序章
──これは夢だ。
ぽっかりと心に穴が空いてしまったかのように、神木 樹は、眼前に広がった燃え盛る街並を目の当たりにして、ぼんやりと思考を動かすことで精一杯だった。
それは、自分が異世界に転生した時よりも、人としての尊厳を与えられなかったことよりも、ましてや、転生して13年。今この時初めて、自分の転生した性別が男性から女性の身体になっていたことよりも大きな衝撃だった。
「──レイカ」
樹は、そう呟くと一糸纏わぬ姿の自分の腕の中で、静かに眼を閉じる女性を強く抱きしめた。
抱きしめるその手には力が入らず、思わず手から滑り落ちそうになる。
樹はやせ細った手で必死に力を込めると、亡くなった彼女を優しく地面へと下ろした。
樹はゆっくりと背後を振り返った。
そこには、今まで自分が収まっていた、魔力と金属で組み上げられた塊。通称『クレイドル』と呼ばれる魔導人形の姿があった。
本来なら全高10メートルにも及ぶ、威風堂々とした魔導人形だが、自らの半身とも言えるその機体は今や満身創痍だった。
左足は膝関節より先が完全に破壊され、右手は交戦の時に肩の装甲と共に吹き飛んでいた。
それでもと、残された左手と右足で上体を残したままにしたのは、樹の執念からであった。
ポタリ、ポタリと光を失った眼部パーツから、油が滴った。
補給することもままならず、長期に及んだ作戦は潤滑剤を真っ黒に変えてしまっていた。
頭部の頬を伝う油はまるで血の涙を流しているようだ。
「──」
樹はフラリと立ち上がった。
転生して13年。初めて踏みしめた大地は、血と灰と熱。そして、死の匂いに満ちていた。
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──3年後
1台の乗り合い馬車が停留所に停まると、二人の人影が吐き出された。
二人はフード付きのローブを羽織っており、一人は長身。もう一人は小柄で長身のフードの人物の胸程までしか背丈がなかった。
「じい。馬車の中で隣の臭い息の男が、汚い手で足を触ってきたのに何故止めたの」
小柄な人物は凛とした声で長身の人物を見上げた。
目深に被ったフードの下からは、真っ赤な瞳が怒気に満ち、爛々と輝いていた。
「シッ、お嬢様。大きな声を出してはなりません。ここでは、噂は風よりも早く広がると言われているのです。お嬢様の手が出る前に、馬車を降りれたのは幸いでした」
長身の人物からは、初老近いと思われる温和な口調が印象的な声が聞こえてきた。
「そうね、オルソン。確かに、あの雑巾を詰め込んだ様な臭い馬車で私がキレて暴れていたら問題だわ。でも、私達が馬車を降りても結局、問題は向こうから来るみたいよ」
「ふむ、確かにちんぴらが5人。完全に囲まれましたな」
オルソンと呼ばれた男性が嘆息する。
「まぁいいわ。馬車の中での鬱憤を晴らせそうじゃない」
小柄なフードの女性が嬉々とした声をあげた。
「全くライ⋯⋯おっと失礼、リル様。あまり派手なことはしないでくださいよ。ただここで、彼らには手痛い目にあってもらったほうが、余計なちょっかいをかけてくる者は減るでしょう」
オルソンはそう言うと、二人を取り囲む様に近付いてくる男達を見回した。
「おい、さっきから何をブツブツと言ってやがる。大人しく金目の物を出せ。あと⋯⋯そうだな、そっちのチビは声からするに女だな?ヒヒッ、こいつはついてるぜ。このまま攫って奴隷商に売り飛ばしちまおう」
男達の中で、一際屈強な身体を持つ男が嬉しそうに下卑た笑みを浮かべた。
「おい、お前らっ!爺さんは殺しても構わねぇ。そっちの女は生け捕りにするぞ!」
男は威勢よく仲間たちに声をかけた。
しかし、その声に応じる者は誰もいなかった。
「おい、何をボサッとしてる──!?」
男は、返事がないことを不審に思い、仲間たちを見回し驚嘆した。
「ふむ、所詮ちんぴら風情ですな。他愛もない」
ドサッ、ドサッ。
声を出すこともなく、男の仲間たち4人が地面に倒れ込んだ。
「なぁに。ただ単純に風魔法で作った空気の塊をみぞおちにぶつけてあげただけですよ。命までは奪っていません」
オルソンはそう言うと、少し浅くなったフードを再び被り直した。
「は、ははっ。攻撃魔法を使えるぐらいじゃねぇと、こんなとこにわざわざやってこねぇよな。だがついてるぜ、じぃさん。じぃさんは風属性、それに対して俺は火属性の魔法使い。相性の上では俺が有利ってことだ」
男が火属性と喋ったのを聞き、オルソンにリルと呼ばれた少女の身体がピクリと反応した。
「あなた、折角の魔法をこんなくだらないことに使っているの?」
リルの声は怒りに満ちていた。
その怒気に当てられたのか、男は思わず一歩後退りした。
「う、うるせぇ!貴様みたいな世間知らずのガキに言われる筋合いはねぇんだよ。もった才能で楽して稼ぐ、それの何がいけねぇんだよ──なあっ!」
男は怒りを露わにすると、右手を払った。
小さく詠唱を唱えると、男の右手から火柱が出現し、一直線にローブを纏うリルへと飛来した。
周囲にブワッと熱気が巻き起こり、火は一瞬にしてリルのローブを赤く染め上げた。
ヂリッと不快な音をたてて、ローブが火に包まれる。
「ハンッ、バカにしやがって。売り物にならなくても、金目のものくらい持っているだろう。次は爺さん、あんたの番だ」
男はそう言うと、完全に炎に包まれたリルを無視してオルソンへと向き直った。
オルソンは、そんな男を哀れむような冷たい視線を送ると、今にも崩れ落ちそうな程に燃えているリルへ声をかけた。
「リル様、ローブは一着しかないのです。何故わざわざ相手の魔法を受けるのです」
オルソンは、困ったものだというふうに額に手をあてた。
「おい、爺さん。朦朧したのか?お前の連れは火だるまだ。助かるはずがねぇだろ?」
男は、視線をリルへと戻した次の瞬間、男は凍り付いた。
「折角の魔法、それも私と同じ属性の火なんだもの。ちょっと受けてみたくなったのよ」
リルのローブは確かに燃えていた。
しかし、燃えているのはあくまでもローブだけだった。
燃え盛っていたローブは炭となり、火の勢いは徐々に弱まっていく。火に包まれていたローブの中から現れたのは、火傷一つ負っていない少女の姿だった。
燃え盛る様な赤髪。そして、髪色とは全く異なる透き通るような白い肌。彼女が身を翻すと、炭となったローブが勢いよく風に巻き上げられた。
ローブの下からは、刺繍が施された白いワンピースに黒いスカートを身に纏った可憐な少女が現れた。ふくらはぎまで覆う皮のブーツは、先程まで火に覆われていたとは思えない程に一切の汚れをつけていなかった。
「な、なんだお前は?火の魔法使いだって!?いくら同属性といっても、服まで無傷なんてことあるはずが⋯⋯」
文字通り、凍り付いた様な表情を浮かべる男は、今となって理解した。
この二人に関わるべきではなかったのだと。
「どんなものかと喰らってみたけど⋯⋯はっきり言わせてもらうわ。こんな温い炎なんて、何も熱さを感じないわよ」
リルは不敵に笑うと、パチンと指を鳴らした。
その音と呼応して、男の周囲を炎の輪が出現した。
「な、なんだこれは⋯⋯!ヒッ、熱いっあつっ!!熱いっ!」
ジリジリと狭まる炎の輪に、男が悲鳴をあげた。
「いい?これに凝りたら、二度と追い剥ぎみたいな真似はやめるのよ?あんたみたいな奴のせいで、火魔法使いの印象が悪くなるのは最悪だから。──そして、ハイッ」
「熱っ!?、な、なんだ?」
リルの言葉と共に、男を縛り上げようとした炎の輪は消え去り、代わりに男の右腕には複雑な紋章を形どった火傷の跡が浮かび上がった。
「それは、呪印よ。今後私達のことを喋ろうとしたり、悪事を働こうとしたら、その刻印が発動してあんたを燃やし尽くすから。分かったかしら──?」
やんわりと諭す様なリルの口調を聞き、男は震え上がった。
「そんな、呪印まで刻めるのか──っ。嫌だ、嫌だあっ!!」
男は自分が見逃されたことを知ると、仲間達を置いて一目散にその場から走りだした。
「リル様、ローブというものは素性を知らせぬために纏っているものです。それをまぁ、喰らってみたいからという理由で炭にしてしまうとは⋯⋯。はぁ、全く先が思いやられますな」
オルソンは、ローブを失ったリルを見ると額に手を当てた。
「そう怒らないでよオルソン。馬車の中でのことも合わせたら本当は火柱の一つでも起こしたくなる程だったのよ。そんなことをすれば、オルソンのローブごと燃やし尽くしてしまうわ」
リルの言葉にオルソンは苦笑した。
「とはいえ、それをやらぬのがライム様の優しさというわけですな。あの呪印、実は何の効力もない入れ墨の様なものでございましょう」
リルは、目をパチクリさせると、バレていたかといった風に可愛らしく小さな舌を出した。
「えぇ、このライム=グレスオール。グレスラン帝国の第3王女の名にかけて、例え敵国といえども民を殺生する訳にはいかないわ」
リル、いや本名ライム=グレスオールと名乗った少女は、やや控えめな胸を張ると、小さく言葉を続けた。
「さぁ、待ってなさいよ『ファントム』。必ずあなたを私のものにしてみせるんだから」
前作投稿から大分遅くなり申し訳ありません。
新シリーズ、ファントムクレイドルの連載を開始致します。
前作の様に1週間に1度のペースは難しいですが、不定期ながら更新していきますので、なんだか面白そうだな。と、思って頂けたらブクマして頂けると嬉しいです。
また、ちまちまと挿絵を入れていければとも思っております。
これからよろしくお願い致します。