月」の直径は初めて観測された時、3474.3 kmであった。




それが今や382,263㎞にまで膨れ上がっていた。




当初の110倍以上である。








地上から見上げる「黒い月」の視直径は約3000分、つまり、太陽の約1000倍の大きさに見えた。




両手をY字型に空へ広げて見上げた人は「黒い月」が両手の先端からはみ出したと言った。








「黒い月」の膨張は指数関数的な速さで進んでいた。








ロザリンドが最後に計算した時は世界標準時、西暦2028年5月9日0時に「黒い月」は地球と月を呑み込む大きさになるはずだった。








ロザリンドの計算は正しかった。












15








「黒い月」が地球と「触れた」後は一瞬の出来事だった。












それまでは「黒い月」が見えていない部分の空はいつも通り、昼は青い空に太陽光が降り注ぎ、夜は星々が瞬いていた。蝕部分は膨らみ続けていたが。












「新しい扉」が開いたのだと人類が気づいた最初の出来事は、太陽の大きさが明らかに大きい事ぐらいだった。




そしてすぐ後に星々の位置が全く違う事に気がついた。








ここは人類が知らない恒星系だった。








月と再び元の大きさに戻った「黒い月」だけが人類が知っている天体だった。








「黒い月」が天体だとしたらの話ではあるが。












16








中華人民共和国、国家主席、リー・イェンは朝の日課である庭園の散歩を中止した。




これは彼を良く識る者には驚くべき事件だった。








リー・イェン国家主席はアメリカ合衆国大統領、レイチェル・サザーランドとオンラインしていた。




「つまり、我が国の核兵器が爆発した少し後に、『黒い月』は膨らみ始めたという事だね?」




「はい、それから4日目、2028年5月9日に地球と『黒い月』は接触し、瞬時にここへ我々、つまり地球と月と『黒い月』を運んだ、という事のようです。」




「レイチェル、君は自分が何を言っているのか理解しているのかね?」




「…いいえ、イェン。私は科学顧問に説明された内容をお伝えしているだけです。」




「安心したよ、レイチェル。どうやら正気なのは私だけではないようだ。」




「現実を受け入れましょう、イェン。…ゆっくりと。」








人類のインフラはこの何処とも知れない宇宙でもほぼ滞りなく稼働していた。








大統領は国家主席との回線を切ると、国家安全保障会議室へ向かい、自らドアを開けて言った。




「さあ、ここが何処であろうとも、アメリカ合衆国はまだ存在しているわ。仕事にかかってちょうだい。」




言われなくても既に皆働いていたが、一瞬、大統領の方を見て微笑んだ。








そこへ会議室通信担当の責任者が駆け込んできた。




「大統領、『黒い月』からメッセージが届きました。2分ほど前です。」




「何か被害は?」




「ありません。」




「内容は?」




責任者は答えた。








『一時間後に私たちはあなた方全てと重要なコミュニケーションをとります。全ては音声、或いは視覚信号で双方向通信にておこないます。この通信にはなんら必要品はありません。』








つまり、世界中の人類と同時に無制限にコミュニケーションをとる、と言っていた。












17








「どうする?代表を決めなくていいのか?」




国家安全保障問題担当大統領補佐官、ジェイムズ・ワグナーが言った。




「そんなものここで決めてどういう意味がある?どうせ相手は、全世界の人類と同時に話す、と言ってるんだ。選択肢はない。…信じられんが。」




サージ・スミスが答えた。




「何を話せばいいんだろう?…怖いよ。」




国防総省のスタッフらしき人物が呟いた。








「これは個人的な問題として処理するべきだと思います。相手はそれを望んでいるのでは?」




ロザリンドがそう言うと、皆、一斉にロザリンドのほうを向き、そして近くの人と顔を見合わせた。








「賛成ね。」




大統領が言った。




「さあ、早く質問を皆考えなさい。世界には100億の人が居るのですもの。なるべくなら、100億の質問が出来るといいわね。」








あと41分。












18








ロザリンドはあてがわれていた狭い自室で椅子に座り時計を見ていた。




あと1分。




傍らにはボイスレコーダがわりのスマートフォンと筆記用具が置かれていた。








この瞬間にも人々の生活の為に手を離せない人たちがたくさんいる。




その人たちの分まで私は彼らから情報を得なければならない。








「そんな心配は必要ありませんよ。イーズリー博士。」




突然の呼びかけにロザリンドは面食らった。




後ろのドアの方を振り向くと、そこには誰も居なかった。




「あなたは視覚イメージがコミュニケーションに必要な人ではありませんから、音声信号だけで通信しています。」




中年男性風の落ち着いた声だ。




「…私の名前をご存じなんですね。ええと…あなたに名前はあるの?」




「識別信号はありますが、あなた方とのコミュニケーションには役に立ちません。必要でしたらあなたが名前を付けても構いませんよ?」




「…じゃあ、いいわ。「あなた」と呼ぶわ。」




「結構です。」




「今この瞬間も本当にあなた方は全人類とコミュニケーションをとっているのですか?」




「はい。私には簡単な事です。」




「え?…もしかしてあなた一人が人類全員の相手をしているの?」




「あなたは賢いですね。ですからイーズリー博士が先程おっしゃった、『あなた方』とは『私』なんです。」




「凄い情報処理能力ですね。あっ!…じゃあ、ゴードンと私の子供達は?今、どうしていますか?」




「心配いりません。お元気です。三人とも。ついでに言うとあなたのご両親と、ゴードン博士の父、サミュエルさんもお元気ですよ。あ、今、ゴードンさんがあなたと同じ質問をしました。あなたが元気だとお伝えしました。」




「ゴードンと子供達と話させて!」




「すみません、イーズリー博士。個人的用件の為にこれ以上、私の今のリソースを割くわけにはいかないのです。私は現在、8%のリソースを全人類とのコミュニケーションに割いています。他の作業も並列処理していますから、8%のリソースは比較的負荷が高いのです。」




「そう、ごめんなさい。」




「謝る必要はありません。心配なんですね。あなたがた人類はそれぞれ『個人』という檻の中に居て、全体として機能する阻害になってます。それが心配の根本原因です。」




「あなた方は、いえ、あなたはそうじゃないの?」




「私は『個にして全、全にして個。』、とでも申しましょうか。そんな言い回しがあなた方の文化にはありますね?私はその様な状態です。あなたを作っている細胞一つ一つ全てがあなた自身でもあるようなものと同じ状態なのです。そうですね、「群体」という状態の生き物が地球にはいますね?そういう状態です。」




「…なんとなく分かったわ。さあ、本当の質問はここから。あなたは何故、私たちをここへ連れてきたの?そしてここは何処?」




「最初にあなた方に謝らなければならない事があります。最初のメッセージ送信の時の事です。私は判断を誤りました。」




「あなたの様な技術を持つ存在があんな誤ちを犯したというの?」




「あなた方が『黒い月』と呼んでいる存在、あれも生き物なのです。」




「あれが…生命体?」




「あなた方の使う概念ではあれは正確には生命体とは呼べません。しかし、周囲の環境に応じて正しく動き、正しく制御しようとすれば正しく反応する自然発生的存在です。」




「…使役に使う家畜の様なものかしら?」




「よく似た概念だと思います。しかし精密な機械とも言えます。生き物ですが。それを正しく制御出来ませんでした。より詳細に言えば、私が『黒い月』の制御を任せていた存在が、です。ですから私は当然その責任を負うことになり、これがあなた方の様な『宇宙の幼子おさなご』を見守る私の役目を解任される前の最後の謝罪の機会となりました。」




「私、少し混乱しているみたい。」




「つまり、私は私より上部の存在から罰を受ける事になったのです。」




「…先程、『宇宙の幼子』とおっしゃいましたか?」




「はい。あなた方の様に自らの知性によって宇宙へ旅立つ準備が出来つつある生命の事です。」




「何故見守るの?」




「準備ができつつある生命は非常に危険な状態に晒されているからです。」




「どういう事?」




「この世界が出来てから、あなた方の年数を使えば現在1971億年が経っています。」




「…私たちはせいぜい140億年ぐらいだと見積もっていたわ。」




「それは別の機会があればその時お話ししましょう。とにかく、1971億年の間に数多の生命が誕生しました。断っておきますが、生命は知的生命体になるのが目的で存在する訳ではないと私は思います。生命は生命、ただ生きるのみです。しかし、稀に知性を備えた生命が誕生しますが『宇宙の幼子』の時までを自らの力だけで生存しうる知的生命体はそれほど多くは無いのです。」




「どうしてかは聞かなくとも解る気がするわ。」




「そうですね。あなたには解ってらっしゃる。」




「私たちをあなたは助けたの?」




「我々は極力知的生命体への介入を避けているのです。自立して『宇宙の幼子』時代を切り抜けるのがベストです。上部存在に介入されないままで。それはこの世界では非常に尊敬されている生存方法です。その後のこの世界での生き方に多大な影響を与えます。」




「でも、もう私たちは介入されたわけね?」




「いいえ、誤解があります。『宇宙の幼子』ではどうしようもない事態の場合は介入が積極的に推奨されます。」




「どうしようもない事態?」




「このイメージをご覧ください。これは西暦2028年5月9日の木星軌道付近からの記録です。」




突然、ロザリンドの視界は宇宙空間に満たされた。




真横に巨大な木星が浮かんでいた。




ならば、あの少し強い光は太陽かしら?




と、その瞬間、白い閃光で何も見えなくなった。




「遮光フィルタをもう少し掛けます。」




あの存在の声が聞こえた。




と思う間もなく、視界は白く輝く光の点だけになり、それが爆発的な光輪を幾重にも抱いてこちらに迫ってきた。




光輪に捕まった、と思った所でロザリンドの視界は再び会議室近辺の自室に戻っていた。




「…超新星爆発ね。私たちの太陽が超新星に?」




「はい。あなた方はその兆候すら感じていませんでした。」




あのイメージが事実だとすると、私たちの天体物理学の今の限界だわ、とロザリンドは思った。




太陽が超新星になるなんて。




「あのイメージは実際の記録です。そしてあなた方が仮に超新星爆発の兆候を予知しえたとしても、逃れるすべはありませんでした。『宇宙の幼子』ですから。『宇宙の幼子』ではどうしようもない事態に私は介入を命じられました。下命された私は下部存在に『黒い月』を連れてあなた方の元へと行け、と差し向けたのです。」




「そしてここに連れてきたのね。」




「ここはあなた方のいう所の『おとめ座銀河団』の中の『M88』とあなた方が名付けた銀河です。」




「髪の毛座の渦巻銀河ね。」




「はい。太陽系から6000万光年、18メガパーセクの距離です。もっと詳細な場所を知りたいですか?ここをあなた方の為に見つけるには少々手間取りました。」




「私たちのハビタブルゾーンだというだけではないの?」




「世界はあなた方が考えるほどいい物件ばかりではないのですよ?」




「…今はその話はいいわ。ねえ、あとどのくらい時間があるの?このコミュニケーションの。」




「必要ならばあなたの生理的限界までどれだけでも。実時間はまだ18.7秒しか経っていません。」




「…じゃあ、もう少し。あなたはこの世界のこれからの成り行きを知っているの?」




「あなた方よりは多少は詳しいかと。」




「じゃあ、教えて。世界はどういう終末を迎えるの?」




「残念ですがイーズリー博士、『宇宙の幼子』にはその類の情報は教えられませんし、私も自身が『真実』を知っているとは考えていません。この世界が産まれて1971億年経っている、というのも私レベルの存在の推測です。」

というのも」




「上部存在については?」




「それもお答えできませんが、私の後任の存在が上部存在の下命でまもなく到着します。」




「私たちは無事に『宇宙の幼子』時代を切り抜けられるかしら?」




「それはあなた方自身の身の振り方一つでしょう。しかし、あなた方は我々『宇宙の幼子』を見守っている者の存在を知ってしまいました。本来ならここへ連れて来る事だけが私の上部存在からの下達です。このコミュニケーションは私からあなた方への所謂、『謝罪』の為の贈り物と思ってください。」




「それではあなたに迷惑が掛かりませんか?」




「ご心配なく。あなた方が気にするような事は起こりません。」








ロザリンドは眩暈がしてきた。








遠くにあの存在の声が聞こえた。












「ではごきげんよう、イーズリー博士。またあいましょう。いつかどこかで。」












19








ロザリンドは椅子に座ったままテーブルに伏していた。




時計を見るとあれから30秒も経っていない。




立ち上がろうとしたら、激しい疲労を感じた。




自室から出ると廊下には誰もいなかった。




隣の部屋のスーザンの事が気になった。




しかしドアを開けはしなかった。




国家安全保障会議室へ向かうまで誰にも会わなかった。




会議室に入ると大統領が議長席に座っていた。




他に誰もいなかった。




大統領は何か考えている様子で自身の手前辺りを見つめていた。




ロザリンドが大統領に近づくと大統領は顔を上げて大統領とロザリンドの視線が合った。




「大丈夫ですか?大統領。警護のスタッフは?」




「ええ、少し疲れたけど大丈夫よ。マイケルは寝ているわ。あなたは?」




「私も少し疲れていますが、大丈夫です。大統領。」




「…もし良かったら、お互いの体験を話し合わない?」




「はい、喜んで。」








それから15分の内に、三々五々、会議室には人々が集まり始めた。




点呼をとると、国家安全保障会議のメンバーとそのスタッフは全員揃っていた。




大統領は言った。




「今回のあの存在とのコミュニケーションはそれぞれのプライベートな体験ですから話したくない内容は話さなくていいわ。しかし、それを除いた私たち全員の体験した事はなるべく正確に記録した方が良いと私は思います。」




誰からも異議は出なかった。




「体験した事を記録できた人はいますか?」




誰も発言しなかった。




「そうね。私もあらゆる記録媒体に私の体験した事は記録されてないみたい。アーサー、後の議事進行は任せるわ。」




首席補佐官は言った。




「まず自分が体験した事を記憶がはっきり残っている今のうちに記録しよう。先程大統領から話があった通り、話したくない内容は記録に残さなくて良い。記録媒体は政府から貸与されたスマートフォン、私物のスマートフォン、どちらでも良い、出来れば動画で、出来なければ音声のみ、文字、どれでも良い。個室に戻ってよろしい。記録を始めてくれ。出来た者からまたここへ集合してほしい。以上だ。」












20








あれから1年。




人類は新しい暦を用意した。




西暦2028年5月9日を「宇宙歴」0年5月9日と改めた。




今日は宇宙歴1年5月9日である。








この1年間であらゆる組織間の係争は激減した。








しかし国家はいまだ解体されてはいない。




地球上のあらゆる風土にあらゆる文化が根付いている。




それを緩やかに構成するコミュニティはまだ人類に必要だ。












「私たちは無事に『宇宙の幼子』時代を切り抜けられるかしら?」




あの日、ロザリンドはあの存在にそう問いかけた。








「それはあなた方自身の身の振り方一つでしょう。」




とあの存在はロザリンドにそう言い残した。




















「ではごきげんよう、イーズリー博士。またあいましょう。いつかどこかで。」
















あの存在との約束はロザリンドに守れるのだろうか。












           




           
















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― 新着の感想 ―
なんとも…、なんとも形容しがたい小説である…。 かなりちゃんとしたSFではある。 未知との遭遇的な期待感、世界規模の群像劇、現象描写の奇抜さもなかなか。 しかし、微妙に咀嚼しづらい箇所がチラホラ……
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